黒山羊塔

栄光のtimen Sie Null〈3〉前編

 「見ーつけた」

扉の開く音と共に現れたのは、明らかにこの国の者ではない服装と顔立ちをした、金髪碧眼の男だった。

「神聖ローマ」

その男は俺を見下ろして、子供達が遊び相手を見つけた時のように俺の名を呼んだ。ただし、その声色は子供達の遊びのそれではなく、大人達の残酷な敵意と殺意が表れていた。

(やばい)

俺がその男を見て思ったのは――男には何度か会ったことがあるのだが――今までの、同じ宗教を信仰する者という認識ではなく、自国への侵略者、否、もっと恐ろしいもの――死神、と言うべきかもしれない――という直感だった。

(やばい)

こんな時にこの男と出くわすとは。こんな時に。まだ死ぬ訳には――まだ消える訳にはいかないのに。

死神は何の感慨も無さそうに語る。

「前の三十年戦争。あの時オーストリアは、“神聖ローマは死んだ”って言ってたんだけど――」

信じられないことを言いながら、男は俺にじりじりと歩み寄って来る。俺は男の言葉に呆気に取られて動けない。

「確かにあの後からお前の姿は見ないし、その代わりにオーストリアが“神聖ローマ”代表として振る舞っていたり、プロイセンとまさかの“神聖ローマ”国内で内紛を始めたりするから、俺も本当に死んじゃったのかなと思ってたよ? でも――」

男は腰に下げた剣の柄に手を添えて、

「やっぱり生きてたね」

何のためらいも無く抜剣した。俺はそれで初めて後ずさった。驚きの余り、喉の奥から息が引っ込んでいく音が聞こえた。

 しかしそれより早く、男は俺の肩を力任せに蹴飛ばした。当然、反応なんて出来ず、レンガの床に背中を強かに叩きつけて転がる。男は更に俺の腹を蹴ると、仰向けに回転した俺の体を間髪入れずに踏みつけてきた。俺は男の連続攻撃による痛みと呼吸の乱れに、腹を押さえてむせた。そこに、男が馬乗りになって伸しかかってくる。俺は足掻いて抵抗するが、男はそんなことは何でも無いように、俺の両腕を踏んで押さえつけた。俺は動けなくなる。

「邪魔なんだよね、お前」

男が俺の顎を押さえて言う。首が締りそうになる。

「だってさ、実質、お前はいないようなものなのに――いる必要なんか無いのにいるなんて、舞台を降りたくせに未だそこに執着してるみたいでさ。お兄さん、すっごく見苦しいと思うよ?」

字面だけならただ嘲っているだけだが、この男は冷酷に――その手に持った剣の刃のように鋭く残酷に言い放った。ちっとも笑わず、ただ無表情だった。男は剣を、俺の喉に向かって逆手に構える。

「それに、オーストリアやプロイセンや他の奴らも、舞台から降りてもらわないとだし。まだあいつらは、お前を舞台に上げる気はあるみたいだからね。そうなる前に邪魔者を消しておかないと。そろそろ俺だって舞台の真ん中で主役を演じたいんだよね! わかりる、神聖ローマ?!」

男は妙に饒舌になっていた。男が喋っていて、顎を押さえる手が緩んでいる間に抜けようとしたが、動いた途端に、「という訳で」と再び押さえられる。

「邪魔者のお前は、お兄さんが今度こそ消すから。次からは観客として楽しんでね?」

剣の刃がちかりと光った。一瞬、俺の死神の残忍な笑顔が見えた。

(嫌だ)

俺はただ、俺の死を――消滅を拒絶する言葉だけを考えた。

嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ、死にたくない。まだあの子の元へ帰っていない、まだあの子に再び逢えていない、まだあの子との約束を果たせていない、否。まだあの子に、 に――!

(嫌だ、こんなところで死ぬなんて、消えるなんて嫌だ……!)

勿論、俺の死神にはそんな思いなど知る由も無い。死神は断頭台に立つ死刑執行人さながらに――この時初めて嗤ったのを見た――、

「じゃあ神聖ローマ、永遠に。アデュー」

ご機嫌そうにそう言って、ギロチンの鎌のように剣を振り下ろした――

( ……!)



そして“俺”は、

あの子に逢えなくなった。

あの子との約束を果たせなくなった。

あの子の元へ帰れなくなった。

これは“警告”だ、ルートヴィヒ。

今までのまま進むなら、今のうちに引き返さないなら、

失敗を繰り返すのなら、

“お前”はまた、大切なものを失うぞ。


   *


自分の喉元に刃が振り下ろされた気がして飛び起きた。自分の嗚咽の声に混じって、鳥が心地良く鳴いているのが聞こえる。

 俺――ルートヴィヒは、乱れた呼吸のまま、喉元に手をやった。首がつながっているのを確認して――かすり傷の一つも出来ていなかった――安心して、溜め息をつく。

 窓の外を見て、そろそろ起床時間だということを思い出す。だというのに、俺の頭の中では未だに“俺”――神聖ローマだった――の声が反芻していた。

(これは“警告”だ、ルートヴィヒ)

(“お前”はまた、大切なものを失うぞ)

「“大切なもの”、か……」

一瞬、ある男の顔が頭をよぎった。俺はその嫌なイメージを振り払うように首を振ると、再びそのイメージが戻って来ないうちにさっさと着替えを済ませて階下へ降りてしまおうとした。

 すると、玄関からこの屋敷の主人――ローデリヒだ――の声と、客人と思われる男の声がした。何やら言い争いをしている様子である。が、俺にとっては客人のほうが問題だった。わざわざ顔を確認しに行かなくても分かる客人は、俺の兄――ギルベルトなのだから。


   *


 「よう坊っちゃん、ご機嫌麗しゅう!」

朝から他人の都合というものを考えずにやって来たこの男――ギルベルト・バイルシュミットは、私――ローデリヒ・エーデルシュタインと顔を合わせるなり、嫌に上機嫌な様子でそう言った。

「何なのですか、ギルベルト。こんな早朝から訪ねて来ないでくださいませんか、近所迷惑ですよ」

調子の良いギルベルトとは逆に、私は朝早くから自分のペースを崩された気がして不機嫌だった。眉間にしわを寄せながら私は言う。

「用が何も無いのならお帰りいただけませんか?」

「待て、おいローデリヒ!」

扉を無理矢理閉めようとして、それに焦ったギルベルトが声を上げる。

「用ならある! ルートヴィヒ、ルートヴィヒを迎えに来た!」

その言葉に、私は扉を閉める手を止めた。そういえば、前にギルベルトが今日ルートヴィヒを迎えに来ると言ってましたっけ。しかし、

「すみませんがギルベルト、まだルートヴィヒは帰りたくないと言ってますので、また後日、出直していただけませんか」

私はギルベルトに言った。死角から気配がする。ギルベルトは私の言うことに納得できない様子で、

「何でだよ」

とむくれる。

「未だ彼は、心の整理がついていないのでしょう。ここ数年の出来事で色々とショックを受けていてもおかしくないですし、それに――」

私は静かに、彼にそう言った。――多分、死角にいる彼にも聞こえているだろう。

「我々に対しても思うところがあるでしょう」

ギルベルトは私の言葉に苦い顔をして、

「ルッツがそう言ったんだな?」

確認するように言った。

「ええ、確かですよ」

「別に今更北ドイツ連邦と同盟とか考えてねえよな?」

「……貴方は、私が今更そういうことをすると思うのですか?」

私はギルベルトの言葉に苛立つ。ギルベルトはそれに気付いたのか、

「あ、いえ、無いです……」

そう言った。

 「しかし困ったな。ルッツが帰らないとなると、やっぱり強硬手段を使うしか――」

ギルベルトが呟く。“強硬手段”?

「貴方ならルートヴィヒが帰ろうと帰るまいと、その“強硬手段”とやらは使うのでしょうが……、どことするのです?」

彼にとって――というより、昨今のヨーロッパにとって――“強硬手段”とは軍事行動の代名詞だ。外交で何ともならない分、最終手段で軍事行動に出るのが一番手っ取り早い。力に物を言わせるのが当然の時代だ――これからもそうであるように。

ギルベルトもわたしの言うことを否定せず、後ろ頭をぽりぽりと掻きながら答えた。

「まあ、お前には話しても良いけど、っていうか知ってるか。――フランス」

「やはりそうですか」

ギルベルトの言う通り、私も彼――プロイセン――が、今後軍事行動に出るならフランスだろうとは思っていた。それは前のプロイセンと私――オーストリアの戦争の講和の席をはじめ、様々なところでの彼らの行動に表れている。

「確かに、最近の彼の行動は目に余りますし、今後のドイツのことを考えれば、一回黙って戴いたほうが良いとは思います――けど、それとこれがどうつながるのです?」

「ああ、ローデリヒは知らないんだっけか」

私の質問に、彼は一瞬だけキョトンとしながらも答えてくれた。

「北ドイツ連邦諸国と同盟国との決まりでな、“先に宣戦布告された場合のみ、協力してくれる”ってことになってるんだぜ!」

「なるほど」

前の戦争で“プロイセンを中心に、オーストリア以外のドイツ諸国でまとまる”ということが決まったといえ、まだまだ烏合の衆だ。それをプロイセンは、戦争を機に一致団結させるつもりらしい。

「でもギルベルト、“先に宣戦布告され”ないと、なのでしょう? どうするのですか」

私のその質問に、ギルベルトは目をそらした。長い間の後、彼は珍しく自信無さげに、ぼそりと呟いた。

「それは、目下考え中だ……」

その時、我が家の電話が鳴った。私が振り向くと、ちょうど私の後ろをエリザベータが駆けていった。どうやら彼女が取ったらしく、電話はすぐに鳴り止んだ。電話の内容も短いものだったらしい。彼女はすぐにこちらへ戻って来た。

「何のお電話でした?」

私はエリザベータに訊いた。

「プロイセン王国参謀本部から、ギルベルトがこっちに来てるはずだからと、伝言を……」

「俺宛て?」

エリザベータの言葉に、ギルベルトが身を乗り出す。

「何かあったのか?」

ギルベルトが訊ねると、エリザベータは少し不快そうな表情をして答えた。

「フランスから大使が来るらしいから、急いで帰って来てくれって」

「そうか」

ギルベルトは暫く考えるような素振りをした後、

「分かった。ありがとな」

と言った。その言葉に、エリザベータは意外なことが起こった時のような表情になる。

「帰るのですか?」

私はギルベルトに訊ねた。

「ああ、本部から呼び出されたんじゃしょうがねえ。また今度出直して来るから、それまでルートヴィヒのことは頼んだ」

「了解しました」

 ギルベルトは足元に置きっ放しの荷物を持って、屋敷の門のところに待たせていた馬車のほうへきびすを返そうとし、不意に何かを思い出したように

「ああそうだ」

とこちらを振り返った。

「もし、これからフランスと戦争になった時は手を出してくれるなよ」

「それこそ愚問ですね」

私はギルベルトの言葉に返答する。

「私は、もうこの問題に口も手も出す気はありませんし、それに」

私はここで、無意識のうちに語気を荒くして、

「貴方は私がフランスに与するとお思いなのですか、ギルベルト?」

と言い放っていた。ギルベルトは少し威圧されたようになっていたが、納得したように、

「そうだな」

口を三日月のように歪めて笑って、

「お前がフランス側に回る訳が無えよな」

と言った。

「それじゃあな」

ギルベルトは今度こそ馬車の方へ歩き出す。

「エリザベータと仲良くしてろよ?」

「な」

赤くなって過剰反応ともとれる行動をしたのはエリザベータだった。

「何言ってんの? 喧嘩する訳無いじゃない、さっさと帰れバーカバーカスットコバーカ!!」

何も親指を下に向けてまで言うことでは無いと思いますよ、エリザベータ。ギルベルトはそんな彼女の反応を面白がっているようにケセセと笑って馬車に乗り込むと、

「戦争が終わって無事統一出来たら、俺達とも仲良くしてくれよ、ローデリヒ」

私はニコルスブルグでのギルベルトの言葉を思い出す。

「勿論です」

私がそう返す間に、彼の乗った馬車は行ってしまった。


   *


 「さて」

私は一息つくと、死角の方を向く。

「長く待たせてしまって申し訳ありません、ルートヴィヒ」

話しかけると、死角に隠れていた彼が出て来た。苛々しているような、不快そうな顔をしている。

「貴方の兄は帰しましたけれど……良かったのですか?」

「ああ」

私が訊ねると、ルートヴィヒが不機嫌そうに答えた。

「まだローデリヒの言う通り、未だ俺は落ち着いて兄貴と話せそうに無い」

ルートヴィヒがうつむく。やはり、ニコルスブルグでの一件もそうだが、今までのことで思い惑うところがあるのだろう。

「ルートヴィヒ」

「ローデリヒ、すまないが――」

私の言葉を遮ってルートヴィヒが言葉を発する。彼は苛立ちを隠せぬ表情のまま、顔を上げて、

「聞いてくれるか、話を」

そう言った。


   *


 その年の八月、俺ことフランシス・ボヌフォワは、普墺戦争の仲介役として講和会議に参加するべく、上司と共にプラハにいた。

 結局、俺の“プロイセンとの約束なんか破って、良い頃合いを見計らって戦争を目茶苦茶にしちゃえ”作戦は、当事者達が戦争そのものを速攻で終えてしまったために、失敗した。そこで俺は、仲介者として関わることで、今後に影響を残すことにしたのだ。

(まあ、プロイセンとの約束は守ったことにはなってるんだから、別に収穫が無いって訳じゃないんだけどな)

 俺は戦いの起きる一年前に、プロイセンとある約束をしていた。そのことで、俺は会議の後、プロイセンに会いに行ったんだ。

プロイセンは、何やら廊下で自分の家の首相と話をしていた。少し無理矢理に割って入る。

「やあぷーちゃん、それとビスマルク首相。公使をしておられた時以来ですね、お久しぶりです」

プロイセンが物凄い剣幕で睨みつけてくる。この前より反応が酷くないか? 一方、首相のほうは、表情ひとつ変えずに、

「おお、お久しぶりですフランス殿。相変わらず顎髭が素敵ですな、剃ればもっと素敵ですが」

と、相変わらずの酷い物言いの挨拶を――フランス語自体はすごく綺麗なのに――返してきた。お兄さんはビスマルクに友人がいるのか、自国民でもないのに心配です。

「それで、何の用なんだフランス。用も無いのに他国の話に口突っ込みました、なんて訳無いよな?」

苛立った口調でプロイセンが話しかけてくる。

「それとも私は席を外したほうが良いですかな?」

プロイセンの口調に対して、この首相は落ち着いていた。俺もいつも通り冷静に話す。

「いや、首相も居てくれて構いませんよ。用というのは今回の報酬のことでして」

「“報酬”……?」

「やだなあ!」

顔をしかめるプロイセンに俺は言う。

「今回の戦争を黙って傍観していたら、ライン川の左岸をくれるって約束だったじゃないの!」

プロイセンは顎に手を当てて考える素振りを見せると、ビスマルク首相と一瞬視線を交わし、

「さあ? 何のことだか……」

と答えた。

「はあ?!」

そのふざけてるとしか思えない回答に、俺は耳を疑った。重ねてプロイセンが言う。

「俺はそんなこと一言も言ってねえ。そうだろ、ビスマルク?」

「はい」

プロイセンの言葉にビスマルクが同意する。

「私もフランス皇帝ナポレオン三世陛下と会談させて戴きましたが、そのようなことは申し上げた覚えは一切ございません」

「んな馬鹿な、俺はちゃんと――」

 ちゃんと約束したかどうか不安になってきて、俺はその時の記憶をたぐり寄せた。俺は、ちゃんと――



加勢して欲しいんだったらライン川の左岸をくれないと駄目だよ?

誰も“加勢してくれ”なんて言ってねえよ!


プロイセンがオーストリアと戦っている間、俺は傍観してるってわけね。なにそれ妬ける! でもそれだけでライン川の左岸もらえるのならそれでも良いかも!

一人で興奮してんじゃねえ、気持ち悪い。


「あ……」

「だろ?」

プロイセンが嗤う。

「俺は一言もライン川の左岸なんて言ってねえ。全部お前の思い込みで、勝手な妄想だろ? それに――」

俺は、奴の口が三日月のように歪むのを見た。

「お前だって分かってただろ? “こんな口約束、守るわけない”って。なあ、フランス?」

「まさかお前、ってかお前ら……!」

俺が、フランスが、何らかの形で介入してくる前に――軍事介入してくる前に、そうなることを先読みして、戦争を早期に終わらせたのか?!

プロイセンの赤い眼が苛々するくらい鋭く光る。

ああもう、こいつ早く何とかしないと。


   *


 俺――ギルベルト・バイルシュミットは、“フランスから大使が来る”という報告を訝しみながらも、オーストリアから一路、本国プロイセンの首都であるベルリンへ戻った。

早速、ビスマルクの元へ向かう。

「今戻ったぞ! 一体どういう――」

ことだ、とノックするのも忘れて執務室へ入る。肝心のビスマルクは、中央の机で黙々と書類を読んでいた。

「おい、オットー・エードゥアルト・レーオポルト・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼン」

俺が声を掛けてやっと気が付いたビスマルクがこちらを見る。

「おお国家殿、ちょうど良いところへ」

「“おお国家殿”、じゃねえよ。フランスから大使が来たんだろ? ヴィルヘルムは静養中だし、お前が会ったんじゃないのか?」

「いえ? 私は大使の方には会っておりませんが……」

ビスマルクが読んでいた書類を手に、こちらへやって来た。俺は荷物を足元に置くと、その書類を受け取った。――ヴィルヘルムからの電報だ。

「フランス大使のベネデッティ伯爵は、陛下のいらっしゃるバート・エムスに直接訪ねられたようです。陛下は会見を拒否なされたようですが」

「で、その大使は何の用で来たんだ? 今フランスとの間で大使を寄越してくるようなことなんか無いだろ」

「いや、それが」

ビスマルクが虫眼鏡のレンズを拭きながら話す。

「この前のスペインの王位継承問題のことらしく」

 二年前、スペインで当時の政権に対しての武装蜂起及び革命が起こった。女王イザベル二世はフランスへ亡命し、結局は新憲法で立憲君主制となり、親王に亡命したイザベル二世の息子であるアルフォンソ十二世が就く――と思われた。しかし、革命のリーダーはこれを認めなかった。そこで、我がプロイセン王家の親戚にあたる、ホーエンツォレルン・シグマリンゲン家のレーオポルトを候補に挙げようとしたのだが、ホーエンツォレルン家の者を王とする国に挟まれることを激しく嫌がったフランスが口出ししてきたのだ。

 「でもアレは本人もヴィルヘルムも気乗りしないから、こっちが折れたじゃねえか」

俺は反駁する。ビスマルクも半ば面倒そうに、

「フランス側は譲歩だけじゃ気が済まなかったということでしょうな、陛下も電報の様子を見る限り、かなりご立腹のようですし」

さて、どうしたものか、とビスマルクがうなり声を上げた。

 その時、執務室のドアを叩く音がした。俺はビスマルクに書類を押しつける代わりに、足元に置きっ放しだった荷物を持って、扉の前から退く。「失礼します」の声と共に扉が開き、精悍な風貌の男が現れる。――参謀総長のヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケだ。

「やはりこちらにいらっしゃいましたか、国家殿」

モルトケがいつも通りの仏頂面で言う。

「ああ、探したか?」

「いえ、ヨハンめに“白ウサギのような男はどこか”と訊いたところ、すぐに」

自分の甥にまで“白ウサギのような男”を広めたな、ヘルムート。俺は微妙にうんざりした気分になる。当然、モルトケはそんなことは気にせずに、

「ではお帰りのところ早速で申し訳ないのですが、作戦計画の見直し案を国家殿にも是非見ていただきたく――」

と言ってくる。俺は答える。

「良いけど、作戦計画見直すの何回目だよ? 悪いことじゃねえけど……」

「かれこれ十回以上はしております」

モルトケはそう平然として言うが、その言葉には若干の皮肉が込められているような気がした。それが分かったのか、ビスマルクが口を利いた。

「戦争を始めるにしても、その前の外交で失敗する訳にはいかんのだ。ローンが陸軍の準備は万全と言い、モルトケが一分の穴も無い作戦を立てようと、それは同じだ」

座りながら、電報に目を移す。そのビスマルクの様子を見て、モルトケがぼそりと漏らす。

「お前なら偽の情報の一つや二つくらい捏造しそうだがな、ビスマルクよ」

それに「失礼した」と付け加えて、モルトケは退室した。俺はそれを目で追いながら、

「それが出来たら、こんなに苦労しねえよなあ……」

と呟く。この時、俺はビスマルクが「捏造……」と独り言を言うのを聞いた気がした。

  • 初出:pixiv「【ヘタリア】栄光のtimen Sie Null 《3》 前編」2012年5月20日投稿
  • 参考書籍
    • セバスチァン・ハフナー『図説プロイセンの歴史―伝説からの解放』東洋書林
    • ジェフリー・リーガン『ヴィジュアル版 「決戦」の世界史 歴史を動かした50の戦い』原書房
    • 渡部 昇一『ドイツ参謀本部―その栄光と終焉』祥伝社
    • 日本語版Wikipediaより、『オットー・フォン・ビスマルク』『ヴィルヘルム1世』『ヘルムート・フォン・モルトケ』

栄光のtimen Sie Null 《3》 中編

 予想していた通り、話は朝食後に、書斎で、ということになってしまった。俺――ルートヴィヒは、部屋の中央に配置されたソファに座り、ローデリヒは向かい側の椅子に腰かけている。横のほうでエリザベータがコーヒーをカップに注ぐ音が聞こえる。

「ルートヴィヒ、姿勢が悪いですよ」

ローデリヒが、俺のうつむき気味の姿勢を注意するが、俺は無視した。ローデリヒもそれ以上何も言わなかった。音が途切れ、目の前にブラックコーヒーで満たされたカップが差し出される。エリザベータはローデリヒの前にも同じ物を出すと、ローデリヒの「ありがとうございます」という言葉だけ受け取って出て行ってしまった。

「貴方と面と向かって話すのも久しぶりですね」

初めに口を開いたのはローデリヒだった。いつもと変わらない、穏やかな様子でローデリヒは話す。

「覚えていますか? 前にこの部屋で、ちょうど今のように座って話した時のことを」

「ああ」

俺はそのままの姿勢で答えた。姿勢のせいか気持ちのせいか、声が沈んで聞こえる。

「シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争の前――六年前のことだ」

「早いですね、もうそんなになるのですか」

ローデリヒが懐かしそうに言う。

「そうだな」

俺もローデリヒに賛成する。

「ここ数年、いろんなことがありすぎて、付いていけてない気さえする」

「何を老人のようなことを。一番変わったのは貴方でしょうに」

俺は驚いて顔を上げた。ローデリヒがコーヒーを啜っているのが目に入る。

「どういう意味でだ」

俺はローデリヒを問い質した。ローデリヒは平然と、

「成長したという意味で、ですよ」

と答える。

「背もすっかり伸びましたし、子供っぽさが無くなりましたから」

ローデリヒはコーヒーカップをテーブルの上に戻した。

「そうか……」

そう言って、俺は視線を落とす。

 「それで、私に話したいことがあったのではないのですか? ルートヴィヒ」

ローデリヒが椅子に座り直しながら話す。

しかし、いざ本題に入ろうとしても、その言葉は口に出そうとするたび、喉の奥へ引っ込んでいく。

それを察したのか、ローデリヒが続けて、

「また“国”になるのが嫌なのですか?」

その問いに、俺は少しほっとして小さくうなずく。少し顔を上げて言う。

「俺は一度、大切なものを失っている。それをまた失うのが怖い」

やっと言いたかった言葉を吐き出して、再び床に視線を戻す。しかし、ローデリヒが返してきたのは、意外にも辛辣な一言だった。

「何を甘ったれたことを」

その言葉に、俺は驚いて顔をばっと上げた。ローデリヒの厳しい表情が目に入る。ローデリヒは有無を言わさずに続けた。

「何かをしていて、何かを失うのは当たり前のことでしょう?」

「失って当たり前だと?」

「ええ」

すんなりと言う。しかし俺は未だ納得のいかないままだ。俺はローデリヒに問う。

「俺は、“失いたくない”という話をしているんだ。大切なものを失わないようにするにはどうすれば良いんだ?」

ローデリヒは、単純に、明瞭に答えた。

「失わないように選べば良いのですよ、お馬鹿さん。自分が思う通りに――後で、良かったと思うように、後悔しないように選択すれば良いのです」

「選択……」

俺は、ローデリヒの言ったその言葉を復唱する。一方で、ローデリヒはコーヒーカップを覗き込むようにして、

「私は選びましたよ、あの時――」

ぽつりと、

「貴方を生かすことを」

呟くように言った。


   *


 既に条約の内容は決まっていた。間も無く、新しいヨーロッパの秩序になるそれは締結されるだろう。

(けれど、彼は黙ってはいないでしょうね)

新しいヨーロッパの秩序は、同時に旧い秩序を崩壊されるに等しいものだ。――すなわち、神聖ローマ帝国のあり方そのものを。しかし、

(ごめんなさい、神聖ローマ。こうするしか――)

私は兵を引き連れて、彼のいる部屋へ急いだ。手には抜き身の短剣を握っている。

(こうするしか、無いんです)

でも、とふと思った。本当にこれで良いのだろうか、こうするしか無いのだろうか?

あの子の顔を思い出す。

――気が付いたら、私は短剣を鞘に納めていて、代わりに手刀を、神聖ローマの鳩尾に打ち込んでいた。

(ごめんなさい、神聖ローマ)

最後に神聖ローマは、やはり納得していなさそうな顔をして意識を手放した。私は私の腕に寄りかかって眠る彼を見下ろして思う。


ごめんなさい。


   *


 ローデリヒはそう一通り話すと、コーヒーを口に含んだ。表情も落ち着いて穏やかに見えるが、俺はそうとは言えなかった。ローデリヒに訊ねる。

「何で殺さなかったんだ?」

自分のことなのに、まるで他人事のように、俺はその問いを口にした。ローデリヒは、そんなことを気にする様子も無く答えた。

「貴方が誰にも必要とされていないようでしたら、私は構わず殺していたでしょうね。でも、」

ローデリヒがコーヒーカップをテーブルへ戻す。

「貴方という――神聖ローマという“国”が必要とされなくなっても、貴方“個人”を必要とする者はいましたからね。貴方を殺したことで泣かれてしまうのは困りますし」

俺は自分のコーヒーカップに視線を移した。自身の顔が鏡のように映っている。

(俺“個人”を必要としてくれている人、か)

 でも俺は――

 それを考えると、頭の隅がずきりと激しく痛んだ。俺は――

 「ルートヴィヒ? 大丈夫ですか?」

一瞬、意識が飛びそうになったところを、ローデリヒに肩を揺すられて戻される。俺ははっとして、コーヒーを一口飲んで「大丈夫だ」と首を縦に振る。ローデリヒは怪訝そうな顔をし、溜息を一つ吐いて、

「とにかく。選びなさい、失わないように。それしかありません」

そう言った。俺はいまいち治まらない頭痛に顔をしかめつつ、コーヒーカップをテーブルの上に戻す。

「たとえ結果が伴わなくとも、“国”が“否”と言っても、自分が良いと思ったことをしなさい。私達は“国”ですが、同時に“個人”なのですから」

平然として、ローデリヒはそう言ってのけていた。


   *


 ここ数年で、新聞に度肝を抜かれる出来事が急に増えたと感じるのは、多分気のせいでは無いだろうけど、今回のは特に酷かった。

 気がついた時には、俺は皇帝の御前という事実を忘れて、今朝の新聞を思い切りくしゃくしゃにしてびりびりに破いて、とどめに靴のヒールでぐりぐりと踏みつけた後だった。息が荒い。

「落ち着いたか、フランスよ?」

皇帝ナポレオン三世が訊いてくる。俺ことフランスは、呼吸を整えながら、今や紙くずと化した新聞を拾いながら、

「あー……大分ね。出来れば暖炉で燃やしたいんだけど、夏だしやめておくよ。……うるさかった? シャルル」

シャルル――皇帝の名前だ――は、頬杖をついて憂鬱そうに別の新聞に目を向けている。

「ああ、特にお前の金切声がな」

溜息をついて、コーヒーを一口飲んで、

「あと新聞を破くのはそれだけにしてくれぬか、私の分が無くなってしまう」

「分かってるって」

俺はそう返事をし、紙くずをゴミ箱へぶち込んで、シャルルの机へ歩み寄った。新聞を覗き込む。

シャルルの読んでいる新聞や、俺の引き千切った紙くずをはじめとする今日の朝刊は、皆一様に同じ内容を報じていた。

「“プロイセン国王、無礼なフランス大使に将来にわたる王位立候補辞退を脅迫され立腹、これを強く追い返す”! 何だよこれ、全く馬鹿げてる!」

俺はまくし立てるが、シャルルは気だるそうに新聞を閉じると冷静に、

「確かに納得いかぬが……」

一つ溜息をついて、

「とにかく事実確認を――」

「皇帝陛下?」

シャルルの言葉を遮って俺は言う。シャルルの表情は、ヨーロッパ中を席巻した偉大なあのお方のそれよりも、気力の衰えたおじさんのようだった。

「らしくないねえ、シャルル? いつもの自信満々な君はどこへ行ったんだ?」

顔を見ると、シャルルは一瞬驚いたようになったが、すぐにそっぽを向いて黙り込む。俺は後ろにあった窓に近付くと、

「事実確認もいいけどさ、もう無意味だぜ? だってほら、」

勢い良くそれを開け放って言った。

「街中――いや国中こんなだもん」

開け放った窓から、いっせいに“ラ・マルセイエーズ”の「打倒プロイセン!」と叫びながら行進する人々の声が飛び込んでくる。時折「皇帝ナポレオン万歳」も聞こえた。窓に背を向けるシャルルに俺は言い放つ。

「国民皆が、貴方と戦うことを望んでいるんだよ、シャルル! 偉大なあのお方の甥であるナポレオン三世、貴方と!」

俺はシャルルの背に近付こうとしたが、逆にシャルルは窓のほうへ逃げてしまった。俺は続ける。

「俺は貴方を選んだんだ。貴方が俺の期待に応えてくれることを期待してね、なあシャルル?」

沈黙が流れる。“ラ・マルセイエーズ”と、「打倒プロイセン!」と叫びながら行進する人々の足音がよく聞こえた。“ラ・マルセイエーズ”がループに入りそうになったところで、シャルルがやっと口を開いた。

「フランスよ」

俺は呼びかけに答える。

「なあに、シャルル?」

「プロイセンに勝てる自信はどのくらいあるのだ?」

窓の外を向いたまま話すシャルルに、俺は笑顔で、

「勿論ばっちり! 俺は天下のフランス様だぞ、負ける訳無いじゃない!」

そう自信満々に言った。シャルルは「ふむ……」と息をつくと、

「フランスよ、私はお前や国民に選ばれし皇帝だ。今こそ私はその期待に応えてみせよう」

俺のほうを振り向いて、

「この、偉大なる伯父を持つ、ナポレオン三世がな」

皇帝の顔で、そう言った。


   *


 今朝の新聞の内容はかなり衝撃的だった。おかげで朝食のハムを、もう少しで喉に詰めるところだった――のを、寸前でうまく飲み込む。無事に朝食を終えると、俺――ギルベルト・バイルシュミットは、新聞の内容が衝撃的になった原因を作っただろう男の元へ急いだ。

 ノックとの間隔をほとんど空けずに執務室へ入ると、その男――ビスマルクはいけしゃあしゃあと、書類仕事に励んでいた。

「おはようございます、国家殿」

「よう、オットー。良い朝だな――ってそんなのはどうでも良いんだよ、良くねえけど!」

「どちらなのですか」

ビスマルクと話していると、かなりペースを乱される気がする。とにかく、ここに来た目的を済ませる。

「お前もついに事実捏造に走ったのか?」

問題の朝刊をビスマルクの前に突き付けて問いつめる。一方のビスマルクはけろりとした表情のまま、

「まさか、そんなことする訳無いでしょう」

と、昨日の電報を差し出してきた。俺は一旦新聞を引っ込めると、差し出された電報と問題の記事とを見比べた。ビスマルクは続ける。

「私は報道のために電報の文面を編集こそしましたが、改竄や捏造などは一切行っていませんよ? 陛下の電報が正真正銘本物であることは、国家殿も良く分かっているはずでしょう?」

確かに、ヴィルヘルムがバート・エムスから送ってきたこの電報は、間違いなく捏造ではないし、文面も――新聞のほうが苛立ちを覚える内容に仕上がっているとはいえ――一緒だった。

「苛つくように“編集”したのはわざとか?」

俺はビスマルクに訊ねる。

「はい」

ビスマルクは平然と答えた。

「意図的にフランス人と我が国民達の憎悪を煽り、互いを挑発する内容に“編集”してあります」

「なるほどなあ……」

俺は納得するが、未だに心の底では何かが燃えるような、煮えるような感覚がしていた。

 眉間にしわが出来ているのは、いちいち確認しなくてもわかる。そんな俺の顔を見て、今度はビスマルクが訊いてきた。

「やはり苛々しておいでで?」

「まあな、説明されて納得しても、嫌なもんは嫌なんだよ」

「国民もそういう反応を返してくるでしょうか?」

ビスマルクが、珍しく俺の機嫌をうかがっているようなことを言った。不思議に思いながらも、俺は返す。

「全てじゃないだろうが、大多数は苛立ちを隠せないだろうな。一応、俺も“国”だし」

「ふむ」

ビスマルクが口元を歪めたのを見て、俺は気味が悪くなった。

「おい、なんでそんなことを訊くんだよ、オットー?」

俺が訊くと、ビスマルクは

「いえ、新聞記事の効果を確認するためですよ。しかし、国家殿の反応を見て確信できました。大変ありがとうございました」

「おい」

何をさらりと言ってんだ。

「お前は俺を何だと思っているんだ、オットー?」

「“国家の化身”ですね」

「おう、その通りだが、お前の場合は微妙に意味を間違えている気がしてならねえな! それに――」

態度を崩さないビスマルクに俺は言う。

「俺の反応が分かっても、相手の――フランスの反応が分からないんじゃ、どうしようもないだろ」

この言葉に、さすがのビスマルクも言い淀むかと俺は思った。しかし、ビスマルクは俺の予想に反して、自信たっぷりに、

「いえ、大丈夫です。自国の不利益になることを二度ならず三度も起こされれば、挑発に乗らないほうがおかしいでしょう」

そう言った。

「今に分かりますよ」

 その時、ビスマルクの机の上にあった電話が鳴り響いた。俺が受話器を取ると、相手は

「どういうことだ、これは?!」

フランスではなく、我がプロイセン国王ヴィルヘルム一世だった。俺は何故かがっかりして、

「何だ、ヴィルヘルムかよ」

と言ってしまった。昨日にも増して腹が立っている様子のヴィルヘルムは、更にむかむかして、

「“何だ”ではないぞプロイセン!」

と叫ぶ。……言うんじゃなかった、本当に反省してる。

「これは戦争だ!」

 俺が電話口で叫ぶヴィルヘルムの怒号を大人しく聞いている間に、執務室に伝令が来た。「フランスが動員令発令準備に入った」という知らせを聞いたビスマルクは、

「こちらも発令準備に入る」

と伝令に伝えると、口だけで笑ってこちらを見た。

(食えない奴)


   *


 フランスがプロイセンに宣戦布告をしたという一報は、勿論、ここオーストリア=ハンガリー二重帝国の地にも届いた。とはいえ、予め当事者の一人から聞いていたせいか驚きは無い。むしろ、こうならなかったほうがおかしいのかも知れない。

「あいつはこの方面に関しては特に有言実行ですからね……」

とは、愛妻であるエリザベータの弁だ。

とにかく、もう私――オーストリアことローデリヒは、以前プロイセン――ギルベルトにも言った通り、この件については干渉しないつもりだったから、この戦争も傍観を決め込んでいた。が。

「……ローデリヒ、俺にも新聞を見せてくれないか……?」

ルートヴィヒは――当然といえば当然だが――落ち着いていられない様子だった。

「どうぞ」

私は新聞紙を元通りにたたむと、テーブルの向かい側に座るルートヴィヒに手渡した。ルートヴィヒは平静を装っているようだが、かすかに手が震えているのを見逃せるはずはない。ルートヴィヒは半ば焦りながら新聞を開く。

「――一面ですよ」

「え?」

私の言葉に、彼は吃驚した表情を見せる。

「フランスがプロイセンに宣戦布告した話題が読みたいのかと思いまして。……違いましたか?」

私が新聞記事を指して言うと、ルートヴィヒは開いたページを戻し、

「いや……、ありがとう」

そう呟いて、一面を見始めた。

私はそんなルートヴィヒの様子を見て、思わず溜息を漏らす。すると、私の隣に着席していたエリザベータが動いた。彼女はルートヴィヒの側へ行くと、コーヒーを注ぎ始めた。

「ルートヴィヒ」

エリザベータはコーヒーを注ぎながら、ルートヴィヒに訊ねる。

「あ――じゃなくて、兄さんのことが心配?」

ルートヴィヒは、一瞬だけ視線をエリザベータの方へやったが、すぐに新聞記事へ戻し、首を縦に振ってそれに答えた。

「兄さんはすぐ無茶をするから……」

「そうね」

エリザベータは即答する。それにルートヴィヒはエリザベータの方を振り向いた。エリザベータは続ける。

「あいつは昔から無茶ばっかだったわ。無茶ばかりして、死にそうな目に遭って、「今回はさすがに再起不能かな」って思うこともいっぱいあったのよ。でも、」

エリザベータはカップ六分目くらいまでコーヒーを注ぐと、代わりにミルクを入れ始めた。

「あいつはしぶとく復活してきたわ。毎度、それまで以上の力を蓄えてね」

きっと生き汚さだけは誰にも負けないのね、と彼女は付け加えた。それには、私も内心評価していたが、エリザベータがギルベルトのことを素直に褒めたことに、私は少し驚いた。エリザベータはミルクを八分目まで注ぎ込むと、それを軽く掻き混ぜる。

「あいつはこのくらいじゃくたばったりしないわ」

そして出来上がったミルクコーヒーを、不安顔のルートヴィヒの前に出すと、彼女は言った。

「これ飲んで落ち着いて、ね?」

しかし、ルートヴィヒは暗い表情でうつむいたままだ。

「ルートヴィヒ」

彼の名前を呼ぶが、こちらを向く気配は無い。私は構わず続ける。

「エリザベータの言った通りですよ。ギルベルトは確かに迎えに来ると言いました。彼が迎えに来るまで待ちなさい」

ルートヴィヒは件の新聞記事に目をやる。沈黙しているルートヴィヒに私は言う。

「大切なものだって、簡単にはなくなりませんから」


   *


 「国境を越えれば、我が偉大なる伯父や諸君らの父祖達の素晴らしい足跡が、あらゆるところに残っているであろう」

そう言って、シャルルはあのお方と、その時代の我がフランス軍の輝かしい功績を語り始めた。それを嬉々として聴く兵士達の横で、俺は静かに目を閉じる。列車の心地良い揺れに身を任せていると、あの栄光の日々がまぶたの裏に蘇るようだった。



 「我が辞書に不可能は無い、突撃ーッ!」

あのお方の命令に、エジプトを制した猛者達は「皇帝陛下万歳!」と圧倒的な勝利で応えた。オーストリアとロシアという二大国を倒した俺にはもはや敵は無く、それを悟ったプロイセンは歯噛みして悔しがりながら講和を申し出て来てくれたものだ。

 それを聴いた兵士達からは、もう「皇帝陛下万歳!」が途切れることなど無かった。シャルルの話の中の英雄達のように、フランスの栄光ある歴史を刻もうと、意気揚々としていた。そう、この天下のフランス様に勝てる国などない。

 ――そう考えていた時が、俺達にもあった。



 「――ンスさん、フランスさん」

俺を呼ぶ声に目を覚ます。声の方を向くと、度重なる戦いに疲れた兵士の顔が見えた。

「仮眠の時間は終わりましたよ」

兵士が辛さをにじませながら言う。俺は小さく「そっか」と答えて立ち上がる。木に寄りかかり、地面に直接尻を着けて寝ていたせいもあってか、ほとんど疲労は取れていないようだった。

「やはりベッドでお眠りになったほうが良かったのでは……?」

兵士が言うが、俺は眠い目をこすりつつ首を横に振る。

「いや、今や貴重な寝床を、怪我人でも病人でもない俺が使うなんて出来ないよ」

 本当に情けないことに、今のフランス軍にはあらゆる必需品――野戦病院や仮設食堂、貨物運搬車までも――が不足していた。勿論、本来ならもっといるはずの兵力も敵方のそれ以下、穴埋めに予備兵を送ってみても、彼らに軍服を支給する余裕も無い。もっと吃驚だったのは、プロイセンに攻め込むつもりがその逆だったせいで、自国の地図を持っていなかったということだ。余っていたのはドイツの地図くらいなのだった。

 こんな状態に呆れて、頭を抱えて溜息を一つ吐くと、兵士が

「やはりもう少しお休みになりますか?」

と、心配そうに言ってきた。俺は笑って、

「大丈夫。時間も時間だし、俺は戻るよ」

そう言って断る。本当は全然大丈夫じゃないんだけどね……。

 俺はシャルル達の居る司令部へ向かおうとする。すると兵士が、

「あ、すみません!」

と俺を呼び止めた。俺は振り返る。

「何?」

「皇帝陛下のところへ行かれるんですよね? よろしければ、これをお願いしたいのですが……」

兵士が差し出したのは、一通の電報だった。差出人を確認。

「ウージェニーから?! 分かった、渡しておくよ」

俺は電報を受け取ると、急いで司令部へ戻った。

 司令部は予想通り、否、それ以上に喧々囂々としていた。話し合っているというよりも、自らの主張をわめいているふうにしか見えない。

まあ、早々とヴィザンブールやヴェルトで敗北し、負けじと首都攻撃阻止に討って出たはずのアシル・バゼーヌ元帥も、今やメスに閉じ込められている。ここまで連戦連敗しまくっていたら焦らないほうがおかしい。けれど、アルジェリアやクリミア、イタリア、メキシコで名を挙げた英雄がこんな醜態を晒していると知ったら、我が国民達はどんな顔をするのだろう。

(ほんと、聞いて呆れるよ)

否、未だにこうして戦う意欲を見せているのだから、希望を捨ててはいけないのかもしれない。頑張れ、俺。

 という訳で、会議の話題は今後の方針だった。

 誰かが叫ぶ。

「我がフランス国民は、バセーヌ殿救援を望んでいる! 国民の望み通り、バセーヌ殿を救出しに行くべきだ!」

 反対側が反駁する。

「異なことを。貴様らもフランス国民ならば、バセーヌ殿よりも、もっと大切なことがあるだろう、パリだ! 首都を陥落させられればどうにもならん! パリ防御のために後退すべきだ!」

 その時、一番奥の席で厳しい表情で頬杖をついて話を聞いていたシャルルが、やっと口を開いた。「ふむ」という彼の声に、一同は一気に押し黙り、視線を向ける。

「諸君らの言い分は良く分かった。私も国と諸君らに選ばれし皇帝だ。私には諸君らにとって最も大切なものを守る義務がある」

一同は固唾を飲んで、皇帝の次の言葉を待った。

「私はパリを最後の拠り所にしようと思う」

この言葉に一同は沸き立つが、俺は逆に危機感を覚えた。慌てて声を上げる。

「皆ちょっと待て!」

「フランス?!」

皆の視線がこっちに向く。俺は先程預かって来た電報を一同の前に掲げた。

「ついさっきウージェニー皇后から届いた電報だ。結論はこれを読んでから出してくれ」

俺が視線をシャルルに送ると、シャルルは小さく息を吐いて、

「構わぬ、読んでくれたまえ」

と言った。俺は電報をぺらりと開いて、それを読み上げた。

「敗北したままパリにお戻りになるつもりなら、それは大間違いです。もしそうなされた場合、たちまち退位に追い込まれてしまうでしょう」

それを聞いた皆の表情が、一様に青くなった。このパリ市民の本音を代弁した皇后の電報に、シャルルはうなる。俺は続けて言う。

「悩むのは良いが、結論を早く出したほうがもっと良い。俺の経験則だが、プロイセンは敵を包囲しただけじゃ満足しない。こうしている間にも、あいつらは――」

「失礼致します!」

 何か仕掛けてくるぞ、と言おうと思ったが、その言葉よりも早く伝令が会議場へ入って来た。

「何事か?」

シャルルが立ち上がって伝令に訊ねる。伝令は荒い息を整えながら、

「バゼーヌ元帥閣下、ヴィオンヴィル及びサン・プリヴァにてプロイセン軍の攻撃に遭遇され、惜しくも我が軍が……!」

「もう良い、下がれ」

この報告に、一同はしきりに「包囲網が狭まりつつあるな」とか、「おのれ忌まわしいプロイセンめ」などと呟く。シャルルは静かに着席すると、再び頬杖をつき、息を吐いた。そして、

「諸君」

と、言葉を発した。会議場が静まり返る。

「私は国と国民に選ばれし皇帝だ。私は国民の望みに応える義務がある」

彼は顔を上げ、会議場に集まった者達を見渡すと、

「バゼーヌを救出するのだ」

と、まっすぐ前を見て、そう命令した。

  • 初出:pixiv「【ヘタリア】栄光のtimen Sie Null 《3》 中編」2012年8月22日投稿
  • 参考書籍
    • セバスチァン・ハフナー『図説プロイセンの歴史―伝説からの解放』東洋書林
    • ジェフリー・リーガン『ヴィジュアル版 「決戦」の世界史 歴史を動かした50の戦い』原書房
    • 渡部 昇一『ドイツ参謀本部―その栄光と終焉』祥伝社
    • 日本語版Wikipediaより、『オットー・フォン・ビスマルク』『ヴィルヘルム1世』『ヘルムート・フォン・モルトケ』

栄光のtimen Sie Null 《3》 後編

 はっきり言って、拍子抜けだった。

 俺達プロイセン軍は、国境を一歩でも越えたなら、すぐにフランス軍の猛攻に遭うだろうと覚悟していた。しかし実際のところ、戦力差は圧倒的だった。フランス軍は、兵器こそ最新のものを使用していたものの数が少なすぎ、本来なら味方を優に上回るはずの兵力は、こちらの実働兵力の半分以下で、軍服を与えてもらっていない兵達が多いせいで、敵軍は上も下も狼狽していた。

「敵は弱いに限るが……こんなに弱いとこっちも困惑するぜ」

俺ことプロイセンは、思わずそう独り言を呟いた。すると、

「まあ、相手はあのナポレオン三世のフランスですからね」

横から老人の風貌だが精悍な雰囲気の男が割って入ってきた。――この軍の最高司令官である、ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケだ。

「ナポレオンの甥というだけで、あの時代の“栄光”を、再び手に出来ると思っているのでしょう」

「“栄光”ねえ……?」

しかし、そんな“〇〇の△△”だから、という理由で“栄光”なんか手に出来る訳が無いのだが。でも今のでフランスの弱さが分かったような気がした。

 「“甥”と言えば、お前の甥っ子はどんな感じなんだよ、ヘルムート?」

「は?」

俺の問いに、モルトケは良い顔をしなかった。

 軽く話題を振ったつもりだったのだが。俺は続ける。

「ほら、お前の甥だよ、甥。ヘルムート・ヨハン……何だっけ?」

ヘルムートは仏頂面のまま答えた。

「ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒですか?」

「そう、それ。今回の戦争にも従軍してるって聞いたけど、見所はあるのか?」

俺が訊くと、モルトケは、

「さあ? 士官学校へはこれから入る予定ですが――」

心なしか、期待が外れた時のような、がっかりした顔で、

「ただ、演習の時にゲーテばかり読むのは……」

「それは……」

溜息をつくモルトケを見て、俺は、何だか居た堪れなくなった。

 そうしていると、周囲がにわかに騒がしくなってきた。間もなく伝令がやって来て、

「フランス軍が来ました! マクマオン公爵の軍が、バセーヌを救援に来た模様です!」

「来たか」

モルトケの切り替えは素早かった。すぐに状況を確認すると、

「救援の軍をメスから追い返せ。バセーヌ軍との接触を許すな。フランス軍を追い詰めるのだ!」

と命令を下した。

全体的に混乱しているフランス軍と違い、我が軍は兵の動員も順調に行われている。救出に来た軍も、確実に駆逐出来るだろう。

(さて、明日の新聞が楽しみだ)


   *


 戦争開始から、早くも二ヶ月が経とうとしていた。

 俺達フランス軍は、この戦争で最大の危機を迎えていた。

 俺達は、メスで籠城を続けているバセーヌ元帥を救出するため、マクマオン元帥の軍を出した。

 しかし作戦は失敗、救援どころか駆逐され、退却する。仕方なくシャロンで皇帝と合流し、軍を再編成していたのだが、そこへプロイセン軍が急襲を仕掛けてきたのだ。軍を立て直している最中に攻撃されては、混乱を収拾するのは無理な話でしかない。空気読めよ、プロイセン。

 仕方なく、俺達フランス軍は要塞都市であるセダンへ逃げた。そこで改めて体勢を整えるつもりだった。けれど、プロイセン軍は易々と俺達を追ってきた。反撃しようにも、度重なる退却で消耗しきった俺達には何もできない。

 事態は最悪だった。


   *


 そろそろ秋の気配がしてきたその日も、作戦会議のテーブルには新聞があった。勿論、プロイセン本国ではなく、現地フランスの、だ。

 何と信じられないことに、現地の新聞はフランス軍の行動を連日報じていた。

「俺達が言えたことじゃねえけど、“敵軍に読まれる”っていう可能性を全然考えてねえよな」

「そりゃそうでしょう」

俺の言葉に反応したのはビスマルクだ。

「ナポレオン三世は国民投票で皇帝になったんですから、国民からの支援は絶対です。下手に情報統制して支持率を下げるより、このほうが良いと判断したのでしょうな」

「ふうん」

しかし、こうして連戦連敗の状態を報道させて醜態を晒すのもどうかと思う。結局同じことじゃないのか? 俺は呆れる。

「でも、こうして我々は敵軍の情報を簡単につかめるのですから、ありがたく利用させてもらいましょう。情報大事です」

そう言いながら、ビスマルクは新聞を広げた。

 地図は、前もって旅行者に扮した我が軍の諜報員が記録したものを使う。

 新聞はフランス語だが、俺は昔フリッツ親父に仕込まれたし、ビスマルクもフランス公使を務めていた男だ。何より、フランス語は国際語である。読むくらいどうということはない。

 という訳で、フランス軍の進路は難無く把握できた。――セダン。

「どう攻める、モルトケよ」

ビスマルクがモルトケに問うた。モルトケは少し考え、

「まず右翼がセダンを攻撃しつつ、中央がムーズ川岸を占領」

我が軍を示す駒が、セダンに立て篭もるフランス軍の駒に巻きつくように動かされる。

「フランス軍を攻撃しつつ包囲します」


   *


 要塞の中は、例えるなら最早トワレだった。もう愛の国であり、日頃から“マルセイユに咲く花のよう”な表現を実践している俺も、この状況を美しく表すなんて余裕も言葉もなくなりつつある。

 プロイセンや他のドイツ諸侯の軍が占領したムーズ川の向こう岸からは、絶え間なく砲弾の雨が降り注ぐ。パリからの食糧をはじめとする物資を運んでくるはずだった列車は、砲撃に恐れをなして引き返す。さらに、マクマオン元帥が運悪く攻撃に当たって重傷を負ってしまった。代わりに司令官に就いたヴィンプフェン将軍は勇敢にも包囲網突破を試みてくれたが、ザクセン軍とヘッセン軍に惜しくも押し返された。

 かくして、俺達フランス軍は、セダン要塞という名のトワレの中に監禁されたのだ。


   *


 「この状態で何日保つかねえ……?」

 俺はボソリと呟く。今軽く要塞の中を回って来たが、皆疲労困憊が顔に全面に出ており、食糧も――列車が来なくなった時点であきらめたけど――底が尽きかけている。止まない砲撃は――例え当たらずとも、轟音と衝撃とが生き残っている兵士達のメンタルを弱らせるのに十分だった。

 士気だって保てているか分からない。

「まだ元気なのはヴェンプフェン将軍くらいじゃないのか?」

そんなことを言いながら元の場所へ戻ってくると、シャルルが脇腹を押さえて縮こまっていた。

「シャルル?」

皇帝の名を呼んで駆け寄る。シャルルはだるそうに顔を上げて、こちらを向いた。――顔が青白い。

「シャルル、大丈夫? すごく顔色が悪いんだけど……」

他の兵士達の顔色も勿論良くはないが、シャルルのそれは全くの別物だ。シャルルは具合が悪いなりに、しっかりと答える。

「大丈夫、ではないな。この前より痛みが酷いようだ」

「病気が悪化してるんじゃ……」

シャルルは答えない。代わりに、彼は姿勢を正してこう言った。

「すまないが、ヴィンプフェンとデュクロを読んで来てはくれぬか?」

 俺はさっそくシャルルの頼みに応じてヴィンプフェンとデュクロ――二人共マクマオン将軍の代わりに任じられた司令官だ――を連れて来た。シャルルの調子は相変わらず悪そうだったが、今でも皇帝の威厳を放っていた。ヴィンプフェンとデュクロは、そんな皇帝の前にうやうやしくひざまずくと、

「お呼びでございますか、陛下」

と彼の新しい命が下されるのを待った。二人の言葉を受けて、シャルルは言う。

「単刀直入に、私は諸君らに命じる。――プロイセン軍に降伏する」

 この言葉に、俺や、この場に居たフランス軍の兵士達は息を飲み、目を丸くした。それは司令官二人も同様だったが、ヴィンプフェンは驚愕し、あり得ないと言うような顔をし、デュクロは対照的にどこか安堵した様子だ。

 皇帝だけは顔色一つ変えず、続けた。

「デュクロ、白旗を揚げてくれたまえ」

その命令に、デュクロは皇帝の側にあった白旗を手に取り、外に向かおうとした。その時だった。憤慨し、興奮した様子のヴィンプフェンが、デュクロから白旗を奪い取り――

「あっ?!」

止める間など無かった。ヴィンプフェンは白旗を、俺があの日の新聞に対してやったように、びりびりと引き裂いてしまっていた。

「ヴィンプフェン!」

デュクロが叫ぶ。ヴィンプフェンは皇帝に向き直ると、

「お言葉ながら申し上げます! 我が軍には十二万もの将兵がおり、大砲やミトレイユーズ砲などの装備も揃っております。敵に降伏するなど、未だ早いと存じます。お考え直しのほどを!」

と言い放った。

「ヴィンプフェン、貴様……!」

「良い、デュクロ」

ヴィンプフェンに反駁するデュクロを、シャルルは静かに止める。デュクロは引き下がるが、代わりにシャルルがヴィンプフェンに言った。

「ヴィンプフェンよ、貴下はこの状況を見てもそんなことを言っていられるのかね?」

シャルルの静かな、けれど厳しい声に、ヴィンプフェンはハッとなる。

「見よ、ヴィンプフェン」

ヴィンプフェンは周囲を見回す――皇帝の近くとはいえ、多くの者は疲れた表情をしている。シャルルは続けて言う。

「成る程、兵の数は十二万あるかも知れぬ、貴下のように“未だ戦いの余地がある”と考える者もいるだろう。しかし食糧をはじめとする新たな物資の望めぬ今、疲れ、希望を失った多くの――大部分の兵士に戦いを強いることなど、私には出来ぬ」

皇帝は立ち上がり、ヴィンプフェンにぴしゃりと言い放った。

「それでも戦い、玉と砕けようと言うのなら、ヴィンプフェンよ、一人でやって来るが良い」

皇帝の言葉に、ヴィンプフェンは歯噛みして、渋々といった様子ながら、喧嘩に負けた後の少年のように、こくんと頷いた。

 それを見たシャルルは、

「フランスよ、お前にも一つ頼めるか」

次に俺を呼びつけた。俺がシャルルの側に寄ると、何やらたった今書きつけた様子の手紙を寄越してきた。

「何、この書簡」

俺が訊ねると、シャルルは

「それをプロイセン王へ渡して来てはくれぬか」

と簡潔な答えを返してきた。それに付け加えるように一言、

「出来れば、その後パリへ戻り、“皇帝が降伏した”という知らせを届けて欲しい」

「やっぱり本気なんだ」

手渡された書簡を見て、俺は思わずそう呟いていた。シャルルはそれに答えて、

「すまないな」

と言った。彼はうつむいて、自嘲気味に、

「やはり、私には伯父のようにはなれない」

そう話す。俺はそんなシャルルの顔を見ることが出来なかった。

「いや、謝るのは俺のほうだ」

そう話す間にも、俺は彼に背を向け、書簡を握りしめて、外へ続くドアの取っ手に手をかける。

「お前はお前なりに役目を全うしたじゃないか、プリンツ」

それでも俺は最後にどうしてもシャルルの顔がやっぱり見たくなった。でも、振り向いたところで、見えたのは彼の寂しげな背中だった。彼は俺の呼びかけに苦笑して、

「その呼び方は止してくれと言ったはずだがね?」

「いいじゃない、最後くらい。俺の中では今でもプリンツなんだから。……やっぱり、お前はお前のやり方で生きていくべきなんだ、シャルル」

シャルルは黙ったままだ。俺は今度こそドアを開けた。

 寂寥感を覚えつつ、

「またな、シャルル。元気でね」

「ああ、達者でな」

そんなことを言って、俺はそこを辞した。


   *


 「――気味が悪い」

セダン要塞への砲撃中、その惨状に、俺は思わずそう呟いていた。

 そもそも、攻撃していて気分が良い時など、それがどの国のどの軍であれ――勿論、我がプロイセン軍にしても――無いが、今回は特に格別だ。何しろ、至近距離から撃っているせいもあってか、着弾の度にフランス兵の悲痛な叫びが聞こえるのだから。

「大丈夫ですか?」

ビスマルクが話しかけてきた。俺は余程気分の悪い顔をしていたのだろう。ビスマルクは続けて、

「百戦錬磨の国家殿のことですから、どんな状況下の戦場も慣れっこだと思っていたのですが」

「は? 何言ってるんだよ」

俺は反駁する。

「何度戦いを経験しようが、時代が変われば兵器も戦術もそれなりに進歩するし、その分悲惨な、救いようの無い状況も増えるだろ。それに、」

俺は鉄血宰相に向き直って、

「何より、人の命だ。どの国の民であれ、その重みは変わらない。人の死に慣れるなんてことは永遠に無いだろうな」

 そう言うと、ビスマルクは意外そうな表情になった。俺はむっとして、ビスマルクに訊く。

「何だよ、そんなに意外か?」

「いえ、国家殿は子供っぽく、好戦的なところがおありですから。安心しました」

そう答える鉄血宰相の顔は相変わらず厳しいものだった。……なんだか、これにはもう慣れてしまったのだが、一応確認だ。

「お前、俺のこと何だと思ってんだ?」

俺の問いにビスマルクは答える。

「勿論、“国の化身”ですね」

「意味を微妙に間違えてないか?」

「そうでしょうか?」

俺は溜息をついた。

 こんな他愛ない会話をしている間に、さっさと相手が白旗を揚げてくれるのを俺は期待したが、そうとはいかなかったようだ。先程、物資を運んで来たらしい列車が引き返したのを確認したが、その後も包囲突破を図られたという報告を受けている。俺はそのなかなかのしぶとさに苛立ちを覚えた。

(早く降参しろよ、早く――!)

 その時だった。

「敵兵が一騎、こちらへ向かって来ます!」

と伝令が叫ぶのが聞こえたのだ。俺は咄嗟にその伝令に、

「何処だ、言え!」

と飛びつき、引っ張って来た。伝令が敵兵の居場所を言うと、早速ビスマルクが敵兵を見つけた。

「フランス殿だ! フランス殿が来たようです、国家殿!」

ビスマルクが言う。そこへまた別の伝令がやって来た。

「セダン要塞のフランス軍が、白旗を揚げた模様です!」

俺とビスマルクは顔を見合わせた。


   *


 何と「首相と国家殿が直々に会いに来る」と言われたので、俺ことフランスが彼らを待っていると、セダン要塞の方で白旗が揚がったのが見えた。――分かっていたとはいえ、こうして見せつけられると何とも言えなかった。体から力が抜ける感じがしたが、涙は出ない。「未だ涙を流す時ではない」、ということかもしれない。

 そんなことを思っていると、ビスマルク首相とプロイセンがやって来た。

「やっと降伏かよ、遅えなあ」

……開口一番にそれかあ。

「“もう降伏か、早いなあ”って感じなんだけどね、俺としては。――あ、そうだ。これこれ」

俺はシャルルから預かっていた書簡を取り出し、ビスマルク首相に手渡した。

「これは?」

「皇帝からプロイセン国王への手紙です、お願いできますか?」

と、俺が言う間に、彼は受け取った手紙の封を開けて、勝手に中を読んでしまっていた。俺の知ったことじゃないけど、大丈夫なのか……? さらっと文を読み終えたらしい首相は、小さく溜息をつくと、

「分かりました、お届け致します」

そう言って、戻って行った。

「――用はこれだけか?」

プロイセンが訊ねてきた。相変わらず嫌味な言い方だったけど。

「ここには、ね。何、ぷーちゃん俺を捕虜にするの?!」

「ぷーちゃん言うな! ――どうせ、パリに状況を伝えに行くんだろ? 捕虜になりたいなら別だけどな。だから俺の気が変わらないうちに早く行け」

とプロイセンは面倒そうに俺に背を向けた。

俺も溜息をつきながらそれに倣い、

「本当に良いのか、プロイセン?」

不意に、こんな言葉を投げていた。

「戦争は終わっちゃいない。皇帝が倒れても……いや、皇帝が倒れたからこそ、国民は黙っちゃいないぜ?」

「もう良い、行け!」

俺の怨嗟にも似た警告に、プロイセンは声を荒げる。俺は小さく首を振って、馬に跨った。「そんなこと、分かっている」という言葉が、聞こえた気がした。


   *


 兄さんがフランスへ戦争へ行って、もう何ヶ月になるだろうか。俺は、未だローデリヒの屋敷で、ローデリヒが「待っていろ」と言うまま、兄さんが俺を迎えに来るのを待っていた。けれど、こう何ヶ月も待たされていると、その約束も疑いたくなる。ましてや戦争中だ。兄さんもプロイセンという一つの国家だ、こう言うと変かもしれないが、“普通の人間”のように、戦場で野垂れ死ぬ心配は無い。

(だが、もし負けたら?)

時々、そんな疑問が俺の脳裏をよぎった。その度に俺は首を横に振り、兄さんに限ってそんなことあるものか、とそれを必死に否定する。

だが相手はあのフランスである。戦況はプロイセン――というより、ドイツ諸邦――に優勢らしいと風の噂に聞くが、そんな噂程度で安心出来るほど、俺は阿呆ではない。

――もう、待ってはいられなかった。

 『――やはり、行くのか、ルートヴィヒ』

  • 初出:pixiv「【ヘタリア】栄光のtimen Sie Null 《3》 後編」2012年8月26日投稿
  • 参考書籍
    • セバスチァン・ハフナー『図説プロイセンの歴史―伝説からの解放』東洋書林
    • ジェフリー・リーガン『ヴィジュアル版 「決戦」の世界史 歴史を動かした50の戦い』原書房
    • 渡部 昇一『ドイツ参謀本部―その栄光と終焉』祥伝社
    • 日本語版Wikipediaより、『オットー・フォン・ビスマルク』『ヴィルヘルム1世』『ヘルムート・フォン・モルトケ』
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