黒山羊塔

第三章

 銃撃戦の音が聞こえる。
目を覚ますと、そこはどこかの荒野だった――いや、街が見えたけど、ほとんど荒野だった、と言うのが正しい。
風が強く吹いている。僕はゴーグルを掛けていたはずだが、砂煙が気になって思わず片目を閉じた。
瞬間、隣に居た戦友が、吹っ飛んでいくように尻餅を着いて倒れた。戦友は肝臓に穴を開けられて、背中からダムが決壊するように血がバシャッと噴出する。声は立てない。立てたかもしれないが、多分、後発の銃撃に掻き消されたかしたんだろう。聞こえなかったんだから。
仲間が倒れても戦い続けろ、というのが軍に入った時に与えられた永続的な命令だったが、僕は仲間の腹から流れ出る血の壮絶な赤に目を奪われて、命令実行が脳から発せられて脊髄を通って、末端の運動神経に到達するまで時間がかかってしまった。
構えた、構えないも分からないままに、僕の脚は掬われた。稲妻が走って、視界が横転する。最初は分からなかったが、自分の脚を触り、さすっていくうちに、指の一本を穴に突っ込んでしまった。鮮明になる痛みに、僕は肺の底から絶叫した――

 「ああああああああああ――!!」

 叫びで目を覚ました。
叫びと恐怖で見開いた目に映ったのは、荒野ではなく、真っ暗で味気無い僕の寝室の四角い天井だった。目覚まし時計のアラーム音がピピピと五月蝿く鳴っているのが聞こえる。
「っはー、っはー――」
激しい鼓動と荒い息に上下する胸。心臓がしっかり仕事をしているのを確認するように、そこを掴みながら目をぐりぐり回して、周囲を確認する。
僕は寝床のベッドの上で、タオルケットを被って寝ていた。枕元ではデジタル表示の目覚まし時計が、甲高い声で僕を叩き起こそうと躍起になっている。その隣にシーメンスのケータイが転がっていた。着信があった様子は無い。
アラームを止め、ズボンの裾を上げて指を突っ込んだ脚の傷口を確認する――無い、というより塞がっている。しっかりと凹凸で存在感を残していたが。
とりあえず痛くはないことを確認して、僕は胸を撫で下ろし、上半身を起こす。深く溜息をついて、習慣的に目覚まし時計の表示を確認してから――午前五時前だった――僕はテレビのリモコンを探した。ぽろりと枕元から落っこちたであろう、裏表逆になって転がっていたリモコンを拾い、電源ボタンを押す。この時間ならニュース番組だろう。どうせ株価の上下かサッカーの話題なんだろうな、とニュースの話題にアタリを付けて、僕は画面が白けるのを待つ。
寝室のテレビのブラウン管が発光するより先に、スピーカーが鼓膜を震わせた。
『――昨日、フランクフルト・アム・マインで大規模なネオ・ナチ集会があり――』
却下。朝から聞くような話題じゃない。僕は反射的にチャンネルを他局に切り替える。どうせ同じような内容を取り上げるだろうが、タイミングはずらしてくるはずだ。
『――先日、政府は二〇〇一年末に連邦軍がアフガニスタンでの軍事介入に乗り出して以来、犠牲者が二十名を超え、多くが負傷したことを発表しました。さらに、開発業務に携わるドイツ人技術者が誘拐されるという事件も発生しており――』

 ――隣に居た戦友が、吹っ飛んでいくように尻餅を着いて倒れた。戦友は肝臓に穴を開けられて、背中からダムが決壊するように血がバシャッと噴出した――
――撃たれた戦友はぐったりして、瞳の光は既に無かった。スーパーマーケットの魚介類のコーナーで売っている、シュプレー川の魚みたいな目で彼が僕を見ていた――

 ――スーパーマーケットの魚介類のコーナーで売っている、シュプレー川の魚みたいな目で――

 駄目だった。見たくもない見覚えのある映像が、僕の瞼を焼いて脳を駆け巡る。聞きたくもない情報を垂れ流すテレビの電源を、片目で画面を睨みつけながら落とすが、時既に遅く、僕は胃のあたりに違和感を覚えた。――何か、良くないものを体内から排出しようとしているような、そんな胃壁の動き。
(やばい)
まだ朝食前で物は何も入れていないはずなのに、僕の内臓は情報まで腹に入れたと勘違いでもしたのだろうか。とにかく、僕は早急に寝床から出てトイレに向かう羽目になった。

 〝オフィス〟に掛けた電話にブリュールさんが出たのは、たっぷり七コール目だった。
『はい、ドイツ連邦共和国・国防省です』
「おはようございます……アルベルト・シュミットです」
ブリュールさんの、活き活きとした最近流行りの爽やかで媚を売るようなアメリカ風事務所口調に、僕は逆に生気を絞り切ったような、それこそ絞るような声で挨拶する。
『なんだ、新人か。ここで言わなくても、言いたいことは〝オフィス〟で言えばいいじゃんか』
返されたブリュールさんの声は、さっきのアメリカ風事務所口調とは打って変わってナイフのような容赦の無い鋭さを帯びていた。少ないながらも内容物を吐いた後の僕の胃に、この声は切れ味良く突き刺さる。僕は鎮痛剤を溶かしながらもちくちく痛む胃のあたりをさすりながら言う。
「すみません、今日はすごぶる調子が悪くて……仕事はお休みさせて戴きたいのですが……」
『ふーん』
ブリュールさんの返事は素っ気無い。僕は冷や汗が頬を伝って落ちるのを感じた。
『分かった。無理はしないように。就労不能証明書も書いてもらうのを忘れないで。あと、詐病はやめろよ』
ブリュールさんは止めにそんなことを言って電話を切った。通話終了の音がいつもより大きく感じる。僕は溜息を大きく吐いて、寝室の壁に寄りかかりながらしゃがみこんだ。赤毛を掻き上げて、ケータイの画面を覗く。
ブリュールさんの止めの一言が僕の胃を蛇のように締め上げている。
(詐病じゃない……)
ブリュールさんには僕の状態のことは一言も言っていない。イェーガーは知っているかも知れないが、そもそも個人の状態や持病などは個人情報だから、口外することは無いだろう。僕はナイトハルト卿のブリュールさん評を思い出す。
(冷徹、か)
僕はそれに納得するが、途端にまた胃がぐるぐると暴れだす感じがした。気持ち悪い。
僕は重い身体をずるずる動かして、再び寝床へ戻った。タオルケットにくるまると、目覚まし時計を一瞥する――まだ七時前。かかりつけ医の開業時間まで、再び寝込んだ。

 『よう! 元気しているか?!』という、相変わらず明るくて耳の穴から反対側の穴まで突き抜ける声量を持ったエルンスト・フランツ大尉の声がシーメンスのケータイから聞こえたのは、昼も過ぎて、良い加減まともな公務員なら暇している時間だった。
相変わらず眠気を飛ばし切れず、僕はタオルケットを被ったまま声帯を絞って答える。
「こんにちは……大尉」
ちなみに、僕も昼飯を食べずに医者から貰った鎮痛剤と睡眠薬で寝ていたのだが、そのことに関してはツッコミは受け付けない。
『相変わらず元気は無しか』
「相変わらずお元気そうな大尉が羨ましいです」
そろそろ大尉にその大音声の出し方を教わりたいです、とは言わなかった。
そんなことも知らない大尉は『そうだろう、そうだろう!』と言って高らかに笑う。
『ところで、今は仕事中か?』
「体調不良で目下休養中であります」
『そうか、それはすまなかったな――で、仕事自体には慣れたか?』
そう大尉に訊かれて、僕の胸の底から重くてドロドロした何かが沸き上がってくるのを感じた。そのドロドロは、あの〝オフィス〟の人間の表情――ボルデナウ卿の仮面のように張り付いた笑顔やブリュールさんの冷徹な声、ナイトハルト卿の鋭い視線、あるいはフリッツさんの皮の剥げたような無表情までも――を引き連れて、僕の喉から焼け出される。僕はその勢いで以って寝床から跳ね起きた。
「――何なんですか、あそこは」
自分でもゾッとするほど冷たい声に戦慄しつつ、僕は話し続けた。
「話と違うじゃないですか! 国家に貢献するどころか、仕事の一つもしないし! 〝地下室〟は静かでも外に連れ回されることばっかりだし!」
『落ち着け、シュミット』
エルンスト・フランツ大尉の静止も聞かず、僕の口は動き続けた。
「それは良いにしても、何でいちいち干渉していないのに関わられなきゃいけないんですか! 何故干渉しなきゃいけない! 僕はただ――」
知らぬ間に涙まで溢れてきた。声まで涙で滲んでいる気がする。喉が嗚咽で詰まり、呼吸が乱れて次の言葉が上手く言えなかった。フランツ大尉には聞こえただろうが、黙っている。
「何であの人達はあそこに居るんですか、何であの人達は居るんですか、居る意味なんて無いでしょう?! あの人達より、よっぽど――」
僕の脳裏を、あの戦場の風景がよぎった。荒野。死んだ戦友。叫ぶ上司。襲い来る影。
「よっぽど――」
今朝のニュースを思い出す。

 ――先日、政府は二〇〇一年末に連邦軍がアフガニスタンでの軍事介入に乗り出して以来、犠牲者が二十名を超え、多くが負傷したことを発表しました。さらに、開発業務に携わるドイツ人技術者が誘拐されるという事件も発生しており――

 「――そうだ」
僕は分かった気がした。ほぼ独り言のように呟く。
「何で、戦場で二十人も死んでいるのに、四人は働かないんだ? 何で死んだ二十人よりも、役立たずな四人が生かされている? 何で国家はあの四人を生かしているんだ? 生きている必要なんかないじゃないか――!」
『――シュミット?』
エルンスト・フランツ大尉が僕の名前を呟いたのが聞こえたが、そんなの気にしなかった。僕は寝床からのっそりと起き上がり、服を掛けてあったハンガーに手を伸ばす。
『シュミット――』
電話を一方的に切り、ケータイをテーブルに置く。
僕は服を着替えると、棚の引き出しに仕舞ってあった、〝地下室〟に初めて入った時にイェーガーに渡されたドイツ軍制式拳銃、H&K USP P8を取り出した。弾倉をグリップに押し込み、上着の内ポケットに入れる。テーブルに置いておいたケータイを持って、僕は部屋を飛び出した。

 国防省にある〝地下室〟の事務所には、もう定時を過ぎているからか誰も居なかった。
僕は未だ日が明るい中、〝地下室〟の入り口へ向かう。入り口の鍵は開けっ放しになっていた。鍵は基本的には担当者である僕が開け閉めすることになっているが、僕が休みの時は、代わりにイェーガーがやることになっている。イェーガーは未だ来ていないのだろうか。だが、今それは気にすることじゃない。僕は構わず入り口に踏み込んだ。
〝地下室〟は驚く程しん、と静まり返っている。少なくともフリッツさんは皇太子宮殿に帰ったんだろう。他の三人も、〝オフィス〟の他にもあるだろう自分の部屋に戻っているかも知れない。だが、それはどうでも良い。いざとなれば押し入ればいいだけだし。そんなことを思いながら、僕は〝オフィス〟のドアをノックもせずに開けた。
〝オフィス〟には、自分のデスクに着いているボルデナウ卿以外誰も居なかった。そのボルデナウ卿でさえも、椅子に背を預け、腕と脚を組んだ状態で居眠りしている。誰も起こさないんだろうか。どうせ自室も近いから大丈夫だということか。
(まあいいや)
僕は当初思った通り、彼の側に近付くと、上着の内ポケットから拳銃を取り出した。スライドを目一杯引き、初弾を装填する。僕はそれを、眠るボルデナウ卿のこめかみに突き付けた。あとは引き金を引くだけで、僕の目的の少なくとも四分の一は達成されるわけだ。が。
「――危ないよ」
眠っていたはずのボルデナウ卿の口が、いきなり動いた。驚いて手を滑らせかける。お陰で初弾を無駄にするところだったが、安全装置を解除するまではいかなかったようで安心する。ボルデナウ卿は腕と脚を組んだまま、首だけをこちらを向けた。突き付けた銃口はそのままの位置だから、こめかみは額に置き換わる。
「私は良いとして、君が火傷してしまうかもしれない。心身を害するのはとても良くないよ」
ボルデナウ卿はとても落ち着いていた。いつもの笑顔ではなく、けれどまるで教師が生徒を諭すような口調で僕を説得してくる。僕はその予想と違う反応に内心驚きつつ、それをせめて表に出さないように努めた。精神の動揺は銃撃には悪影響だ。
「自分が死ぬのは良いんですか?」
僕が訊ねると、ボルデナウ卿は肩を竦めて、しかし表情一つ変えずにこんなことを言った。
「構わないさ、どうせ今回も死ねないだろうし」
訝る僕に、ボルデナウ卿は言う。
「ところで、撃たれる前に幾つか質問があるんだけど」
「どうぞ」
何故そんなことを言ってしまったんだろう。すぐに問答無用で撃てば良かったのに。ともあれ、ボルデナウ卿は僕の言葉にすぐ「じゃあ一つ目」と言ってしまっている。
「何でこんなことをしているの?」
ボルデナウ卿が自分に突き付けられた銃を指して訊ねてきた。やっと定番の質問が出たので、僕は少し安心する。
「あなた達が仕事をしないからですよ」
「ではクビにでもすれば良いじゃない」
「それが可能ならこんなことしてませんよ!」
思わず声を荒げる僕。ボルデナウ卿は半ば冗談のつもりだったのだろうが、そんなことに付き合っていられない。
「僕は昨年の暮れまで兵役でアフガニスタンに居たことがあります。その戦場で戦友が命を落とすのを見ました」
脳裏に、目に焼き付いたあの映像が再生される。いつも通り、僕をスーパーマーケットの魚介類のコーナーで売っている、シュプレー川の魚みたいな目で見てくる戦友を睨め付けて、僕はボルデナウ卿に言い放つ。
「今朝もニュースで、あの戦場で多くの仲間が死んでいると知りました――そして思ったんです、彼らはあの異国の地で死んで逝ったのに、何故あなた達はここで国の税金でぬくぬくと生きながらえてるのかと。〝過去の偉人〟だか何だか知りませんが、彼らの命に比べればあなた達のそれなんて軽いものでしょう?」
僕は言うことは言い切ったという気になって、長距離を走り終わったみたいに息が荒れていた。ボルデナウ卿は深く溜息を着いて、当然訊きたいことが残っていたのだろう、「次、二つ目」と言い、
「じゃあ何故ここに来たの?」
と言う。
「え――」
僕は隙を突かれた気がして、間の抜けたような声を漏らす。ボルデナウ卿が続ける。
「私はね、正直なところ、君がここに来てくれて良かったと思っている。君みたいに私達と他の人々を区別しない人が来てくれて、内心安心してたよ」
僕にはその意味が分からなかった。僕はボルデナウ卿に言い返す。
「僕は嫌でしたよ」
「だろうね」
全て分かったみたいに言わないで欲しい。
「他の企業や職場の様子は知らないけど、ここに来る人々の様子を見る限り、こんなに職場仲間に干渉する職場も無いだろうなとは思ってた。けど君はその最たるものだったみたいだね、ブリュールが言ってたけど――えっと――詐病、だっけ?」
「詐病じゃありません!」
僕は腹の底でふつふつと沸いていた苛立ちに任せて叫ぶ。ボルデナウ卿はこれと言った反応を見せなかった。ただ表情を変えずにこちらを見ている。
「そう、今度から気をつけるよ。とにかく君は心に傷を負っているみたいじゃない? だから何でここを辞めようとしなかったのかなとも思うんだけど」
今度こそ、僕は弱みを突かれた気がした。胸の底がずしりと重みを増して、そのせいか涙腺が緩くなるのを感じる。僕は涙が出る前にそれに答えた。 「――死にたかったからです」
「何で?」
後の言葉は涙に追いつかれて、涙と共に押し流されるように溢れた。
「分からないでしょう、毎日毎日フラッシュバックに襲われて嫌なシーンを蒸し返される気持ちなんて! いつも敵に襲われる感覚がして安心出来ない昼日中なんて! 戦友の死の場面を無限ループし続けられる夜中なんて! どでかい影に追われて、そこら辺に居る他人が戦場に居る敵よりも恐ろしいと思う感覚なんて!」
息が続かなくなり、嗚咽を漏らす。深呼吸して、もう一言口から吐き出す。
「……全てが信じられなくなるなんて」
銃をボルデナウ卿に向けたまま、僕はもう片方の腕の上着の袖口で涙と鼻水とを拭う。ボルデナウ卿が一瞬、デスクの上のティッシュボックスを見た気がした。
「でも僕には死ぬ勇気さえ持っていない」
もう一回深呼吸して、――エルンスト・フランツ大尉の最初の言葉を思い出して、僕は話を続けた。
「すると、ここには死にたがりばかりだと言うじゃないですか。だから思ったんです――ここなら死ねるのではないかと」
ボルデナウ卿はさっき目線を動かしたきり、目を伏せて黙って話を聞いている。
「でも実際にはそんな様子は微塵も無いし、先程ボルデナウ卿も仰った通り、僕には都合の悪いことに皆どんどん干渉して来るじゃないですか……!」
喉が焼けるみたいだった。僕は銃を構え直す。銃の部品がかちゃりと音を立てる。ボルデナウ卿がこちらをじっと見た。
「だからボルデナウ卿、死んでください。僕の前から消えてください。僕の心から跡形も無くなってください。そうでもしないと僕は安心してここから居なくなれないんですよ」
ボルデナウ卿はこちらを見たまま僕に問う。
「私が死ねば君は楽になる?」
僕は息が荒いまま答える。
「正確には少なくともあと三人ですが」
「そう」
ボルデナウ卿はそう言うと、もう何度目なのか、再び大きく溜息を着いて言った。
「じゃあ撃て」
僕はその、ある意味待ちわびていた言葉に驚愕した。構え直したはずの銃を持つ手が震える。グリップを握る掌は、既に滲む汗で滑った。その手首を、ボルデナウ卿がぎりりと強い力で掴んだ。それで以って、自分の額に銃を突き付ける。見開いた目が僕の視界に大きく映った。
「さあ撃て! 早く撃て! 私を殺せ! 君の望む通りに、君にとっての邪魔者を自分の前から消し去るのだ!」
ボルデナウ卿の狂気じみた挑発に、僕は思わず後ずさった。相手が撃てと言っているのに、僕は相手の放つ気迫に圧されている。
「撃て! ぶち殺せ! 君の心から、目の前の邪魔者を跡形も無く掻き消してしまえ! 殺せ、君の望む通りに!」
(――僕の望む通りに。殺せ、僕の望む通りに!)
僕は自分に言い聞かせ、気迫に引っ込んだ殺意を呼び戻す。汗を越えて、掌がグリップに吸い付く。銃を握りしめ、僕はそれの照準を邪魔者の額に合わせた。
「殺せ」
邪魔者が叫ぶ。銃には既に銃弾が装填されている。
「殺せ!」
安全装置が外れる。後は引き金を深く引くだけだ――!

 ――殺せ!

 邪魔者の最期の言葉は、その喉からは出なかった。否、途中までは確かに耳に届いたのだが、僕の放った銃弾とそれによる銃声で、その後は遮られるなり撃たれるなりして聞こえないはずだ。何故、言葉の最初から最後まで聴こえたんだろう。空耳というやつだろうか。
とにかく、邪魔者は僕に撃たれて死んだ。死者が倒れていく光景は妙にスローモーションに見え、そして僕の目に焼き付いてしまった。
乾いた爆発音が聞こえ、銃の反動が手に伝わると同時に、邪魔者の頭は銃弾に跳ね飛ばされるようにがくん、と後ろにつんのめった。手首を掴んでいた手の力は急に無くなり、ずるりと落ちた。身体が頭と一緒に仰け反り、仰向けになるようにして倒れる。けれど僕の手首を掴んでいたせいか、身体が途中で傾き、それが一緒に倒れた椅子から投げ出された時は脇腹を下にしていた。死顔は僕の手首を掴んでいた腕で隠れる。
「――ボルデナウ卿……?」
僕は倒れているボルデナウ卿を見て、そんなことを呟いた。力が抜けて、その場にへたり込む。握っていた銃は僕の手から抜けて落ちた。
「ボルデナウ卿?」
自分が殺した彼の死体は眠っているように見える反面、酷い量の血を銃創から流している。彼の黒い髪がそこだけ赤茶けて見える。頭の辺り一面の床が血の海だった。血は床のタイルの目地をも伝って侵食していく。

 ――戦友は肝臓に穴を開けられて、背中からダムが決壊するように血がバシャッと噴出した――

 途端、昼間治まったはずの吐き気が襲ってきた。涙と共に沸き上がる吐き気を抑えられず、堪らずその場に吐いた。嫌悪感と罪悪感がない混ぜになって、胸がむかむかする。流れる血と吐いた胃酸の臭いとが、それを更に悪化させた。

 ――見開いた目が僕の視界に大きく映った――

 「――ごめんなさい」
自分で殺しておいて、都合の良いことに僕は何故か謝罪の言葉を吐いた。溢れる涙と口に残る吐瀉物と涎とでぐしゃぐしゃになって、僕は延々と謝罪を続けた。
「ごめんなさい、ボルデナウ卿」
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――

 「はい起きてー」
僕は人を殺したというのに、イェーガーのその声は呑気で間が抜けていると思う。
目を開けて最初に視界に入ったのは、両脚首に掛けられた手錠だった。顔を上げると、その口調に似合わないサバイバルナイフのように鋭い目をしたイェーガーが、腕を組んで、雨の漏れた後の付いたコンクリート打ちっ放しの壁に寄り掛かっているのが見えた。僕の腕は手錠を掛けられて、使い古された簡易的な、けれど硬い木の椅子の背もたれの裏に回されている。
ここは〝地下室〟の〝オフィス〟以外のどこかの部屋だろう。使用頻度は低めなのか、手入れが行き届いている気はしない。湿気が酷くてじめじめしており、脚を動かすと微かに水を踏んでいる感じがした。おまけに鍾乳石が部屋の隅で長くなっている。
イェーガーが姿勢を正して、コツコツと薄暗い古びた照明が明るくなっているところへ脚を踏み出す。イェーガーの白っぽいジャケットの裾が揺れるのが見えた。
「――自分が何をしたか分かる? アルベルト・シュミット」
眼鏡の縁が明かりに反射して、蒼いその目がライフルのスコープを覗く狙撃手のそれみたいだ。
僕はそれに答えようと口を動かそうとしたが、口ががくがくするうえに、声が掠れて上手く出なかった。腹に力を入れようとしても、吐いたせいか入れた力が空回りしている気がする。イェーガーはそれを知ってか知らずか、答えを待たずに手元のメモらしき書類を読み上げた。
「アルベルト・シュミット。貴殿は昨日夕方定時以降、ドイツ連邦国防省〝地下室〟に侵入しその場に居た一名を射殺。後、ゲロを大量に吐いて気絶、〝地下室〟に駆けつけた二名によって拘束されて今に至る。――というわけらしいんだけど、合ってる?」
――ゲロってなんだ、ゲロって。他に言い方は無かったんだろうか。
とは言え、それを読み上げたイェーガー本人も顰め面だった。単にその単語が嫌だったのか、こんな自分の職場で起きた事件の不祥事を処理しなくちゃいけないのが面倒なのかは分からないが。
とにかく、記憶の残っている部分に関して言えばその読み上げられたメモの通りなので、僕は絞り出した声で軽く「その通りです」と答える。
イェーガーは本当に何が気に入らないのか、いつも通りの「ふーん……あっそう」の返答がいつも以上に投げやり気味に聞こえた。イェーガーは溜息を着いて、さらにこちらとの距離を詰めて来る。
「ところで、これってモルト? それともトートシュラーク?」
イェーガーが首を傾げるが、僕は沈黙で通す。イェーガーは煙草の紫煙でも吐き出すかのように息を吐くと、口が寂しいのか唇の端をなめながら懐に手を突っ込んだ。銃でも取り出すのかと思ったが、出てきたのはシガレットの箱だった。が、部屋の壁にボロボロの『禁煙』の表示を見つけて苦虫を噛み潰したような顔になる。
「――君の故郷はイングランドだか北アイルランドだか知らないが、このドイツの刑法では二種類の殺人がある。モルト――謀り殺したのか、トートシュラーク――故に殺したのか。結果で言えばモルトのが重い刑になるわけだが、ドイツで殺人事件が起きればどちらと見做すかが真っ先に話題になる」
説明が好きなのか、単に口を動かしたいのか、今日のイェーガーは僕には饒舌に感じられた。
「私は自分の管理下でこういうことが起きた場合、きっちり片を付けないと気が済まない。今回だって事情がハッキリしなければどうしようか心配だった」
心配と言うより、わくわくしている感じがして嫌だ。
「けど、ここまで状況が分かっていればだいたい大丈夫だろう――これはモルトだ」
――僕もそうだと思う。
だが、いよいよ僕はそんなふうに他人事みたいに思ってはいけなくなった。今度こそイェーガーは手を懐に突っ込んで、僕と同じドイツ軍制式拳銃であるH&K USP P8を取り出したからだ。既に弾倉は入れてあるのか、イェーガーは拳銃のスライドを引くと僕の額に突き付ける。僕は目線を動かしてイェーガーを見上げた。
獲物を見つけた鷹みたいな目で僕を見据える。
「『〝地下室〟内外で、〝地下室〟に害をもたらす者が居たら問答無用でぶち殺せ』とは言った――だが、『基本法や法律に反するようなことをしても良い』とは言っていないぞ、アルベルト・シュミット!」
鉄のような口調で怒号を発しながら、銃口が僕を見下ろしている。けど、僕はこの期に及んでこれを他人事みたいにしか思えない。反省も言い訳も、懺悔さえも思い浮かばなかった。
「お前は〝地下室〟に害をもたらした――ということは、殺された者と同じ道を辿ってもらうしかないようだな……!」
ぎりり、と銃口が僕の額に押し付けられる。
――ああ。僕、死ぬのか。
虚ろな目で、僕はぼんやりと死とはなんだろう、と考えた。無神教者の僕には、宗教じみたものは到底考えることは出来ない。では、死とはなんだろう。
――死。
連想出来るのは、昨夜殺した誰かの死体。その主。死への欲求、その気迫。達観か諦観かは分からないが、何か悟ったような雰囲気。
昨日の朝のニュース。二十人以上の死者。異国の地での無惨な死は、どういうものなのだろう。
と、僕は兵役の末に行き着いたあの光景を思い出す。

 ――戦友はライフルを抱えたまま、背中から尻餅を着くようにして倒れた――
――戦友は肝臓に穴を開けられて、背中からダムが決壊するように血がバシャッと噴出した――
――スーパーマーケットの魚介類のコーナーで売っている、シュプレー川の魚みたいな目で彼が僕を見ていた――

 僕もあんなふうに死ぬのだろうか。あんなふうに、スーパーマーケットの魚介類のコーナーで売っている、シュプレー川の魚みたいな目で――

 ――スーパーマーケットの魚介類のコーナーで売っている、シュプレー川の魚みたいな目で――

 (嫌だ!)
僕は水面から顔を出したみたいに呼吸をした。目を見開いて、光を見た。僕を睨め付けるイェーガーの瞳に、ぎらぎらした目のアイルランド系ドイツ人が映っている。
(嫌だ! あんなふうになるなんて、真っ平ごめんだ――!!)
脚に活を入れ、水でびしょ濡れのタイルの床を踏みしめる。脚に着けられた手錠なんて知らなかった。僕はイェーガーを威嚇するつもりで、声にならない叫びを上げながら立ち上がろうとし、勢い余って腕で椅子の背もたれを引っ掛けて前のめりに倒れた。イェーガーは銃を僕のほうに向けてはいたが、引き金を引くのも忘れて、倒れゆく僕の顔を意味の分からなさそうな顔で見ている。手錠が着いていたせいで、僕は顔を身体と椅子ごと床に打ち付けた。衝撃で脳ミソががんがん揺れ、呼吸が途切れる。
「は――」
イェーガーを横目で睨む。イェーガーは驚いた表情をしていた。
僕はこのまま這いずってでも出て行ってやろうかと思った。が、そんなことは出来なかった。
今の音を聞きつけたのか、部屋の外から誰かが来る足音が聞こえたのだ。首を動かして、音のほう――部屋の入り口を見る。
「イェーガー?」
ノックと共にイェーガーを呼ぶ声が聞こえた。僕はその温和そうな声に懐かしさを覚え、同時に驚愕する。だが、呼ばれた本人であるイェーガーの顔には、その種類の表情など微塵も出てこなかった。返事も無く入り口のドアを見るイェーガー。イェーガーを呼んでいるほうも、答えを聞かずに「入っても?」と問う。イェーガーは倒れている僕を一瞥すると、
「どうぞ」
と返答した。「失礼」という声がし、ドアノブが捻られ、蝶番が軋む痛々しい音が聞こえる。
(嘘だろ?!)
部屋へ入ってきたその人物を見て僕が最初に思った言葉はそれだった。それが声として声帯を震わせなかったのは、単にさっき身体を殴打して呼吸が途切れてしまい、乱れた息を整えるので精一杯だったというだけだ。逆にそのほうが良かったかも知れない。混乱してそんなことを喚くのは、この場では僕だけだろう。
その人物は、誰の葬儀に出るつもりか喪服のように真っ黒いスーツを着ていた。その上からさらに黒コートを羽織っているくせに、表情はまるで季節感を感じさせない。さらには人生で学んだはずの喜びも怒りも悲しみでさえも、彼の仮面から剥がれて落ちている。僕はこんな人物を一人しか知らないが、その人は昨夜自分の手で以って殺しているはずだ!
喪服のその人は、部屋へ入るなりこうイェーガーに言った。
「あんまりシュミットを虐めないで欲しいな」
僕はその人の言葉を理解出来なかった。何故この人は自分を殺した張本人を、笑顔で弁護しているのだろう。
「虐めてはいません」
イェーガーが毅然と答える。もちろん銃を僕に向けたままだ。
「では何?」
その人がイェーガーに言い放つ。
「拷問かな? それか死刑? それとも私刑? 残念ながら、どれも基本法で禁止されているよね? 君は警察官でも検事でも裁判官でも、ましてや刑務官でも無いでしょう?」
「ですが憲法擁護庁職員です。それにこの〝地下室〟というドイツ連邦首相直轄の組織の元で働いています」
「特別な権限があるからと言って、簡単に人を殺していいという理由にはならないよ」
「ちょっと長生きで特別仕様の身体を持っているからと言って、職務執行を止められるとも限りませんが」
僕を蚊帳の外に追い出して、二人はじりじりと言い争っている。イェーガーは先程まで僕に向けていた無表情をその人に向け、その人は感情の欠落した表情から欠落したはずの感情を滲ませた。僕は姿勢をどうすることも、声を出すことも出来ずにいる。
「イェーガー――」
「そこを動かないよう。貴方だって、もう一回額に風穴を開けたくないでしょう?」
イェーガーがしゃがむ。僕のこめかみに今度こそ銃口が当たり、頭蓋骨をごりごり抉っている。対して、その人は表情を崩さず、こちらににじり寄ってくる。
「意外とそうでもないかも知れないよ? その貴重な消耗品を亡くすくらいなら、私の残機など喜んで消費しよう」
その言葉にイェーガーは不快感を露わにしている。
「これが貴重ですって? 冗談じゃない。こんな可燃ゴミをご自分達と一緒になさらないでください」
「『一緒』?」
その人の口から漏れたその言葉は、冷たく、美しく、そして残虐な響きを以って、この部屋に反響し、僕達の心に重石のようにのしかかった。
「『一緒』? 『一緒』、『一緒』だって……これが? こんなものが……?!」
その人は何故か、『これ』と言って自分を示していた。そんな彼の表情は、ちょうど影に遮られて見えない。見えないが、見えなくて良かったと思った。彼は狂気と悲哀の入り交じった声で叫ぶ。
「こんなものを……その、そこの貴重な消耗品と一緒くたにしてくれるなよ馬鹿馬鹿しい……! 君は――イェーガー、君は! その自分だって持っている貴重な消耗品を……この、得体の知れない……薄汚れて……使い古した……欠陥品と……一緒くたにして――さらには可燃ゴミだって……どういうことだ――どういうことだと言うのだ――どういうことだか説明してくれないか、イェーガー?!」
その人の激しい怒りに、イェーガーは戦慄していた。拳銃のグリップを握る手が震えている。その人は怒りを抑えつつも、今までになく感情的になってイェーガーに言った。
「命を粗末にするようなふざけた茶番はそれまでだ。出て行け、イェーガー――彼の処理はこちらでする……」
イェーガーはその声に渋々立ち上がり、拳銃を元通りに仕舞うと、誰にも謝らずにつかつかと部屋の出口へ向かった。喪服のその人とイェーガーは目を合わせようともしない。その人はそこから動かず、立ったまま、イェーガーがドアを開けて去るのを目で追っていた。

 「さて――」
と、その人が呟いてこちらへ歩み寄ってくる。猿轡のような雰囲気からは解放されたものの、僕はいまだに満足に声を出せる状態になかった。精一杯の呼吸をしながら、その人が来るのを目で追う。――何でか左足を引きずっているように見える。
「大丈夫? その状態だと床に叩きつけられたみたいだけど、他に酷いことはされていないかな?」
いつも通りの温和で優しい口調で訊ねてくるが、僕はそんなことよりも、その人が本当にその人なのかが知りたかった。
「あなたは――」
言いかけて、思い切り自分の唾液で噎せる。その人が心配そうに駆け寄って来て、明かりでその顔がハッキリと僕の目に映った。僕はハッキリしない掠れ声のまま、彼に訊ねる。
「あなたは……ボルデナウ卿なんですか?」
彼は僕の元にしゃがみ込んで、顔を覗き込んで答えた。
「まあ、多分。私は君がボルデナウと呼ぶ者で間違いは無いよ」

  1. 1
  2. 2
  3. 3
  4. 4
  5. 5
  6. 6
  7. 7