黒山羊塔

第六章

 気付くと、僕は荒野の真ん中に立っていた。相変わらず風が強く吹き荒び、砂煙の巻き立っている、あの懐かしい荒野だ。
だというのに、僕はなんの装備も持たず、普段着のまま、そこに居た。
エルンスト・フランツに撃たれたテーザーガンの効果のせいか、電極の命中した右腕がズキリと痛む。僕は電極が突き刺さったそこを反射的に押さえて擦る。
と。その時、昼の太陽が照りつける乾いた荒野の風景が急に暗くなった。風が更に勢いを増して、僕の上着の裾を揺らす。今にも雷雨になりそうなその天候に、僕は空を見上げた。
その空から降ってきたのは、普通の雨ではなく、赤い薔薇の花弁だった。ひらひらと舞い散るそれは、僕の頬に着地するかと思えば、途端に生暖かい液体になって頬を滑り落ちる。僕はそれを奇妙に思い、花弁を改めるべく掌に散るそれを見た。それは掌に舞い降りた瞬間、着地した途端に朱色の液体になって、べしゃりと潰れるように掌に付着する。それが人間の血だと理解するのに、僕は数秒も要しなかった。
その液体がまだ内包する体温に、僕は僕の内側から拒絶が沸き上がるのを感じ、顔が朱色に染まるのも構わず口に手を添える。――指の隙間から、抑え切れなくなった胃酸と唾液とが漏れ出す。生理的に目から塩水が滲んだ。呼吸器官の出口が塞がり、噎せ返る。
僕のその様子を、少し離れたところで誰かが見ていた。誰かはハッキリとは分からない。暗いし、差した傘のせいで表情どころか姿そのものが影のようだったからだ。その影は、傘から大量の血を滴らせながら僕を見て顔を顰める。
「血を見ただけで吐くとは、もうそういう癖でも付いたのかね?」
僕は緩くなった涙腺を袖口で押さえつけながら答えた。
「本当に嫌な癖が付いてしまったもんですよ」
汚れた口元を、涙腺を押さえた手をそのままに拭く。
「トラウマの一部のようなものなんでしょうが、面倒ですね。これではこれからここでやっていけるかどうか」
言うと、傘を差していた影が、風に吹き飛ばされる薔薇の花弁のように、バラバラと崩れた。僕がそれに驚いて目を擦ると、次は背後で声がした。
「無理して続けなくても良いんじゃないのか?」
振り返ると、厳ついシルエットを持った影が、傘も差さずに立っている。僕も傘を差していないという点では一緒だが、影は花弁の雨を避けようとか、滴る血を拭こうとかしない点で違っていた。
「ボルデナウ卿がお前に種明かしをした翌日から、お前には――以前から決まっていたこととはいえ――休暇が与えられていた。その間に進退を考えることも出来たはずだ。何故辞めようとしなかった?」
「さあ――そんなことは考えませんでしたね」
顔に掛かる血を拭い続けたせいか、白いシャツの袖は赤黒くなっている。
「生活が懸かっていましたし――何より、〝地下室〟に居る皆さんのために働こうと思いました」
「じゃあ、さっきの『殺してやります』は何?」
先程まで話していた影は胸元から破裂するように千切れ飛び、今度は僕のすぐ側に別の影が居た。僕とそれほど変わらない背丈のその彼は、僕の顎に手を伸ばし、くい、と顔を近付ける。今度こそ影の顔が拝めるかと思ったが、影は影のまま、身体そのものに墨でも塗ってあるかのように真っ黒だった。顎の触れられた箇所が生温い血で湿るようで不気味に感じる。
「それもわたし達のためだって言うの?」
「だって、あなた達諦めているでしょう?」
「何だって?」
僕は影の手を退けようと、その手を掴んだ。けれど、掴んだそれは人間のそれでは無く、花弁が人の形を成しただけの塊だった。掴んだ花弁の塊がグシャッと潰れて、僕の掌を真っ赤に染める。嫌な温度に再び湧き上がる嫌悪感を抑えながら、僕は続けた。
「僕に希望を見せておきながら、そんな人達が自分でも知らず知らずのうちに、現状に諦めを感じている。そんなの放っておけないんですよ」
その墨色の花弁の塊は、僕に腕を引き千切られたそのままの形で訊いてくる。
「本当に殺してくれるわけ? きみが?」
真っ赤に染まった掌を握り締めて、僕は言う。
「あなた達が死にたいと言うのなら、殺してあげます」
人の形のそれは、今度は腹のあたりから砕け、風に流されていく。代わりに、その奥に違う影が現れる。
「死ぬというだけなら、エルンスト・フランツがやってくれそうだけど」
その影はまだ話を終えていないだろうに、既に身体を構成している花弁が端からぽろぽろと取れていた。
「君はそれを手伝う側では無さそうだね。今は殺してくれないのかい?」
「以前の大尉になら恩義を感じますが、今のエルンスト・フランツには敵意しか湧きませんからね。それに、彼のやり方には多分反対です。僕は僕なりに考えがありますので」
この言葉に、口元も見えないのに影が微笑んだ気がした。
「なら、早く目を覚ましてよ。彼が私達を殺す前に」
突然、突風が吹いた。眼球が乾くほどの強風に、僕は思わず身構え、瞼をギリギリまで下ろす。その瞬間、夜明けのように光が差し――逆光になって僕の瞳に映った影が、霧散し、僕のほうへ飛んで来た。血の雫となって僕に降りかかる。僕はギュッと目を閉じ――

ドアをノックするような、小気味良い音が聞こえた。
自分に意識があるのは分かったが、けれど身体が鉛そのものみたいに重く、全てがぼんやりとしている。首の襟元を掴まれているらしく、息がかなり苦しい。末端までの脳の指示系統が復活しているようには思えなかった。しばらくは視界や鼓膜に飛び込んでくる情報を、甘んじて受け入れるくらいしか出来ない。
けれど、それを僕はすぐ後悔することになりそうだ。ノックに答える、ブリュールさんの「入ればー?」の声を聞いた時、僕はそう確信した。
しばらくしてナイトハルト卿の手によってドアが開かれると、僕の頭の上でエルンスト・フランツが地をずるりと這う蛇のような声で言う。
「どうも、お久しぶりでございます――参謀本部の皆様」
ブリュールさんが驚愕で声帯を痛々しく震わせるのが聞こえた。ナイトハルト卿がすぐにドアを閉めようとするが、瞬間、エルンスト・フランツは僕を部屋の中へ放り投げた。僕は身体をドアにぶつけ、硬いタイルの床に叩きつけ、流血し気絶しているであろうフリッツさんと折り重なるようにして倒れる。余りの衝撃に僕は咳き込む。
それによってナイトハルト卿が怯んだ瞬間を、エルンスト・フランツは見逃さない。フランツはすかさず、所持していたらしい銃をナイトハルト卿に向かってぶっ放した。この至近距離だ。ナイトハルト卿は銃弾を躱せず、胸のど真ん中にそれを喰らってしまった。ナイトハルト卿の表情が苦痛に歪み、彼の口から血が吐き出される。ナイトハルト卿が仰向けに倒れていくのが見えた。
「ナイトハルト!」
ボルデナウ卿が叫ぶ。その声に弾かれたように、今まで固まっていたブリュールさんが素早く後ずさり、背後にあった壁に掛かっている内線電話の受話器を叩き落とした。がちゃん! という音にフランツがブリュールさんのほうを向く。フランツの構えた拳銃の射線がブリュールさんに向かうその直前、さっき銃弾を喰らったばかりのナイトハルト卿がフランツに飛び掛かった。敵意を向けられていない僕でさえ戦慄するほどの気迫を放つナイトハルト卿は、冷や汗を流し口元に血を滴らせながらも、フランツの両手首を掴む。血に塗れた声で彼が叫ぶ。
「フランツ――エルンスト・フランツ!」
「ッぐ……!」
焦りの色を浮かべつつも往生際の悪いフランツは、ナイトハルト卿が両手首を掴んでいるにも構わず、安全装置が外れたままの銃の引き金を引いた。
再び聞こえた乾いた爆発音。ナイトハルト卿は間違いなく銃弾を頭蓋に喰らった。彼が命中弾を喰らった瞬間、衝撃で一瞬頭ががくんと後ろへ倒れ、フランツの手首から手を離し、突き飛ばされたように吹っ飛んだ。背後の壁に背中を叩きつけ、壁にべったりと血糊を付けてへたり込む。土砂降りの雨を浴びた後のように頭から血を滴らせるナイトハルト卿に、意識はもう無いようだった。
だが、休む間も無く二回戦が始まる。デスクの島を挟んで向こう側で銃声がしたのだ。
僕の視点からはデスクの脚に遮られてボルデナウ卿の姿しか見えなかったが、彼が撃ったふうには見えない。今の銃撃はブリュールさんに違い無かった。どこかに仕舞ってあった僕の銃を使ったのだろう。
けれどブリュールさんの銃弾はフランツには当たらなかったらしい。デスクの向こうから小さく舌打ちが聞こえた。
「この……ッ」
フランツがブリュールさんへ再び銃口を向ける。その時、既にブリュールさんはデスクの影に隠れるようにしてこちらへ向かっていた。
フランツは並ぶデスクの島に構わず銃を乱射する。ここにあるデスクは全て金属製だが、銃弾を防げるような――例えばエンジンブロックとか――実戦的な硬度は備えていない。だから撃ちまくれば弾が貫通して当たるだろうと思ったのだろう。デスクの上に配置された書類の山や本が、音を立てて舞い上がり、崩れる。どこからか電気がいきなり途切れる嫌な音がしたが、この際気にしない。
でもそれらの銃弾はブリュールさんには当たらなかった。デスクを挟んでこちらに姿を現したブリュールさんは、低い姿勢のまま、反撃とばかりに引き金を引く。フランツは身構えるが、これもまた残念ながら当たることは無かった。けれどブリュールさんはそんなことは気にも留めず、意識を失ったナイトハルト卿の元に走る。彼はナイトハルト卿の首元を掴むと、部屋の奥へ引きずって行き出したのだ。
「重い」
淡々と吐き捨てるブリュールさん。一方のフランツは、相手の移動速度が遅くなったのを良いことに、落ち着きを取り戻し、悠然としてブリュールさんに標準を合わせている。
「手負いに構けてしまうことが、戦闘においての命取りだと記憶しませんでしたか?」
そんな捨て台詞を吐いて、フランツは引き金を引く。だがブリュールさんも、さすがに間抜けではなかった――いや、卑怯だった。
ブリュールさんは、ナイトハルト卿を盾にしたのだ。これにはフランツも目を疑い、声帯から絞るような音を出す。
「人の盾だと……?!」
フランツは吠える。
「人の盾など、あのクラウゼヴィッツならこんなことしないはずだ!」
ブリュールさんはナイトハルト卿の影からほくそ笑んで言う。
「そうだよ、あのクラウゼヴィッツならこんなことはしない。でも現状を他人のせいにしてここを出て行った人に言われたくないし――それにわたしはクラウゼヴィッツじゃないもの」
揚げ足取りのようなその一言に溜息を着いたのはボルデナウ卿だ。フランツは苛々している。
「馬鹿なことを!」
フランツはブリュールさんの卑怯な戦法にも構わず銃弾を放った。ブリュールさんはそれらをナイトハルト卿で受けてから、
「〝先生〟!」
の一言と共にボルデナウ卿へナイトハルト卿の身体を放る。けれど、その次に襲ってきた銃弾は、ブリュールさんが自分で受けるしかなかった。ブリュールさんの背中へ九×十九ミリ弾が突き刺さる。
「っぶ……!」
血を吐いてこちらを振り返る姿に、先程のような態度を取る余裕は残っていないようだった。ブリュールさんは即座に立ち上がり、銃を構えてフランツに突撃する。
「喰らえ、エルンスト・フランツ!」
そう叫んで、フランツに向かって銃弾を発射する――かと思いきや、ブリュールさんは銃身を掴んでそれをぶん投げた。放り投げられた拳銃は、先程のフランツによる乱射のせいで散らかったデスクの天板にバウンドし、勢いそのままにそこを滑走して行く。床に落下してかしゃん、という音を立てるのが聞こえた。
けれどそれで終わりではない。ブリュールさんが自分の投げた銃を追うように、一足飛びにフランツとの距離を詰める。ブリュールさんの目が自動車のヘッドライトのように輝き、右手がフランツの頭目掛けて伸びていく。
その時、ブリュールさんの手がフランツのこめかみの手前で止まった。フランツもブリュールさんも、眉間に皺を寄せ、冷や汗をかいていたのは一緒だった。けれど、フランツの持つ拳銃は煙を吐いており、その先にあったブリュールさんの腹には赤い染みが広がっている。
最後にブリュールさんはその伸ばした手で虚空を引っ掻いた。フランツには手が届いていない。もう少しだったのに。
ただ、彼は敵のほうを向いて倒れた。背を向けて、ではなく。きっと、今深呼吸を繰り返しているフランツはそれに恐れを覚えただろう。
「さて――」
と、エルンスト・フランツは言った。深呼吸の後に手に持った拳銃で指したのは、銃撃戦を冷めた目で見ていたボルデナウ卿だ。彼は先程ブリュールさんに投げられたナイトハルト卿の身体を壁際に寝かせて、それに立ちはだかるように堂々と立っている。
「残りは貴方ですよ、ボルデナウ卿」
「そうだね」
僕が頭をぶち抜いたその時のように、あっさりとした冗談みたいな口調で、ボルデナウ卿は答えた。
「こう言う時はどう言えば良いのかな――とりあえず、挨拶でもしてみようか。改めまして、久しぶり。エルンスト・フランツ」
この言葉はフランツの興奮と苛々をさらに助長させただろう。声を荒らげるのを抑えながら、猫を被った口調でフランツは答える。
「お久しぶりでございます、ボルデナウ卿――いえ、ゲルハルト・フォン・シャルンホルスト参謀総長」
ボルデナウ卿も、自分を自分の〝本物〟であるゲルハルト・フォン・シャルンホルストの名前で呼ばれたことに違和感を覚えたのだろう、一瞬、鼻の表情筋がぴくりと震えるのが見えた。けれど、さすがにボルデナウ卿は仮面を被るのが上手い。冷静な表情のまま、ボルデナウ卿は会話を続ける。
「君とは、君が私達三人の頭を撃ち抜いてここを辞めて行った時以来かな? ということは約一年ぶりか」
――ああ、やっぱり頭を撃たれた経験があったんだな。
非常事態にも関わらず、やっぱり僕の頭は呑気なことしか考えない。
ボルデナウ卿は言う。
「どうだった? ここ最近、上手くいっていた?」
親しみさえ感じさせるボルデナウ卿の問いに、フランツは怒りを溜め込んでいるようだ。
「『上手くいっていた』、だと?」
フランツは溜め込んだ怒りを爆発させるようにボルデナウ卿に言い放つ。
「馬鹿なことを! 俺はこの約一年、連邦軍に戻って戦場を見てきた! 貴様らも知っているだろう、今連邦議会でも話題になっている、連邦軍の海外派遣のことを?! 俺の行ったアフガニスタンでは、もう二十人以上は死んでいる。『戦争をしない』と決めた我がドイツ連邦軍が! 二十人以上だぞ! それを止めるための貴様らだろうに。さらに身に染みて貴様らの不必要さを痛感した」
(あの夜と一緒だ)
僕は思った。
(あの、僕がボルデナウ卿の頭を撃ち抜いた夜と一緒だ)
フランツと僕は、驚くべきことに、考えていることが一緒だったのだ。
ボルデナウ卿はフランツの言葉に、もう聞き飽きたとでも言わんばかりの表情で、
「そう」
とだけ返す。
「で? それで代わりにシュミットを使ったとか? クラウゼヴィッツは『戦争は賭博行為である』って言ったみたいだけど、それにしては大胆でお粗末だね、エルンスト・フランツ」
呆れ返るボルデナウ卿にフランツは言う。
「でもこのくらいのほうが、〝地下室〟相手には安全だ」
フランツが銃を構え直す。
「俺は引き金を引くだけで良いんだからな。狙撃されたほうは鉄砲弾がどこから飛んで来たかは気にしても、狙撃手の詳細なんてどうでも良いだろう?」
「私はそうだけどね――」
微笑む余裕さえあるボルデナウ卿とは逆に、フリッツさんの下敷きになって成り行きを仰ぎ見るだけの僕は、今の会話に少し腹が立った。怒るところは決まっている。僕がただの鉄砲弾扱いだったことだ! こうしてテーザーガンを撃たれ、床に転がされたうえに、職場を滅茶苦茶に荒らされたことももちろんムカついたが、今の鉄砲弾扱いが一番頭にきた。
僕は先程ブリュールさんが投げたH&K USP P8を目で探す。すぐに手の届くところにあれば良いんだけど。
そんな僕を置いて、二人は会話を続行する。
「それで――そんな鉄砲弾を撃ちっ放したくせに自分が出張ってきたのは、やっぱり鉄砲弾が失速したのを確信したからかな?」
「そうだ。もう待ってはいられない。俺には何も残っていないからな、どうなったって後悔はしない」
「うわあ。どこぞのカミカゼみたいなことはよしてよ」
僕に負けず劣らず呑気なことを言ってから、ボルデナウ卿は口角を上げた。
「でも、ということは。やっぱり大人しく法の裁きを受けてくれない、ということかな? エルンスト・フランツ」
エルンスト・フランツはきっぱりと答える。
「ここまでやって、大人しく捕まると考えるのもおかしいだろう」
「そう」
ボルデナウ卿が身構える。それを見て、フランツが言う。
「貴方も大人しく殺されてはくれないだろう、ゲルハルト・フォン・シャルンホルスト参謀総長」
「そうだね?」
言い終わらないうちに、ボルデナウ卿は床を蹴っていた。対するフランツは、狙いを定め、彼に確実に当てられる距離になるまで、ボルデナウ卿を待ち構えている様子だ。
一秒も経たないうちに、ボルデナウ卿がデスクの影から飛び出した。その瞬間、ボルデナウ卿の視線が僕を捉える。確実に僕と目が合ったのだ。僕の身体に電撃が走り、目の前の光景がスローモーションに見える。あの、ボルデナウ卿の頭を撃ち抜いたその時のように。
ボルデナウ卿は左足を踏み締めると、レイピアを刺突するような鋭さで、フランツの頭蓋目掛けてハイキックを放った。普段からデスクに座りっぱなしで、そこから一歩も動かないその人物からは想像もつかない技だ。螺旋状のバネが伸び切るように、その長い脚が空を切って伸びる。フランツも予想しきれていなかったのか、それを避けようとして仰け反り、一歩後ろへ下がった。
フランツはさっきまで、ボルデナウ卿も他の二人と同じように自分を取り押さえに来るだろうと思ったのだろう。銃口は腕を狙っていたようだった。けれど、今のでその構えは崩れた。おまけに一歩退かせられたのだ。僕はそれだけで「やった!」と思った。
でも、フランツは逆にそれを利用した。フランツが銃弾をボルデナウ卿の体重を支えている左足へ撃ち込んだのだ。
「――ィッぐ……?!」
声に成り切れない苦悶の声がボルデナウ卿の喉から漏れると同時に、銃弾の貫通した彼の左足の脛が、一瞬のうちに破裂する。まるで神経や骨はもちろん、皮膚や肉の筋の一本一本が断裂する不気味な音が聞こえるようだった。
ボルデナウ卿は身体のバランスを崩してぐらりと倒れる前に右足を床に着く。さすがのボルデナウ卿もこれで終わりかと僕は思った。けれど、敵を見据える彼の目に、今一度、射抜くような眼光が宿り、ぎりりと痛みを食いしばったのが見える。
そしてボルデナウ卿は驚くべきことに、右足の蹴りの勢いをそのままに、破裂し、皮一枚で繋がった断裂寸前の左足を、フランツの横面目掛けて振り上げたのだ。回転するように繰り出される蹴り。ボルデナウ卿のその左足からは薔薇が散る時のように血がばっと舞う。
もし僕がこれを映画館のスクリーンを隔てて見ていられるなら、それはきっとボルデナウ卿の身のこなしの鮮やかさも相まって可憐に感じられただろう。でも残念ながら僕が居るのは現場だ。攻撃を受けるほうのフランツも脚と血とを避けるのに必死だが、僕のほうにも血液が飛沫する。
さすがのフランツもそれらを同時には避けきれず、仰け反りすぎて尻餅を着いた。でも憎きフランツは手に持った銃だけは落とさない。ボルデナウ卿もこのまま蹴りの動作を終えてしまうだろう。
勝負は決してしまった。ボルデナウ卿は左足を着地させようとするも、あのまま脛から下がぶつりと断たれていた。断面の激痛と、右足との高低差もあってバランスを崩し、デスクに身体を叩きつける。フランツが陽炎のように彼の側に立つ。銃を構成する部品同士が軽くかちゃり、と音を立てた。
「終わりだ、シャルンホルスト」
最終宣告のように、フランツはボルデナウ卿を見下ろして銃口を向ける。でもこの状況にも関わらず、ボルデナウ卿は苦痛の中に低く笑いを浮べた。
「本当に、そう思う? エルンスト・フランツ」
フランツは怪訝そうな顔をする。
「少なくとも貴様らは終わりだ。あとは残りの〝地下室の偉人〟達を始末すれば――」
「ふふふ……」
ボルデナウ卿が小さく言う。
「甘いなあ――甘いよ、シュミットよりも……」
これはフランツには聞こえなかっただろう。最後のボルデナウ卿の口の動きを見て、わけが分からないとでも言いたそうな顔をしていた。そしてフランツは、それを永遠の謎にすることにして、ボルデナウ卿に引導を渡した。
フランツは肩で息をしている。ここまで予想外に時間を取ってしまったのだろう。疲れが溜まっているようだった。
「手間を取らせやがって……非国民め」
――非国民、というのは皆さんのことだろうか。
とても心外だ。フランツなんかにそう言われるなんて、ボルデナウ卿達も運が無いとでも言おうか。
フランツは息を落ち着けると、懐からシガレットの煙草の箱を取り出す。この人が喫煙者だったとは僕も初めて知った。彼は箱から煙草を一本抜き取ると口に咥える。そしてライターを探しているのか、懐を再び荒らしだす。そんなフランツが今までで最も予想していなかった異常事態が起きているのを見たのは、廊下へでも出ようとして、部屋の入り口を向いた時だった。
フランツが驚愕に満ちた、魔法使いが出そうな夜の満月みたいに丸い目でこちらを見ている。その目に全身が血塗れになったアイルランド系ドイツ人が映っているのを確認して、僕は思わず吹き出しそうになった。だってそうだろう? 僕の上に転がっていたフリッツさんは胸から血を流していたし、他にも血を流している死体――かどうかはあやふやだけど――は他に三体居るし、さっきのボルデナウ卿の蹴りで僕の顔には血がべったりと着いている。生温い血で生命の体温を延々と感じさせられたせいで吐き気を抑えるのが大変だった。
フランツががくがくと震えながら言う。
「貴様――何故銃を持っている?」
「ああ――」
僕はブリュールさんみたいに冷たい口調で答える。自分でもこんな声が出るのが驚きだった。
「嫌だなあ。忘れたんですか、フランツ大尉。さっきブリュールさんが僕に渡してくれたのを拾ったんですよ」
――こんなに冷静なのは、きっとブリュールさんの性格が銃と一緒に渡ってきたせいだろう。
フランツは怒りで震えている。
「そこを退け、アルベルト・シュミット」
僕は答える。
「嫌です」
フランツは再度言う。
「退けと言っているんだ、退け」
僕はきっぱりと答える。
「退きません」
「退け」
「嫌ですよ」
「退け!」
「お断りします」
「退け! アルベルト・シュミット!」
「あああ、もう! 五月蝿いなあ!」
僕は叫んだ。
「そんなに退かせたかったら、力ずくでやれば良いでしょう?! そんなことも分からないんですか、クズの元上官が……!」
なんとなく、今のはナイトハルト卿みたいだと自分で思った。
僕はエルンスト・フランツに向かって言い放つ。
「けど、僕は退きません。全力でお相手しますよ、掛かってきなさいゴミクズ」
ボルデナウ卿みたいな自信の入りように、僕は自分で引いた。正直、こんな自信に根拠は無い。つまりはハッタリだ。けれど、もう既に遅い。これはフランツを怒らせるのに十二分に効果があった。
「黙っていれば、貴様――よくも! よくもこの俺に向かってそんな口を聞いたな?!」
フランツが銃――僕らの使っているのと同じ、H&K USP P8だった――を構える。
「良いだろう、そこまで言うのなら付き合おう。地獄に落ちろ、鉄砲弾」
僕もフランツの姿勢に倣う。そして次の瞬間、会戦の火蓋が切って落とされた。

エルンスト・フランツが先手を取った。
フランツは一足飛びに僕へ突進すると、僕の頭目掛けて銃を構える。確実に僕に当てるため、近接格闘でも行うかのような射程で、フランツは引き金に指を掛けたのだ。その指に力が入ったのが僕の目に入った。
「死ね、捨て駒!」
もう少しで皮膚を抉られるような近さで、フランツはぐ、と引き金を引く。だがその銃口から銃弾が出ることは無かった。
「え――?」
理解出来ないとでも言いたげな表情で、フランツは自分の得物を見つめる。
興奮して自分の武器の状態が見えていなかったのだろうか。フランツの使っていたその銃――H&K USP P8は既に弾切れのホールド・オープン状態だったのだ。
今度こそ僕は「やった!」と思った。呆然とするフランツが我に返って僕のほうを見る前に、僕は彼の胸倉を鷲掴みにし、回転するようにぐるんとフランツを〝オフィス〟の外の通路へぶん投げる。
「がッ」
フランツは背中を強かに打ち付けて苦痛に声を漏らす。湿気を含んだ砂がフランツの背中を擦るじゃりじゃりした音が聞こえる。投げてやったほうの僕もそんなに普段から体力を付けていなかったせいで、この動作だけで息切れを感じた。けれどそんな疲労は感じていられない。僕は彼に馬乗りになって、まだ確かに弾倉に弾丸の残っている拳銃を、フランツの顎に押し付ける。
フランツが焦りに肩で息をしながら叫んだ。
「っは――や、止めろアルベルト・シュミット!」
フランツの喉仏が上下するのが見えた。
「お、俺達が争ってなんになる? 奴らとじゃない、俺達が争って一体なんになると言うんだ?!」
――今更何を言っているんだ、このクソ大尉は?
僕は眉を顰める。
「命乞いなら受け付けませんが」
「良いから聞け、アルベルト・シュミット!」
フランツが吠える。ぶっちゃけ、通路に反響して五月蝿い。けれどこのクソ大尉は勝手に喋り続けた。
「なあ、何故俺達が争わなくてはならない?! 貴様だって思っていたはずだ、『〝地下室〟なんて必要無い、〝地下室の偉人〟なんて居るだけ無駄だ』と。この前電話でそう言っていただろう?!」
「ええ、言いました」
喋らせるのは五月蝿いが、止めたらもっと五月蝿い気がしたので、僕は取り敢えずそれに答える。答えてやったのが余程嬉しかったのか、フランツはさっきよりかは落ち着いた様子で続けた。
「俺だって同じだ、こんなところは必要無いと思ってる。良いか。俺の考えなら、奴らを残らず殺せば自ずと〝地下室〟は消滅する――せざるを得ない! だからシュミット、俺に手を貸せ。貴様の考えは変わってないはずだ、俺達の考えは同じはずだ!」
フランツはそう訴えるが、僕は逆に呆れてしまった。この人は何も分かってない。
僕はフランツが喋っている間に緩めていた力を、銃を持つ手に再び込めた。スライド部分にフランツの下顎骨ががりがりと当たり、息が詰まる声を漏らす。僕は言い放つ。
「何も分かっていませんね――あなたは」
ぎりぎりとフランツの喉に銃身を捩じ込む。満足に声を出せないのか、フランツはその口を「なんだと」と動かすことしか出来ていない。僕はそれに答えるように言った。
「そう、あなたは何も分かっていない! あの人達もあの人達ですけど、あなたもあなただ! あの人達を『殺す』ですって? 殺せないのに? 殺せないと分かっているのに?!」
フランツの目が見開かれる。きっとフランツ自身も分かっていたのだろう、彼の口がぱくぱくと動いた。僕は続ける。
「分かっていたんでしょう? あの人達を殺せないと! だって、一回殺した経験があるんですから。けれどまた殺しに掛かったということは、その後にどこかであの人達が生きているということを確認したということだ。知っていたんでしょう? ねえ――」
フランツは息をするのに精一杯らしく、絞まった喉を空気が通る音を出している。
「それに、あの人達の苦難を知った今では、僕はもうあなたに協力する気にはなれない」
そう言う僕を、フランツがぎろりと睨んだ。手足が動いていたなら、きっと殴られていただろう。
「今だって、ここは必要無いと思っています。だからと言って、あなたに同調は出来ない」
僕はそう言うと、銃身を喉に押し付ける手を緩めた。立ち上がり、フランツの上から退く。
「お引き取りください。そうすれば僕は二度とあなたに手を出さない」
僕はフランツに出口を示す。フランツがまだ闘争心の消えていない目でこちらを見据える。
「俺が二度とここに危害を加えないと思うのか」
フランツがまた余計なことを言い出した。良い加減にしないかな?
「次は今よりも比べ物にならないくらいの規模で反撃に出るかも知れないぞ? 俺をどうにかしなくても良――」
「黙れ」
その声と同時に、僕は手に持った銃を天井に向かって発砲した。拳銃の発する爆発音が、全面コンクリート打ちっ放しの通路に戦慄を以って反響する。フランツが驚愕にぎょっと目を見開いて押し黙った。その目には自分でもゾッとする表情のアイルランド系ドイツ人の顔が映っている。
「とっとと出て行け、ノロマ。もう二度と来んなカス」
「っく……!」
フランツはもう何も言わず、ただ一瞬、こっちを向いて「覚えてろ」とでも言いたげな視線を投げて部屋の入り口の向こう側へと早足で去って行った。僕にそれを追う気力は無い。今まで我慢してきた疲労感が押し寄せて来て、それどころじゃ無かったのだ。僕は湿気を含んだコンクリートの壁に肩を擦り付けながら、一先ずボルデナウ卿達の倒れているだろう〝オフィス〟へ戻ろうと決めた。
その時、この通路の出口のほう、階段の手前辺りからフランツの悲鳴が聞こえた。その悲痛な叫びに、僕はホラー映画を見る時のような嫌な好奇心を掻き立てられる。僕は思わず、ドアの開きっぱなしになっている〝オフィス〟の入り口を素通りして、出口へ向かっていた。

そこでは思わぬ事態が起きていた。
フランツが腰を抜かして、階段のすぐ下で尻餅を着いている。その階段の上では、テオドール・イェーガーがフランツの持ち物だったはずのテーザーガンを構えていた。――イェーガーがフランツにテーザーガンを撃ったのだろうか。フランツが左腕を押さえて悶えている。
「良かったね、エルンスト・フランツ。テーザーガンが単発で」
――なら、余計におかしいだろう。
僕は彼らからギリギリ見えない位置でその様子を見ていた。
――フランツのテーザーガンは僕に向かって撃たれたもので終わりなはずだ。
フランツの目もそんなことを訴えていたのだろう、イェーガーがそれに答えるようなことを言った。
「ああ、この電極は私の私物。偶然にも同じ型だったから、拝借してた」
はい、とイェーガーが手に持ったテーザーガンをフランツに投げて寄越す。悶えているフランツにそれが拾えるわけも無く、テーザーガンは床を転がって砂まみれになる。
「テオドール・イェーガー!」
やっとまともに声が出せるようになったのか、フランツが涙声気味に叫ぶ。
「何故貴様がここに居る、誰にも外部に連絡する暇など無かっただろう?!」
「あ? ああ――確かに彼らに電話に向かって喋る暇など無かった。けど、受話器を外す暇ならあったでしょ」
イェーガーが面倒臭そうに説明する。僕はそれを聞いて、ブリュールさんが壁に掛かった内線電話の受話器を叩き落としたのを思い出した。自分の致命的なミスに茫然とするフランツに、同情するような視線をイェーガーが投げる。けれど、演技が臭すぎて、それが上っ面だけのものだということがバレバレだ。
「それで」
と、イェーガーが切り出す。
「その内線電話の音声と、ここの入り口近くの状態からして、一人を刺して、一人にテーザーガンを喰らわせて、〝オフィス〟に残っていた三人に最低一人二発くらい銃弾当てたと考えて間違い無いと思うんだけど、合ってる?」
イェーガーの質問にフランツは答えない。けれど現場に居た僕の認識ではそれで正解だ――ただ、ブリュールさんが卑怯な戦法を取ったせいで、ナイトハルト卿は大変なことになっているかもしれないけれど。イェーガーは煙草の紫煙でも吐き出すかのように息を吐くが、今回は懐に手を突っ込んだりはしなかった。代わりにズボンのポケットに手を入れ、
「最近は黙秘権を行使するのが流行ってるの? この前もシュミットに黙られてさあ――嫌になる、とっても」
本当にそう思っているのだろうか。微かに口端が不気味に釣り上がっているように見える。
けれどフランツはそのまま黙っているような人ではなかった。だいぶ余裕が出てきたのか、腕を擦りながらも姿勢を正し出す。
「五月蝿いぞ、イェーガー」
今更、沈んだ闘志を燃やしだし雄弁になるフランツに、僕は何故だか「あなたが言うな」と言いたくなった。自身に見下す視線を向けるイェーガーにフランツは続ける。
「貴様があそこに居たら、真っ先に殺していたというのに。この――〝狩人〟が」
フランツが口にしたのは名字ではなく、『狩人』という名詞だった。フランツの考えた駄洒落だろうか。それにしては笑えない。その瞬間、イェーガーの表情はおろか、視線までもが氷柱のように鋭利に凍りつく。
「――そう」
フランツはその表情が、視線が、今までのイェーガーの中で最も恐ろしいものだと気付いていない。イェーガーが自分の腰の辺りから二丁の拳銃を取り出した時にはもう遅かった。
「じゃあ完璧にモルトだ。ここで死ね」
フランツがやっとイェーガーの発する殺気に気付くが、その前にイェーガーは階段から飛び降りている。イェーガーは逃げ出そうと起き上がるフランツの身体に、空き缶を踏み潰すような軽快さで着地した。
「がああああああああああああ――ッ?!」
イェーガーの身のこなしとは裏腹に、フランツの発する叫びは悲痛極まりないものだった。肋骨を踏み砕き、肺まで踏みにじるイェーガーの目は、腐敗臭を発する生ゴミを見るようだ。
「汚い――汚いよ、エルンスト・フランツ。何が汚いって、貴方の絶叫が」
これが妥当だと思ったのは僕だけだろうか。でもイェーガーの理不尽な物言いに、僕は声が出せない。フランツの腹を踏みしめながら胸部に左足の踵をぐりぐりと捩じ込みながらイェーガーは続ける。
「本当に汚い――汚くて無様だ。貴方だってここに入った時は、期待に胸を膨らませた志ある人だったのに、いつからその志は醜く萎んでしまったんだか」
言って、鳩尾を蹴り込むイェーガー。余りの痛々しさに、再び僕の胸の奥から嫌悪感が湧き出そうになる。けれど僕はその様子から目を離すことが出来ない。
「まあ、良い。取り敢えず今のことを処理しようか」
イェーガーがフランツに両手に持った銃を向ける。フランツが涙目で自分を見たのを確認すると、彼はこんなことを言った。
「『ハンムラビ法典』って知っている? 『目には目を、歯には歯を』っていう、アレ」
それは僕も知っている。確か、倍返しのような過剰な報復行為を禁止して、同じくらいの懲罰を与えろ、というような内容だった気がする。
イェーガーが次に言ったのは、それに則っているかのような、はたまた理不尽とも取れる言葉だった。
「つまりアレって、『銃弾六発を以って人を殺した者には銃弾六発を撃ち込んで良い』ってことだろ?」
今にも泣き出しそうなフランツの前に立つイェーガーに容赦は無かった。その時、僕は宣言通りに六発の銃弾が撃ち込まれる音を聞いた。

フランツはしっかり六発分の銃弾を喰らって、上半身を踊らせた後、ボロ雑巾のような惨めな死体と化した。イェーガーはそれが脈打つのを止め、朱色の水溜りを作ったのを確認すると、それの腹からやっと降りる。溜息を吐く。
「面倒臭い」
本当に面倒臭そうにイェーガーはそう言ったが、それは人間の死体を前にした言葉というよりも、邪魔な廃棄物を目の当たりにした時のそれだった。
「シュミットにも『〝地下室〟内外で、〝地下室〟に害をもたらす者が居たら問答無用でぶち殺せ』って言ったのに。優し過ぎるだろ」
急に僕の名前が出て、尚更胸の奥がミキサーをかけた時のようにぐじゃぐじゃになっていくのを感じる。
「全く、ここの人達は良く分からない。あれのどこが面白いんだか――」
言いながら、イェーガーは廃棄物を引きずって階段を登って行く。
僕は出来るだけ音を立てないように、そっと〝オフィス〟へ戻ることにした。

けれど、イェーガーの言うことも分からなくも無い。相変わらず僕はここの――〝地下室〟のことを良く分からないし、一歩間違えればエルンスト・フランツみたいな輩に遭遇する確率だって高い。今回みたいに血みどろの戦いになることだってあるだろう。
(でも、言っちゃったしな――)

――あなた達が自らの手で引っ掻いても皮膚に傷も付けられず、大量虐殺に使用されていたガスでも死ねず、おまけに拳銃で脳髄をぶち抜いてもびくともしない身体を持っていようと、僕は必ず、あなた達を殺してやります――

僕は自分で宣言したそれを思い出す。その言葉を吐いたは良いが、咀嚼して飲み込むには時間がかかるだろう。でも僕はそのことには後悔は微塵も感じていない。幸いにも、時間だけは沢山ある。
でも今日はここまでだ。今日だけで今までの一週間分の疲労が一気に来たみたいだった。僕は身体を引きずって〝オフィス〟に入る。ソファーのスペースを拝借すれば、なんとか動くのにマシなレベルには回復するだろう――と。
「あ――」
思わずそこの空気を、僕は肺一杯に吸ってしまった。そう、さっきまで流血戦が行われていたこの“オフィス”の、だ。鉄臭い、生暖かい空気を吸い込んだ僕は、無意識に体内の嫌悪感を助長してしまった。目をかっ開いて目線だけで必死にゴミ箱を探す。
(間に合え間に合え間に合え間に合え!)
必死に、ドアの死角にあったゴミ箱に突撃する。胃の奥で凝縮され、色んなものとミックスされた酸っぱい苦痛が食道を逆流するのと、僕の理性がゴミ箱に行き着くのと、どちらが早いか。
結局のところ……いつも通り…………

うええええ。

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