馬の蹄の音と、馬車の揺れで目が覚めた。
いつの間にか、俺はあの暗い牢獄から連れ出されていたようだ。――誰かに寄りかかっていることに気付く。
「目ェ、覚めたか?」
さっきの銀髪で緋色の瞳の男の声だ。首を動かして上を見る。男は正面を向いているらしく、顔は見えなかった。
「覚めているんなら退いてくれないか? お前、結構重い……」
本当に重そうな声だったので、まだだるい体を動かして、体重を背もたれにかけるようにする。――自分の体が本当に重く感じる。背もたれに寄りかかるだけのことが、こんなにつらいなんて思わなかった。男はと言えば、体勢を直したり、肩を回したりしている。
「この馬車、どこに行くんだ……?」
背もたれに寄りかかるのに必死になりながら喋る。正面で妙にこぎれいな軍服が動いた。茶色っぽい髪と紫色の瞳の男。その男が眼鏡を拭きながら答えた。
「用事も済みましたからね。また帰って会議のやり直しです」
男は言い終わると、眼鏡を掛け直し、顔をこちらに向けた。女々しい顔だと思った。
「帰る……? どこへ……?」
腕を突っ張って体を支える。馬車の揺れが激しくて支えるのもなかなか大変だ。紫色の瞳の男は首を傾げて、
「……? ウィーンにですよ」
そう答える。“ウィーン”。
「ウィーン? ……ッ?!」
その地名を反芻した途端、今までやっとのことで支えてきた体重が、更にズンと重くなった。馬車の揺れも加わり、俺の体は横に勢い良く倒れ――また銀髪の男に体を支えられた。
だってもうあの子に逢えない。
だってもう約束を果たせない。
だってもう帰れない。
銀髪の男に体を支えられながら言う。
「ウィーンは……嫌だ……」
息が、荒く、なる。
それを聞いた銀髪の男は、
「しゃあねえな……」
俺を自分に寄り掛からせて、困ったように、
「しばらく、こいつは俺んちで預かるけど、いいか?」
そう紫色の瞳の男に訊いた。紫色の瞳の男は腕組みをして、
「仕方ありませんね」
少し不満げに言った。
*
珍しく朝の光で目が覚めた。鳥の鳴き声と街往く人々の声が聞こえる。と、部屋のドアをたたく音がした。
「失礼します」
女性の声。ドアの開く音。上半身を起こして入口のほうを見ると、花の髪飾りの可愛らしい、ロングヘアーの女性が立っていた。――エリザベータだ。
「おはよう、エリザベータ」
「おはよう、ルートヴィヒ。あなたがこんなに起きるのが遅いだなんて、珍しいこともあるものね」
笑顔でそう返してくれた。思えば、暗い表情のエリザベータを、俺はあまり見たことがない。
「少し寝過ぎたようだ。今起きる」
そう言って、ベッドから這い出る。
「あらそう? なら良かったわ、ローデリヒさんに怒られなくて済みそうよ」
とエリザベータが笑って言う。
「何故?」
俺は聞き返した。普段なら、もうたたき起こされて説教を食らっていてもおかしくないのだ。エリザベータは答える。
「今、電話が来ているの。通話中よ」
「誰と?」
そう訊くと、エリザベータの表情は珍しく苦虫を噛んだようになった。――俺は何か変なことを言っただろうか?
「……あいつよ」
「? “あいつ”?」
エリザベータは必死に笑顔をつくろうとしているようだが、正直、うまくいってないと思う。エリザベータはしばらく自分の表情筋と格闘したのち、前言を
「あなたの兄さんよ」
「兄さん?!」
俺はそれを聞いて、心の底から嬉しくなるのを感じた。
俺――ルートヴィヒと言う――は、永らく兄さん――ギルベルト――と共にプロイセン王国のベルリンで暮らしていたが、数年前からオーストリア帝国・ウィーンにあるローデリヒの屋敷に住んでいた。一応、家族の扱いということだが、屋敷へ来て早々に、
「“働かざる者食うべからず”ということにしてますので」
と、いきなりほこりまみれの部屋――現在の自室――の掃除を命ぜられたのはいい思い出だ。
とは言え、俺は覚えていないのだが、最初に「ウィーンに連れて帰る」と言われた時は、卒倒した程の拒否っぷりだったそうだが。
(何でそんなに拒否したのか……)
今は何の問題も無く――むしろ、ベルリンの兄さんの元となんら変わりなく――生活している。
(そういえば、此処で暮らし始めたのは、あの会議の後からだったような……)
階段の躍場のところで、電話の受話器に向かって話す、茶色っぽい髪の男の姿が見えた。――ローデリヒだ。相手は兄さんらしいが、今回は珍しく喧嘩ではないようだった。
「……はい、ではまた後日――」
ローデリヒはそう受話器に向かって喋ると、電話を切ってしまった。一歩遅かったようだ。
「――あら、ルートヴィヒ。おはようございます」
階段を降りきったところで、やっとローデリヒは俺に気づいたようだ。ローデリヒに駆け寄る。
「おはよう、ローデリヒ。エリザベータから、今、兄さんと電話していたと聞いたんだが……」
「兄弟そろって、朝一番からそれですか……」
ローデリヒが半ば呆れた様子で返事する。――手元に視線を落とすと、大量の書類と万年筆が目に入った。そんなにメモを取るような電話だったのか。
「えっ……と……」
返答に困っていると、ローデリヒの溜め息をつく声がした。俺は、ローデリヒに本当に呆れられていやしないかと顔を上げた。そこで、いきなり頭をなでられた。
「ちょうど良いところにいらっしゃいました、と言いたいところですが――」
頭から手が離れる。
「その前に朝食を召し上がりなさい。話はそれからですよ」
まるで仔犬を見るような表情でそう言うと、書類を持って書斎へ行ってしまった。
……仔犬でも子供でもないのに。
*
「――もしもし?」
《よお坊っちゃん! ルートヴィヒは元気か?》
「……朝一番からそれですか? 他に用が無いなら切りますよ? 電話代も高いので」
《すみません、本題に入りますので切らないでください》
「……で、何ですか?」
《……お前も知ってるだろ、デンマークのことなんだが》
「ええ。王家が断絶したそうで、支流の方が王位を継承されたとか。……それが何か?」
《それだ。前王は予め、死ぬ前に色々と布告を出してたらしいんだが、それがもしかしたら、“ロンドン議定書”違反になるんじゃねえか、って話になっててよ》
「……それで? 私は何をすれば良いのですか?」
《さすが坊っちゃん話が早え。頼みたいことは二つある。何、俺と一緒にデンマークに圧力をかけてくれれば良い。もしかしたら、有事の時には共同で出兵を要請するかも知れねえけどな! ケセセセセ!》
「“有事”が起きなければ良い話です。……他には? 二つと言いましたよね?」
《ああ、……これはその“有事”が起きたら、で良いんだが……》
*
「観戦武官? 俺が?」
朝食後、俺はローデリヒに今朝の兄さんとの電話の内容を訊くために、書斎へ向かった。ローデリヒはウィンナーコーヒーを飲んでいたようだったが、俺が書斎へ着くなり、いきなり、
「これから重要な話をしますから、早くお座りなさい」
と指示され、部屋の中央に設置されたソファに座った。と思ったら、大量の書類が束になったもの――きっと今朝抱えていた大量の書類だ――を押しつけられた。ローデリヒは俺の座ったソファの向かい側の椅子に腰かけ、
「今朝の電話の内容を簡潔に話しますので、質問はその書類に目を通してからお願いしますね」
という前置きの後に、電話の内容の要点だけを、至極簡潔に話してくれた。
つまり、もしプロイセンやオーストリアとデンマークとの間で戦争が起きた場合は、俺を観戦武官として戦場へ連れて来るように、ということだった。
「まあギルベルトのことですから、強引にでも“有事”を起こすでしょうけど」
ローデリヒが呆れ気味に言う。
だが疑問が残る。“観戦武官”というのは、第三国が他国の戦争を自国の武官に観戦させるための制度だ。つまり、
「しかし、第三国の者ではない俺が観戦武官などして、制度的に大丈夫か?」
俺はローデリヒに訊く。ローデリヒは一言、
「ふむ……」
と考える素振りを見せると、テーブルの上に置かれたウィンナーコーヒーを一口飲み、
「そうですね、少し疑問は残ります……が、まあ、ギルベルトの――プロイセンの言うことですからね。彼が何とかするのでは?」
と、少しはぐらかしたような答えを返された。俺に知られたくないことでもあったのか?
「とにかく、ギルベルトはああ言ってますけれど、行くか行かないかは基本は貴方の自由です。――どうしますか?」
ローデリヒが、さっきの俺の考えを打ち消すように訊いてくる。もちろん、さっきのローデリヒの言動は気にはなるが、これを提案してきたのは兄さんだ。有事になれば兄さんも現場に行くだろう。となれば、答えは決まっている。
「それは、行くに決まっているだろう」
そう俺が答えると、ローデリヒは困ったような笑みを浮かべると、
「そうですか……」
と言い、ウィンナーコーヒーをまた口に含んだ。
*
そして翌年二月。“有事”は起きた。デンマークは結局、兄さん――プロイセンが“ロンドン議定書”違反に当たると主張した“十一月憲法”及び“継承令”の撤回を拒否したのだ。これにより、プロイセンとオーストリアはデンマークに宣戦布告、“第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争”の幕が上がる。
*
戦争の終わりが見えてきた頃。プロイセン・オーストリア連合軍の基地にて、俺達は今後のことを決める会議に参加していた。
「――しかし、なんていうか。あっけなかったな……」
デンマーク軍はプロイセン・オーストリア連合軍の軍事力の前になす術がなく、初戦でプロイセン軍はザクセン=ラウエンブルク公国を真っ先に占領してしまったのだ。デンマーク軍は今はもう防戦一方となっていたのである。実際のところ、デンマーク軍はこの問題を外交の面でクリア出来ると考えていたようだったし、前の戦いのようにスウェーデンの支援にも期待していたのかもしれない。けれど。
「ええ。プロイセンの考えていた通り、スウェーデンも動かなかったようですし。まあ、政治の権限の多くが国王から議会の手に移っているのですから、当然と言えば当然なのですが」
ローデリヒ――オーストリアが言う。
「まさか四十八時間しか猶予を与えないうえに、列強の中立化までしてしまうとは。貴方も貴方ですね、プロイセン?」
オーストリアの視線の先――テーブルをはさんで向かいに、兄さん――プロイセンは立っていた。さっきからずっと、テーブルに広げた地図を睨みつけたままだ。
「うるせえ。お前だってまんざらでも無かった様子だったじゃねえか――っと、ルッツ、何か書くモン貸してくれよ」
地図に視線をやったまま、兄さんが言う。俺は手元にあった鉛筆を、兄さんの差し伸べた手に載せた。「ありがとう、ルッツ」と言われて、少し嬉しくなる。兄さんは俺の渡した鉛筆で何かを地図に書き込んだ。――『ダーネビアケ』と『エイデル』。
「――デンマークが提示してきた妥協案だ、ルッツ」
兄さんが俺の頭をなでながら言う。だから俺は子供じゃないのに。
「けど、これだけじゃ足りないな」
頭から兄さんの手が離れる。
「そうですね」
オーストリアが兄さんに同意する。
「もっと妥協していただきませんと」
やはり兄さんとオーストリアは、あくまでシュレースヴィヒ=ホルシュタイン全土の割譲を求めるようだ。
兄さんがオーストリアの方を向く。
「オーストリア!」
「分かってますよ」
兄さんが指示を出すより早く、オーストリアが動いた。紙に何かを記している。
「デンマークに妥協案拒否の旨を伝えてくれば良いのでしょう?」
「さすが、話が早い」
兄さんの言葉を聞かずに、オーストリアは先程の書簡を持って行ってしまった。数名の兵もそれに続く。
ふう、と息を吐く声が聞こえた。兄さんの方を向く。兄さんは帽子を取って頭をかきながら、
「……他のことにもこのくらい話が早けりゃもっと良いんだがな……」
と眉間にしわを寄せて言った。帽子を被り直すと、先程のオーストリアが行ってしまった方を見ているようだった。
――否。後から思えば、それは“見る”などではなく、“見張る”と表現したほうが正しかったのかもしれない。結局、この戦いでシュレースヴィヒ=ホルシュタインはプロイセン・オーストリア連合軍が奪取したものの、兄さんはこの戦いを、ただの前哨戦としか捉えていなかったのだから。