黒山羊塔

エピローグ

 「すみません、すみません。本当に申し訳ありませんでした……!」
平謝りする僕に、車椅子に座っているボルデナウ卿はいつも通りの笑顔に後悔を滲ませて言う。
「ああもう、良いよ――私達も、こう、ここまで酷いことになったとは思わなかったし」
結局、翌日は血みどろに汚れた〝オフィス〟の後片付けになってしまった。規模は当然、僕がボルデナウ卿を殺しかけたあの夜よりも断然今回のほうが上回っており、床どころか壁やデスク、その他諸々にはで被害が及んでいる。
「これはもう、全部取り替えちゃいます? 床のタイルも全部剥いじゃって」
まるで他人事みたいな笑顔を浮かべるブリュールさんの言葉に、片付け前から疲れた様子のナイトハルト卿が答える。
「しょうがない。イェーガーもこれには承知せざるを得ないだろう」
「絶対、文句付けられるでしょうけどね」
ブリュールさんとナイトハルト卿も、翌朝にはあんな状態だったと思えない程に、けろっと回復していた。もう、ナイトハルト卿を盾に使ったブリュールさんを、ナイトハルト卿が追いかけ回すというギャグみたいなことをしている。しかし、それを微笑を浮かべて見守るボルデナウ卿の断裂した左足は、まだ治っていない。
「多分、僕の〝本物〟の影響じゃないかな」
と、まだ調子が出ない、気怠そうな様子のボルデナウ卿は言う。
「ゲルハルト・フォン・シャルンホルストは左脛に喰らった銃弾が元で死んだらしいから、治りが遅いのはさもありなんだろう」
ボルデナウ卿はデスクとセットになっている椅子ではなく、車椅子に座っている。問題の左足は脚本体と足の先が固定され、包帯がギプスみたいにぐるぐる巻きになっていた。
「本当に、僕が不甲斐無いばっかりに――どう言えば良いのか」
「だから、構わないって」
ボルデナウ卿はそう言うが、僕は心配で仕方が無かった。いくら彼らが自らの手で引っ掻いても皮膚に傷も付けられず、大量虐殺に使用されていたガスでも死ねず、おまけに拳銃で脳髄をぶち抜いてもびくともしない身体の持ち主だろうと、ボルデナウ卿が二度と自分の足で歩けなくなったらと思うと申し訳が立たない。ボルデナウ卿は言う。
「君は、私達を殺してくれると言った。それがどういう意味を持つものであっても、君がそうしてくれるというのなら、私達はそれを待とうと思ったんだ。だから――そう、自分達がどうなるとかより、シュミット――君が無事で良かったよ」
「でも――」
ボルデナウ卿が、僕の言葉を手で制止する。そしてそのまま、その手で真っ赤になった“オフィス”を指した。
「まずは、ここを復旧してからにしようか?」
笑顔でそう言う彼の手の先では、トムとジェリーごっこを止めたブリュールさんとナイトハルト卿がこっちを見ている。
「そうだ、さっさと復旧作業を始めるぞ。シュミット」
ナイトハルト卿の言葉に続いて、ブリュールさんが入り口近くの床を指す。
「その前に、シュミットが自分のゲロを片してくれない? これは酷いよ」
「ごめんなさい!」
それよりも、僕にとっては二人が僕を『新人』ではなく、ちゃんとシュミットと呼んでくれたのが嬉しかった。

それから一週間後。
僕が〝地下室〟の事務所に出勤すると、珍しくテオドール・イェーガーが顔を出していた。煙草はさすがに吸っていないものの、壁に寄りかかってモトローラのケータイを片手にメールを打っている。
僕は事務員の皆さんに挨拶すると、ついでに壁際に居るイェーガーにも声をかけた。
「おはようございます、イェーガー」
イェーガーはジト目で、一瞬視線だけをこちらに向けて言う。
「おはよう、シュミット」
僕が彼の隣の壁に寄りかかると、イェーガーはメールを打ちながら話しかけてきた。
「あれから異常は?」
「無いです」
僕は答える。
「皆、相変わらず仕事をせずに読書したり、ネット見たり、ケータイの動作に四苦八苦したり、喧嘩を微笑ましそうに見守っているだけですが、楽しそうに過ごしてますよ」
「ふーん……あっそう」
イェーガーはつまらなさそうに返事をする。僕やフランツに拳銃を向けた時とのこの差は一体何だろう。
イェーガーはメールの送信ボタンを押すと、
「今、拳銃は持っているか?」
ということを訊ねてきた。僕は上着のポケットにあるその感触を確かめて、
「ここにあります」
その言葉に、イェーガーは僕のほうに手を伸ばしてくる。目の前に差し出された手を見て、疑問符を浮かべる僕にイェーガーは言う。
「それ、返して」
「はい?」
当初の説明と異なるイェーガーの言動に、僕は唖然とした。
「〝地下室〟勤めの者なら、軍人と同じように携行しているんじゃないんですか?」
「馬鹿言え、あんなの嘘に決まってる」
「はい?!」
わけの分からない僕に、イェーガーはそれこそわけが分からない様子で言った。
「だって、私達は軍人でも警官でもない。ただの公務員だ。なんでただの公務員が拳銃所持を認められるんだ? 普通に考えれば分かるだろ」
「んなこと言われても! じゃあなんで僕は拳銃を持たせられたんです?!」
「でっかい声を出すな、五月蝿い」
イェーガーの一喝に僕は黙り込む他無い。イェーガーは続ける。
「だって、エルンスト・フランツはこの〝地下室〟で最重要国家機密も同然の〝地下室の偉人〟達の殺害未遂を犯した。また次に同じようなことが起きる可能性があったところに、そのエルンスト・フランツと関わりがあるシュミットが来たんだ。対応策を取らないほうがおかしい」
――確かに。
僕は納得するが、それにしてもそんなイェーガーもおかしい。
対応策のためなら規則を破ったりするのはもちろんだが、フランツを殺してしまったのはどういうことだろう。殺人は自分で言っている通り犯罪だし、仮に死刑扱いになるとしても、ドイツ基本法は死刑を認めていない。それを誰も摘発しないところを見ると、それを誰も知らないのだろうか。
どっちにしろ、僕も脛に傷持つ身だ。僕は渋々、上着のポケットから拳銃を取り出すと、イェーガーの掌に載せる。
「良し」
イェーガーは僕の持っていた拳銃を、腰にあったホルスターに突っ込んだ。そのまま身を翻して、事務所の出口へ向かう。
「これからもよろしく頼む、アルベルト・シュミット」
ドアが重く音を立てて閉じるのを見届けると、僕も地下の“オフィス”へ行くことにした。

いつもよりカラリと乾いた通路を抜けて、僕は“オフィス”の入り口に立つ。背筋を伸ばし、ドアをノックする。
「アルベルト・シュミットです」
「良いよー、入ればー?」
相変わらず間の抜けた感じのする、少年のような、老人のようなブリュールさんの声を聞いて、僕はドアノブを捻る。
「失礼します」
ドアを押し開くと、前と雰囲気の変わった――今までよりも明るくなった気がする――〝オフィス〟の風景が広がった。コーヒーと砂糖の混ざった良い香りと、観葉植物のあるスッキリした空気。
「おはようございます、皆さん」
僕が挨拶すると、それぞればらばらに返事が返ってきた。早速、入り口の側に居たフリッツさんがコーヒーの空になったカップを差し出す。
「おかわり、頂戴?」
「はい」
僕はいつも通りに自分のデスクに荷物を置いて、空のコーヒーカップを受け取る。と、ナイトハルト卿のデスクに置かれたカップが目についた。僕はナイトハルト卿に訊ねる。
「ナイトハルト卿もコーヒー淹れますか?」
「ああ、頼む」
彼の分のカップも取って、僕はインスタントコーヒーの棚に駆け寄る。振り返ると、ブリュールさんがやはり空のコーヒーカップを掲げていた。
「シュミット! わたしにもおかわり頂戴!」
「了解しました」
二人のカップを置いてから、僕はブリュールさんのカップを取りに行く。
「今日は何を見ているんです?」
ブリュールさんからカップを受け取りながら、僕は彼に訊いた。ブリュールさんが「んー」と唸りながら、真新しいノートパソコンの画面をこちらに向けた。
「ブログ。わたしが作ったんだけど、どう?」
「へ、へえ……」
意外にも見栄えの良い出来に、僕は驚いた。それにしてもこの人はミーハー過ぎるんじゃないだろうか。
僕はボルデナウ卿のほうを見る。彼と目が合って、ボルデナウ卿が目を丸く開く。
「ボルデナウ卿はどうしますか?」
彼は笑って言った。
「うん、お願い」

今日の仕事が終わったのは、昼休みも終わった昼下がりだった。部屋の時計を見ると、定時にもまだ余裕がある。
僕は伸びをして、他の四人を見た。
静かだ。皆各自で何かをしているのだが、集中しているのか、呼吸と、時計の針が時を刻む音しか聞こえない。
そういう空気では無いけれど、言ってしまっても良いだろう。
「皆さん、外へ出ませんか?」
僕の言葉が突然だったのか、あるいは意外だったのか、皆一様に驚いた顔で僕を見た。僕もぎょっとしてしまう。ブリュールさんが言う。
「え、何? どうしたの、シュミット――熱でも出た?」
「失礼ですね!」
思わず言い返す。
「ただ、もうここのところ皆さん出掛けてないですし、外の空気を吸うのも良いかな、と思ったんです」
「なーんだ。だってこの前出かけた時、シュミットったらすごく嫌がってたんだもん」
「その説は申し訳無いと思ってます」
ブリュールさんが「うふふ」と笑う。
「でも良いアイデアだね! 出掛けませんか、ナイトハルト卿!」
「そうだな」
ナイトハルト卿がブリュールさんに同調する。彼は読んでいた本を置いて、椅子を引いた。
「たまには出掛けないと、眉間の皺が増えるしな」
「いつの冗談の当て付けですか、それ?!」
「ああ、冗談だったのか、あれ」
会話を聞いて本の文面から顔を上げたのはフリッツさんだ。
「出掛けるのかね?」
「はい」
僕はフリッツさんに訊ねる。
「フリッツさんもご一緒にどうでしょう?」
「ふむ」
フリッツさんは顎に手を当てて少し考える素振りをした後、
「たまには君達に付き合うのも良いかもしれないな、付いて行こう」
「ありがとうございます」
このやり取りを微笑を浮かべて見守っていたボルデナウ卿に、ブリュールさんが話しかける。
「〝先生〟も出掛けませんか?」
僕はその質問の様子を、固唾を呑んで見守った。ボルデナウ卿はいつかのように、一瞬だけ考えるふうを見せ、ブリュールさんの誘いに答える。
「僕は遠慮しておくよ」
僕はその言葉に残念さと、悲哀と、悔しさを覚えた。
「でも、シュミットの言う通り、ここ最近外には出られなかったし、丁度良いと思うな。行ってきなよ」
「ボルデナウ卿――」
僕は声を漏らす。ボルデナウ卿がこちらを向く。また仮面を被っていた。――僕は良い加減、その表情には飽きている。
僕は出掛ける準備を始めた三人に言った。
「すみません、先に出て貰って良いでしょうか。僕は少しボルデナウ卿に話がありますので」
「うん――」
ブリュールさんが僕とボルデナウ卿の顔を見比べる。
「良いよ、正面のところで待ってるから」
「ありがとうございます」
僕の返事を聞いたブリュールさんは、早速、ナイトハルト卿とフリッツさんの背中を押して“オフィス”から出て行った。ドアの閉まる重たい音がし、一瞬沈黙が流れる。
ボルデナウ卿は笑顔を浮かべて、デスクに肘を突いて座っている。僕はボルデナウ卿の正面に向かい合う形で立つ。僕は彼に問い質した。
「ボルデナウ卿、なんで外に出たがらないんですか?」
「なんで、って――この前言ったでしょう、シュミット」
ボルデナウ卿は表情を変える様子も無く、答える。
「この世に未練が無いって。全部どうでも良いから、外に出る気もしないんだ」
外がどうしても寒く感じられるから、っていう理由もあるけどね、と彼は付け加えた。けれどどうしても、僕にはそれに違和感を感じてしまう。僕はもう何度目かになる質問をした。
「ボルデナウ卿、あなたは誰です?」
ボルデナウ卿の答えも、前とは変わらない。
「だから、ゲルハルト・フォン・シャルンホルストの〝ニセ者〟だってば」
「ですから!」
僕はデスクの天板に、自分の掌を叩きつけた。聞き飽きたそのボルデナウ卿の答えを再度問い質す。
「ボルデナウ卿はそのシャルンホルストとは別人なんでしょう? 関係無いんでしょう?! 良い加減に自分をその人と同一視するのを止めたらどうなんですか!」
僕は俯く。いつの間にか目頭が熱くなっていた。目から涙が溢れて、僕の手の甲を濡らす。
「あなたは――ボルデナウ卿、あなたは……ゲルハルト・フォン・シャルンホルストじゃない――あなたは、あなた自身だ……!」
僕は顔を上げて、ボルデナウ卿の目を見据える。蒼い目の奥で、アイルランド系ドイツ人の姿が揺れた。
「僕は、あなた達を殺したい。誰より、自分の“本物”の幻影に惑わされているあなたを、ボルデナウ卿、あなたを殺したい」
ボルデナウ卿の目に映る、蒼い湖水の揺れる水面を見つめて、僕は訴える。
「外へ出ましょう、ボルデナウ卿――ここにずっと居るだけでは、幻影に良いように惑わされるだけです。ボルデナウ卿……僕に、あなたを殺させてください」
僕は、黙って彼の目を見続けた。と、ボルデナウ卿が瞼を閉じて俯いた。息を漏らす音がする。
「――うん、分かった」
彼が再び顔を上げると、仮面も、何も張り付いていない顔をしていた。参ったとか、少し不安そうな表情だ。
「外へ出よう、シュミット。ただね――」
ボルデナウ卿が、自分の着ている黒い冬用コートの裾を摘む。
「大丈夫かな。外、出たこと無いんだけど。寒くないかな?」
僕は涙を拭いて、笑顔で答える。
「大丈夫です。皆付いていますし、人目なんか気にしなくて良いです。行きましょう」
僕はボルデナウ卿の手を取ると、〝オフィス〟の外へ引っ張って行った。

外はまだ日が高い位置にあった。眩しい日差しに、少し暑いくらいの気温。僕は後ろに付いて来たボルデナウ卿の手を引いて、地上階へ足を踏み出す。
「ボルデナウ卿、外ですよ」
「うん――」
ボルデナウ卿が建物の影から、おずおずと顔を出す。初めて当たる日光に、僕もさすがに吸血鬼みたいに灰になってしまうんじゃないかとヒヤヒヤしたが、そんなことは無かった。ただ、初めて見る日光が余程眩しかったらしく、びくりと身体を震わせる。
「ああ、眩しい! 日光ってこんなに眩しかったっけ――」
「そりゃあ、眩しいですよ。日光ですもん」
答えながら、一応は日光がどんなものか彼も知っていることを思い出す。ボルデナウ卿が日光を遮ろうと必死になっている。
「だよね、それじゃあ朝日や夕日はもっと眩しいのかな? 文章ばかりの記憶だけじゃ、やっぱり分からないね……」
そんな笑い声が、涙で少し滲んだように聞こえた。僕は日光が少しきつかったのだろうかと心配になるが、ボルデナウ卿は「大丈夫、大丈夫だよ」と答える。
「でも、やっぱり無理しなくても――」
「何を言っているの、シュミット」
ボルデナウ卿が笑顔をこちらに向けた。――彼の目元が微妙に濡れているような気がする。
「日光は眩しいよ。でも、それ以上に嬉しいんだ、嬉しかったんだ――」
そう言って、彼は涙を流している。僕は、この時やっと、ボルデナウ卿の素の笑顔を見たと実感した。

「私は今、君に逢えて良かったと本当に思っている。未練は無いと思っていたけど、やっぱりここは実に良い世界だ。どうでも良いなんて勿体無いよ。君みたいな面白い人間が居るんだからね」
「そう言って戴けて、僕も嬉しいです」
僕も、本当に嬉しいと感じたのは初めてだった、とは言わなかった。
ボルデナウ卿は今までで一番爽やかな笑顔で言う。
「シュミット、私は是非食べ物の美味しいお店を紹介して欲しいんだけど。この前のカリーヴルストのような、美味しいお店を」
僕はそれに同調して、「そうですね、そうしましょう!」と答えようと思った。けれど、それを言おうとしたその時、一瞬早くボルデナウ卿が意見を翻した。
「ああ、でもベルリンって魚料理も有名なんだよね。シュプレー川の魚って結構有名だから――」
それには僕もさすがに同調出来ない。シュプレー川の魚ってだけで別なものを想像する。食べるどころか、吐き気を催すものを、だ。
「シュミット、魚料理が美味しいお店って知らない?」
ボルデナウ卿の冗談であって欲しい質問に、僕は泣き声で叫んだ。
「魚料理だけは勘弁してください!」

《地下室のニセ者達 第一部 了》

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