「あー、暇!」
という叫びをブリュールさんが上げたのはその日の午後だった。最も、その叫びは学生が現実逃避の時に使う、「やらなきゃならない課題は山ほどあるが、絶対にやりたくない。しかし課題しかやることがない」という意図が込められたそれとあまり大差はないふうに聞こえた。それに正直なところ、仕事を始めてから今日までの一週間で、その台詞を聞かなかった日は一日たりとも無かったと僕は記憶している。
「暇ならそこの書類の案件を引き受けませんか」
僕はボルデナウ卿のデスクの一角に積まれた書類を指して言う。ブリュールさんは「えー」と拒否の意志が込められた言葉を発する。――発しながら、ボルデナウ卿やナイトハルト卿に目配せしたのは気のせいではないと思う。
「だから言ってるでしょ、『わたし達は政府から回って来る案件を引き受けるつもりは毛頭無い』って」
ブリュールさんは僕をまるで子供扱いするみたいに言ってくる。
ちっともそうとは思えないけど、もしこの人達が本当に“地下室の偉人”達だったら見掛けによらず僕よりも何倍も年上なのだろうから、僕を子供扱いしようがそれは道理に適っているとは思う。けれど、僕を含めて皆揃って二十代前後の見かけで、かなり馴れ馴れしい態度を取ってくるから、あまりそうとも思えないのだ。少なくとも僕よりかは人生経験が積まれたような貫禄があるから、まあ皆年上なんだろうな、とは思えるけど。
僕は我慢ならずに言う。
「だいたい、何で民間からはともかくとして、政府から回って来る案件は全面拒否なんですか。これじゃ、〝過去の偉人〟の名前が泣きますよ?!」
「は? 何だって?」
そう言ったのはナイトハルト卿だ。僕はナイトハルト卿の吊り目から放たれた刺すような視線に射竦められる。
この人は口調もさることながら、顔にはほとんどの場合眉間に皺が寄っているので、視線を向けられるだけでびっくりする。最初に名前を呼ばれた時なんかは、うっかり涙腺が緩んでしまった程だ。僕は黒髪オールバックに髷という、似合っているけど妙に威圧感を増長させるような髪型が問題なんだと踏んでいる。邪魔なら切れば良いのに。
「ななな、何ですか?」
そして、今日も僕はナイトハルト卿の声に身構えてしまっていた。早く慣れたい。
「だから、〝過去の偉人〟がどうとかのくだりだ」
ナイトハルト卿が訊ねてきたのは意外な事柄だった。思わず僕が「え?」と訊き返してしまう。
「知らないんですか、〝過去の偉人〟の都市伝説を?」
「都市伝説?」
「なにそれ?」
ブリュールさんも知らないという素振りを見せる。僕は皆のあまりに意外な反応に、ボルデナウ卿のほうを向いて訊ねた。ボルデナウ卿はいつも通りにこにこしてこちらを見ている。
「まさか、ボルデナウ卿もご存知無いんですか?」
「うん、知らないね」
まさかとは思ったが、爽やかな笑顔で返された。僕が困惑していると、さらにボルデナウ卿は続けて、
「多分そこのフリッツ陛下もご存知無いと思うな。私達は事け――地上で起きている事件とかはニュースで分かるけど、そういう噂や都市伝説とか――なんていうか、こう――」
口を詰まらせつつ、良く分からないジェスチャーをしながらボルデナウ卿は言う。
「うん、口で伝わることには疎いから」
僕は恐る恐る、いつもと変わらず読書をしているフリッツさんに訊いた。
「フリッツさんも本当に〝過去の偉人〟の都市伝説はご存知無いんですか?」
フリッツさんは首と目線とをを少しこちらにちらりと向けた後、特に関心無さそうに、
「そうだね」
と、ぽつりと呟いた。僕はいよいよ困惑する。それを見てボルデナウ卿が言う。
「だから教えてくれないかな、その〝過去の偉人〟の都市伝説を」
僕は仕方無く、自分が知ってる限りの都市伝説を話した。
都市伝説のいわく、『ベルリンの地下施設には、旧体制によって蘇らせられた過去の偉人が棲んでいて、密かに国家に貢献している』。実際、こうして僕はベルリンの政府機関の地下施設で仕事をしているし、そこにはそれらしい人達も居た。しかも、以前ここで働いていた知り合いはその人達を〝過去の偉人〟であると認めている。けれど、実際にはその人達は国家に貢献なんかしていない。それどころか暇を持て余している。
「――だから、僕は『これじゃ〝過去の偉人〟の名前が泣く』と言ったんです」
僕はそう言って、その“過去の偉人”たる皆の顔を見た。皆は肘を着くなり腕を組むなりして話を聞いていたが、その後最初に発せられた言葉は、「ふーん」という期待よりも軽々しいものだった。
「なっ……?!」
僕の口から出た声に、ブリュールさんが吹き出すのが聞こえ、それをナイトハルト卿は不快そうに見た。フリッツさんはつまらなさそうに再び読書に戻る一方で、ボルデナウ卿はそれこそ意外そうに、
「あれ、ショックだった?」
と言う。
「だって、そうでしょう?! 期待を裏切られたんですから……」
「そんなこと言われても……ねえ?」
ボルデナウ卿は苦笑している。
「私達はそれを知らなかったわけだし、それに――」
ボルデナウ卿は苦笑を一瞬だけ薄ら笑いにすり替えて、
「君達が勝手に僕達をその〝過去の偉人〟とやらに勘違いしているという可能性は無いのかい?」
と言った。僕はその言葉と表情に背筋が凍る。が、そのボルデナウ卿の薄ら笑いは「なんてね?」という言葉と共に、すぐさま含み笑いに切り替わってしまう。僕のほうはその一瞬の薄ら笑いのせいで、胃がずんと重くなってしょうがなくなったのだが。
「ああもう……」
ブリュールさんが口を開いた。ブリュールさんはさっき吹き出してから、ナイトハルト卿の視線も構わず腹を抱えて大笑いしていたようだ。僕としても真剣な話を大笑いで終えられては心外なのだけど。
「新人のギャグにも飽きたし――」
「アルベルト・シュミットです、ブリュールさん。あとギャグじゃないです」
ブリュールさんに幾度と無く名乗る僕。いい加減に人の名前を覚えて欲しいし、真剣に人の話を聞いて欲しい。ブリュールさんは「ごめんごめん」と軽く謝る素振りを見せてから、ナイトハルト卿に向かって言う。
「そう、そのシュミットの話にも飽きたし、久しぶりに出掛けませんか?」
(また大変なことを……)
僕は心の中で毒づいた。何故なら――都市伝説の真偽はともかくとして――〝地下室〟に勤める僕の職務内容には、『〝地下室の偉人〟が出掛ける際には、余程の事情が無い限り随伴すること』というのが入っているからだ。
僕は一応、この仕事に就いたことで社会には復帰出来たが、未だ街中をぶらつくとかそういうことをする心の余裕が出来ていなかった。話し相手だって、この職場――皆はここのことを〝オフィス〟と呼んでいる――以外には、病院のカウンセラーか時々電話を掛けてくるエルンスト・フランツ大尉くらいしかいない。話した後だってどっと疲れるのに。
しかし、話は本格的に出掛ける方向に向かっていた。
「ねえ、良いでしょう? ナイトハルト卿もたまには出掛けないと、眉間の皺が倍々で増えていきますって」
「お前の言い方は気に入らないが、息抜きには賛成だな」
そこは反対して欲しい。例えナイトハルト卿の眉間の皺が倍々で増えるとしても、僕の胃痛の頻度が倍々で増えるよりマシだ。ブリュールさんはボルデナウ卿に向き直る。
「〝先生〟も出掛けませんか?」
(駄目だ! 反対してくれ、ボルデナウ卿!!)
僕は心中で合掌した。ボルデナウ卿は一瞬だけ考えるふうを見せ、ブリュールさんの誘いに答えた。
「僕は遠慮しておくよ」
僕はその言葉に感謝し、嘆息し、安堵した。しかし、それは二言目を聞いてからにすれば良かったと次の言葉を聞いて思った。
「でも、ここ数週間外には出られなかったし、丁度良いと思うな。行ってきなよ」
ショックだ。ボルデナウ卿の微笑みが悪魔がほくそ笑んでいるようにも見える。頭を抱えながら視線だけをぐるりと動かすと、斜め前の席のブリュールさんがまた抱腹絶倒しているのが目に入った。
「新人の――表情……! ぷふっ……!」
ブリュールさんが笑いながら席から立つ。それを見て、溜息を着きながらナイトハルト卿も起立し、ボルデナウ卿のほうを向く。
「ではボルデナウ卿、俺達は少し出てきますので」
「うん、気を付けてね。おみやげにカリーヴルストを買って来て貰えると嬉しいな」
ボルデナウ卿が手をひらひら振るのを見たのと、服の背中を掴まれたのはほぼ一緒だった。そのまま首が絞まるのを感じて、僕は仕方なく席を離れる。それをフリッツさんが横目でちらりと見る。
「私はしばらく読書してるから」
と呟いた。それはもう必要無かったんじゃないか、とか、僕は生きてここに戻って来れるだろうか、とか思いながら、僕は〝オフィス〟を後にした。
そして思った。こっちのほうがギャグではないかと。
〝オフィス〟のあるドイツ国防省は、シュタウフェンベルク通りと言うティーアガルテンの南側の外れにあるちょっとした大通りに面している。旧体制まではベントラーブロックと呼ばれ、戦時中に七月二十日のクーデターで一気に有名になったところだ。ちなみに、そのシュタウフェンベルクという通りの名前も、その七月二十日のクーデターの首謀者の名前を取っている。今では愛国の英雄だ。もうすぐそれに関連した映画が制作されるとかで、国防省も大変な騒ぎである。
しかし今はそんなことはどうでも良い。映画の制作許可うんぬんより、自分の精神的健康のほうが早急に解決すべき問題だ。
「ところで、どこに行くんですか?」
僕は国防省の建物を出たところで、言い出しっぺであるブリュールさんに訊いた。もう外出することに関してはどうにもならないと諦めた。ブリュールさんは少し考えて、
「近場が良いですよね?」
と、ナイトハルト卿に訊ねた。ナイトハルト卿も思案する様子を見せた後、
「それが良いだろうな。ボルデナウ卿のおみやげのこともある」
「じゃあ近場で」
彼らはそう言うが、僕は『近場』という言葉に引っかかりを感じた。
ボルデナウ卿が言っていたおみやげと言えばカリーヴルストだ。けれど、僕はこの近くでカリーヴルストを売っているような店を知らない。第一、この近辺は官公庁街だ。ちょっと歩けば日本大使館だってある。となれば、思い当たるところは一つだが、僕はそこを近場と呼びたくない。
僕は彼らに言った。
「言っておきますけど、僕は自動車の免許なんて持っていませんよ」
「誰も自動車に乗るなんて言ってないんだけど」
ブリュールさんが当然のことのようにキッパリと言う。
「じゃあバスとかですか」
「やだよ。自動車ってだけで酔うのに、他人が運転してる自動車とか、考えるだけで気持ち悪くなっちゃう」
ブリュールさんが本当に気分悪そうにしたのを見て、僕は絶望した。ナイトハルト卿はそんな僕のことなんかガン無視して言い放つ。
「とりあえず、ウンター・デン・リンデンまで歩くぞ」
というわけで、僕は今、ブリュールさんとナイトハルト卿のお供をしてティーアガルテン通りを歩いていた。普通に歩くのなら森の脇を抜ける心地良さを感じられるのだろうが、脚の古傷が痛んでしょうがない今の僕にそんな余裕など無かった。この二人、普段“地下室”という閉鎖空間で生活しているはずなのに足腰はかなり丈夫なようで、並んで歩く二人の後ろを間隔を空けて僕が付いて行くという有様だ。
「大丈夫か新人」
ナイトハルト卿が歩きつつも、振り返ってこちらを気遣ってくれる。大変ありがたいが、歩きながら話すのはかなり堪えた。僕は息切れ気味に「はい」と返事するのが精一杯だ。ブリュールさんがくすくす笑っている。
「本当にひ弱だなあ、新人は」
「アルベルト・シュミットです、ブリュールさん!」
もう訂正する気力も薄れてきた気がする。ブリュールさんが子供みたいに頬を膨らませて、
「ナイトハルト卿も『新人』って呼んだじゃん……」
とか言ってる気がするけど、もうどうでも良い。
それより、先程のボルデナウ卿の言葉が引っ掛かっていた。
――君達が勝手に僕達をその〝過去の偉人〟とやらに勘違いしているという可能性は無いのかい? ――
(本当にこの人達は〝過去の偉人〟じゃないのか……?)
確かに、ボルデナウ卿の言う通り、彼らが〝過去の偉人〟であると僕達が勘違いしているという可能性は否めなかった。例の都市伝説の定義で彼らを〝過去の偉人〟だとするのはかなり曖昧だし、都市伝説そのものが誇張という可能性も捨てきれない。
僕は日々こういったあやふやなことに挑戦していた、大学時代の教授や後輩を思い出す。
(こんなことに挑戦していて、頭がおかしくならないのかな……)
けれど、その分僕よりも優れた才能とか精神を持っていたと考えれば、その時感じられなかった尊敬の念を感じられるというものだ。
だが、僕にはそんなぼんやりしたことに挑み続けられるような根気は備わっていない。僕は息を吐く。
(とりあえず、これは本人達に訊いてみるしかないか……)
そう結論付けて、前を向いた。
既にブリュールさんやナイトハルト卿とはかなりの差が開いていた。彼らが止まってこっちを見ている。僕はびっくりしつつも、彼らの元に走る他無かった。
「あー、もう! 新人のせいで余計に時間が掛かっちゃったじゃん!」
「本当に申し訳無いです……」
ブランデンブルク門の作る日陰で項垂れながら、僕はブリュールさんの文句を聞いていた。約三十分歩いた後の文句は、かなり精神的に来るものがある。
「なんなの?! 現代人って二キロ程度の距離を遠出って呼ぶくらいしか体力が無いの? 信じられないよ、全く――」
「いいから落ち着け、ブリュール!」
その文句を遮ったのはナイトハルト卿だ。
「新人も大丈夫か? 体力が無いのは問題だが、ここで限界点を迎えられるとかなり困るんだが」
「いいえ、大丈夫です」
これ以上体力を落とさないようにしよう、と誓いつつ、僕は返事をして立ち上がる。それを見たブリュールさんが再び歩を進め始め、それにナイトハルト卿と僕が続く。
「ところでどうします? 先にカリーヴルスト買っちゃいますか?」
「それだとすぐ冷めてしまうだろう」
ごもっともだ。そこでブリュールさんがくるっと身体をこちらに向けて、ナイトハルト卿に言った。
「わたし、ちょっと行きたいところがあるんですが」
「どこだ?」
ナイトハルト卿が訊き返す。ブリュールさんがウンター・デン・リンデンの通りの奥のほうを指して言った。
「フンボルト大学です」
僕はその場所の名前に、思わず目を丸くした。
フンボルト大学はウンター・デン・リンデン沿いにある、名前の通り、ベルリンの最高学府の一つだ。歴史としてはウィーン大学やハイデルベルク大学には及ばないが、今ではドイツ文化圏を代表する大学の一つになっている。
「何でブリュールさんが大学なんかに用があるんですか?」
僕はブリュールさんに訊ねた。ブリュールさんはちらっとこちらを振り向いて、
「心外だな! わたしだって学問には興味あるよ!」
と言う。僕の喉から息が引っ込むような音が出る。ブリュールさんは続けて、
「そこの大学にね、わたしのお気に入りの学者が居るの。何年か前に論文を見つけてね。読んだ時はもう、嬉しいどころじゃ無かったね」
ブリュールさんはうきうきして、とても楽しそうだ。その一方で、ナイトハルト卿は呆れ半分に話す。
「小躍りを通り越して狂喜乱舞していたな。あの時はとてもうるさかった」
「新人の前で言わないでください! 恥ずかしいじゃないですか!」
ブリュールさんが子供みたいにむっとする。でも、確かにブリュールさんなら――いや、ブリュールさんどころか、〝オフィス〟のメンバーなら大学の講義に紛れ込んでいようとバレなさそうな気がした。
「ところでさ、新人」
ブリュールさんが、お返しみたいに僕に問いを投げて来る。僕は少しびっくりして、心臓が飛び跳ねた。
「な、何ですか」
「さっきは何を考えてたの?」
「えっ」
「ティーアガルテン通りで、急に歩くペースが遅くなったあたり! 何考えてたの?」
ブリュールさんの振り向き顔はにやりと笑っている。並んで歩くナイトハルト卿も横目でこちらを見ていた。ナイトハルト卿は小さく溜息を着いて言う。
「どうせ、さっきボルデナウ卿に言われたことを考えていたんだろ」
僕はそんなに分かりやすいのだろうか。ナイトハルト卿はまた呆れ顔で、
「――目が泳いでいるぞ」
キッパリ言われてしまった。ブリュールさんが笑う。
「面白いなー、新人は!」
全然面白くないです。ブリュールさんは含み笑いをしながら言った。
「わたし達が新人の言う〝過去の偉人〟かどうかなんて、大した問題じゃないと思うけどなー」
「確かにそうですけど……」
僕は反論するが、いまいちその先が口から出て来ない。ブリュールさんが小さく息を吐くのが聞こえた。
「新人の言う〝過去の偉人〟の定義でいくのなら、わたし達のことで合ってるけど」
どう思います? と、ブリュールさんがナイトハルト卿に訊ねた。僕はナイトハルト卿のほうを向く。ナイトハルト卿は悩む様子も無く、
「合っているだろうな」
と、それをあっさり肯定する。僕はほっとして息を着く。が、
「例えばフリッツ陛下はそこの騎馬像の人だし」
「はい?!」
ブリュールさんがいたずらっぽく笑って指した先にあったのは、ウンター・デン・リンデンの道路の真ん中に陣取って建っているプロイセン王・フリードリヒ二世の騎馬像だった。
フリードリヒ二世と言えば、今のドイツの礎を作ったプロイセン王国の基礎を作った人じゃないか。当時、小国扱いされていたプロイセンを、オーストリアやフランス、イギリスにも劣らない大国にのし上げた業績を残し、『大王』と呼ばれ、言わばこの国の礎の礎を築いたわけだが、フリッツさんがその人だって?!
僕は突然のブリュールさんの大暴露にびっくりする他無い。
「嘘ですよね?!」
「人が肯定したと思ったらこれだよ!! わけ分かんない」
ブリュールさんに呆れられる僕。至極当然のことを言ったと思ったんだけど。
「いきなりそんなこと言われても、信じられないじゃないですか」
「だって似てるし、名前だってそのまんまじゃん」
「んなこと言われても――」
ブリュールさんは返答に疲れたのか、僕から目を逸らして大きく溜息を着いた。
「まあいいや」
僕は呆れられた気がして、視線を落とす。口角がぎゅ、としまる。
「すみません」
「何が」
「無駄な質問をしてしまって」
「え?」
そういうことではなかったのだろうか? ブリュールさんは今度こそわけの分からなさそうな顔をしていた。ブリュールさんは眉を顰めて首を傾げ、短く息を吐くと、もうすぐそこにあったフンボルト大学の門に近付いて行き、思い出したように振り返った。子供みたいな無邪気な表情だった。
「では、僕は行って来ます。終わったらナイトハルト卿のケータイにメールしておきますので」
(僕、何か変なこと言ったか……?)
あの後、僕とナイトハルト卿は、フンボルト大学の近くにあるドイツ歴史博物館のカフェでコーヒーを飲んでいた。ブリュールさんの用が終わるまで、僕達はここで待つことにしたのだ。
さっきのブリュールさんのわけの分からなさそうな顔が、僕の目にこびり付いて離れなかった。なんだかモヤモヤした感じがしてスッキリしない。僕の考えていた話題の焦点とブリュールさんの考えていたそれとは食い違いがあったのは分かるが、どう食い違っていたのかが分からない。
そんなことを考えていたら、僕の脇でコーヒーにミルクと砂糖を入れて掻き混ぜていたナイトハルト卿の手が、中途半端なところで止まったのが目に入った。コーヒーに向けていた目線を上げると、ナイトハルト卿が怪訝そうな目でこちらを見ている。
「どうかしました?」
僕はナイトハルト卿に訊ねた。ナイトハルト卿は僕の手元を指して言う。
「砂糖を入れるのは良いが、それで何個目だ?」
指摘されて、僕は自分の手元を見た。――左腕は肘を着いて手は顎に添えているから良いとして、右手はトングで以って角砂糖を掴んでいる。で、それを投入するはずのコーヒーはと言えば、その前に投入した角砂糖が頭を水面よりも上に出していた。僕はそれを見て沈黙する。
「お前、こんなに砂糖を入れる奴だったか?」
ナイトハルト卿に訊かれ、僕は手元のトングを砂糖の入っていた容器に砂糖を掴んだまま戻す。
「いえ、気付きませんでした。――入れ過ぎです」
「だろうな」
僕は、今度は入れ過ぎた分の砂糖を出来るだけ取り除こうとした。スプーンで角砂糖を掬って、コーヒーカップの載ってきた皿に除ける。すると、
「もう砂糖は入ってないぞ」
とナイトハルト卿が自分のコーヒーを飲もうとしつつ言う。僕は砂糖を掬うスプーンが、カップの底をカンカンつつく音を聞いた。僕は咳払いをして、取り出した角砂糖を改めて三個投入して掻き混ぜる。かと思えば、
「新人」
「何か?」
「お前さっきからおかしいぞ、何か考えごとでもしているのか?」
僕はやっぱり分かりやすいのだろうか。なんで――
「僕が考えごとをしていると分かったんだろう、とか考えているんだろう? そんなに挙動不審な行動を連発されたら何がなんでも気付くだろ、新人」
僕の考えていることをそのまま継いだようにして発せられた言葉に、僕は目を丸くする。
「僕、そんなに挙動不審ですか」
「十二分に挙動不審だ」
「知りませんでした」
ナイトハルト卿の口から溜息が漏れた。
「それで、何を考えていたんだ?」
ナイトハルト卿の鋭い目に見据えられる。僕は唾をごくりと飲み込んでから口を開いた。
「さっきのブリュールさんとの会話が引っ掛かるんです」
「ああ……確かに、会話が噛み合っていなかったな」
ナイトハルト卿が納得したように言う。僕は重ねて言った。
「だいたい、ブリュールさんたら人の名前は覚えてくれないし、いい年して挙動が子供っぽいし――」
そこまで言って、僕ははっと口を閉じる。黙っていなくても、ナイトハルト卿が眉間に皺を寄せて、ただでさえ吊り目なのにこのまま刺し殺されそうな視線を向けていたからだ。当然だ、いつからあの〝地下室〟で共に行動しているかは分からないが、仲間のことをそんな風に言われたのだから。仲間と名誉を大事にするドイツ人なら堪ったもんじゃないだろう。
僕は怒号が飛んでもおかしくないだろうと、内心ビクついた。けれど、ナイトハルト卿の口からは怒号は出ず、代わりに奥歯を噛み締め、腕を組んで、右手人差し指が眉間の皺を数えるように動いていた。怒りやその他の小難しい感情がない交ぜになったような表情だ。苦虫を噛み潰した感じってこのことだろうか。ナイトハルト卿は「あー」と小さく唸った後、
「あれは俺にも良く分からない」
と言った。『あれ』というのは、多分ブリュールさんのことだろう。
「あれはずっと猫を被っているんだ。俺の前ならまだ猫を放り出す隙があるが、ボルデナウ卿の前となるとまた強烈で」
「え、あれは猫被ってたんですか?!」
「もうボルデナウ卿にも猫だってバレているんだがな――人が居ないか、もしくはどうでも良い者の前では冷徹だ」
僕は信じ難い言葉の連続に混乱しかかっていた。ブリュールさんのあの様子からは冷徹なんて要素は連想出来ない。
「だが、これは分かる。あれが未だにお前を『新人』としか呼ばないのは、お前にも原因があるぞ、新人」
勿論俺もだが、とナイトハルト卿は付け加えた。「え」と、僕の口から不意に声が出る。ナイトハルト卿はコーヒーを一口啜り、
「俺達がお前を『新人』としか呼ばないのは、お前が俺達に出来るだけ介入しないようにしているからだ。最初の時、挨拶の握手さえするのをはばかっただろう? さっきの会話だって、お前が勝手にあれを『無駄な質問』だと思い込んでいたし。介入して来ないなら名前を呼ぶ価値なんて無いと判じているんだ、あれは」
――見透かされている。
僕は顔を伏せ――僕はそんなに分かりやすい人間なんだろうか――そんなことを思っていると、
「何年、いや何十年生きていると思ってる?」
ナイトハルト卿が言い放つ。僕は心臓が爆々鳴るのを感じながら顔を上げた。ナイトハルト卿は空っぽになったコーヒーカップを持って、僕を見下ろす。
「人間関係に誤魔化しが効くと思ったら大間違いだ、ガキめ」
僕はゾッとして、テーブルに置かれるコーヒーカップの軌道を見ていることしか出来なかった。カップの底がカンと鳴る。
ナイトハルト卿は上着のポケットに入っていたケータイを取り出し、たっぷり数十秒程ボタンというボタンを押しまくった後に視線を画面の上から下まで動かして、
「やっとブリュールの用事が終わったようだから、俺はこれからあれと合流して“オフィス”に戻る。お前はもう少しゆっくりしていて良いぞ。カリーヴルストも忘れるなよ」
と言って、ケータイを再びポケットに突っ込む。僕は顔を伏せる。ナイトハルト卿はテーブルにコーヒーの料金分のユーロを置いて、さっさとカフェから出て行ってしまった。
――介入して来ないなら名前を呼ぶ価値なんて無いと判じているんだ、あれは――
――人間関係に誤魔化しが効くと思ったら大間違いだ、ガキめ――
(そんなこと言われても……)
僕はナイトハルト卿の言葉を反芻しながら、心中でぼやく。目線をコーヒーに落とすと、ソバカスのあるアイルランド系ドイツ人の情けない顔が映った。そいつの目はどこかで見たような、そう、スーパーマーケットの魚介類のコーナーで売っている、シュプレー川の魚みたいな目で僕を見ていた。ゾッとする。気味が悪い。僕はそれに苛ついて、カップの取っ手を掴んで中身を一気に飲み干す。底に溶けかかった砂糖の残骸が残ろうが気にしない。
(僕は――)
僕はナイトハルト卿が残して行ったコーヒー代を掴んで、勘定を済ませようと、このテーブルの担当の店員を探した。テーブルに座ったまま、店内を見回す。――そういう時間なのか、店内はなかなか人が多くて、店員を見つけられない。
ドイツの喫茶店――どころかレストランも――というのはレジが存在しない。支払いにはそのテーブルの担当の店員を見つけて人差し指を立て、その人の目をじっと見て呼ぶのが基本だ。
だが、見つけられない。僕は目を細める。途端、
(え――)
僕のテーブルの周りの風景が、カフェでもベルリンの街でもなく、ドイツでもない別のものに化けた。周囲に居た人達は、絵の具が掻き混ぜられたように雑に混色され、引き伸ばされる。
(何が起きている――?!)
僕の目が回ったのか、周りが回っているのか。その時は分からなかったが、恐らく僕が混乱しているのは明らかだった。けれど、その時はどっちでも良かった。風景にぶち撒けられて伸びた絵の具が、恐ろしいどでかい影に見える。ぐるりと見回してみても同じだった。僕は目を見張る。
「××××××――」
僕のすぐ横から、そのどでかい影が手を伸べて迫って来た。虚ろな視線で射抜かれた僕は影を見上げたまま微動だに出来ない。
「××××サマ――」
影が僕の肩に手を載せた。僕の身体が条件反射でびくりと震えた。
と、
「お客様? お勘定でございますか?」
店員に用件を訊かれた。女性店員が、僕の顔を不審そうに覗き込んでいる。
「ああ――はい、勘定をお願いします。お釣りは要らないので」
僕は姿勢を正して、手元のユーロをまとめて手渡す。店員は無愛想にそれを受け取ると、とっとと去って行った。僕もそれを見送ると、急かされてもいないのに席を立つ。早足でカフェのテーブルや椅子や客と店員の間を抜け、店の外へ出る。息を着けたのは、まだ明るいウンター・デン・リンデンの通りに出てからだった。――心臓がどくどくと音を立てているのが聞こえる。
暴れる心臓を抑えながら息を整えていると、今度は
「どうかした?」
フリッツさんだった。僕はさっきのこともあって、思わず横に跳んだ。フリッツさんが杖に寄りかかりながら怪訝そうに首を傾げる。
「他人が話し掛けたらバックステップするのが現代人の流儀なのかね?」
違います!
「すみません、さっきちょっと――」
また口ごもる僕。フリッツさんは不思議そうに僕を見ていたが、
「――ボルデナウにカリーヴルストを買って帰るのだろう? 気を付けて帰るんだぞ」
と言って立ち去りかけた。咄嗟に「あの!」と声を掛けて引き止める。
「何かね?」
「フリッツさんは何故ここに?」
フリッツさんがドイツ歴史博物館の向かいにある、工事中の幕が掛かった建物、オペラカフェの左を杖で指す。
「ただの帰宅だ。私の住まいはそこの工事中の皇太子宮殿の地下でね。イェーガーに言ってきみ達の国防省に通わせてもらっているのだよ」
言わなかったかね? とフリッツさんが皮肉っぽく言う。そういえば最初にイェーガーにそんなことも言われたかも知れないが、フリッツさんのことだったのか。腕時計を見る――とっくにもう終業時間だ。
「ところで、フリッツさんはプロイセン王・フリードリヒ二世だと聞いたのですが」
僕がフリッツさんに言うと、まだぎりぎり笑顔に見えなくもなかった顔からすっとそれが消えた。フリッツさんは無表情で、
「――誰から聞いた?」
「ブリュールさんからです」
訊いてはいけなかったのだろうか、とフリッツさんの表情を見て僕は後悔した。フリッツさんは一瞬杖をぎゅっと固く握ったが、怒ってはいないようだった。「そう」と返事をすると、
「どっちだと思う?」
とフリッツさんは笑って言った。僕は唖然とする。
「えっ……と」
どう答えれば良いのか、僕は分からなかった。僕が考えていると、フリッツさんが、
「じゃあ、質問を変えよう――どっちなら良い?」
と言う。さっきと変わらず笑顔だが、笑顔とも言い切れない気がした。なんとなく、目が笑っていないように見える。僕は質問の意味が分からず訊ねる。
「それはどういうことですか?」
「そのまんまだ。きみはどっちなら良いと思う?」
「僕は――」
そんなことは考えたことも無かったので、相変わらず返答には困った。フリッツさんがくすくす笑いながら言う。
「答えに困っている顔だな」
「考えたことも無かったので……」
「ふうん」
僕の返事に、フリッツさんは先に答えを出す。
「つまり、きみはどっちでも良いということではないか? 私達が本物の偉人だろうが、はたまた偽物でも」
――え?
僕はその言葉に違和感を覚えた。疑問を投げて立ち去りかけるフリッツさんに、僕は訊ねる。
「どういうことですか?! 偽物って――」
「それこそ、きみにはどっちでも良いだろう?」
そう言い残して、今度こそフリッツさんは去って行った。確かにどっちでも変わらない気はするが、どうでも良い問題ではなかった。
『偽物』って、どういうことだ?