1
未だギムナジウムに上がる前、基礎学校生だった頃、美術館で迷子になったことがある。
いや、そこが美術館だったかは今でも疑問符が残る。博物館だったかもしれない。だとしたら、余程美術館じみた博物館だったのだろう。私の脳裏に残っているのは、ただただ果てまで続く回廊と、その壁に掛けられた無数の肖像画。そしてそこから覗く人の顔、顔、顔。
その顔の死んだ視線が、湿気のようにねっとりとこちらに絡みつくのが嫌で怖くて堪らなくて、幼い私は泣きながら回廊を走ったのだ。泣きながらも大きな悲鳴を上げなかったのは、きっとその時の私が幼いくせに意地っ張りで、しかも反抗期だったからだろう。
どれだけ走ったか分からない。息が切れるまで走っても、その回廊は終わりを知らなかった。大人には短い回廊も、子供の、しかも恐怖に駆られた少女には無限に感じられた。私が立ち止まったのは、泣き疲れ、走り疲れたのと、そこに変化があったからだ。
出口が見えたのではない。そこで一人の男性が、憂鬱な表情を浮かべて、自分に酷似した顔の描かれた肖像画を見つめて立っていたのだ。
その男性は、涙と鼻水とで顔をぐしゃぐしゃにした私に気付いてこう言った――
2
「ハ? プロイセン史? キミも物好きだねえ。つーか、バイエルンに来てまでプロイセンのことを学ぼうとするなんて、あれかね、キミはアホってやつかね?」
ルイーゼ・ハルトヴィヒこと私が大学三年目にして新しくやって来たルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘンの史学教授は、私が専攻していた分野を告げるなり、人を小馬鹿にしたような言葉を爆笑しながら口から発射した。その教授の態度に、私の喉から息が無様に漏れたような音が出、眉間が尺取虫みたいな形の皺を作る。それでも私は圧されまいと抵抗の言葉を口に出す。
「ええ、言われ慣れてます。悪魔にでも憑かれたか、とまで言われたこともあります」
「それは酷いね!」
けっけっけ、と年老いた史学教授は笑うが、笑いながら唾を飛ばすその様子に、私は不快な気持ちしか沸かなかった。
(さながら、舌を出したアインシュタインね)
心の中で呟くが、しかし流石にアインシュタインのほうが数十倍はマシだとすぐに思い直す。これではアインシュタインに失礼だ、とも。
「やー、ボクはそんなふうには思わないけどね? さすがにプロイセンに好意を持ってバイエルンの学府の門戸を叩くなんて、頭イカれちゃったかなーぐらいには思うけど」
「殆ど変わりません、教授」
「あっそーお?」
けっけっけ。笑いながら仰け反る教授。私は小さく溜息をつく。この人の相手はなかなか骨が折れる。
とは言え、この人の相手をするほうが、他のバイエルン人達の相手をするよりも格段にましなのだ。他の彼らと言えば、プロイセンの名を口に出したが最後、彼らを“豚野郎”扱いである。そんな私に至っては、バイエルン出身であることなど信じて貰えないばかりか、白眼視だ。そんなドイツ連邦共和国首相も頭を悩ますバイエルンのプロイセン嫌いは、我が家の親子仲にも影を落としていた。
3
自分で言うのもどうかと思うが、私は地元であるミュンヘンで才女として名を馳せた。そして、それと同じくらい、プロイセン狂いとして有名だった。いつからかは忘れたが、急に何かに取り憑かれたようにプロイセンについての知識を付け始めたのだ。
両親は苦虫を噛み潰したような顔で私を見た。教師は立場上それらしき文句は付けないが、明らかに私を白眼視していた。友達は親に何か吹き込まれたのか、それとなく理由を付けて遊ぶのを断るようになった。
必然的に私には独りで過ごす時間が増えた。だが、それは親達から見れば絶対に失敗だったに違い無い。その時間で私は更にプロイセンについての知識を学習した。まるで食べ物を咀嚼し嚥下するように。
最早、教師の矯正や両親の制止も私を縛れなくなっていた。私はミュンヘン、いやバイエルンを飛び出して、フンボルト大学ベルリンに入学した。――それが二年前。
それが何故戻って来てしまったのか――、理由は簡単だ。両親の説得に折れたのだ。
(結局、私はバイエルン人なんだ)
両親も嫌い切れず、バイエルンの地で育った私にはこうする他無かった。プロイセンの知識が食べ物ならば、バイエルンの風土は呼吸にも等しい。人間は水中では生きれない。抗えない事実だが、それは今となっては悔しいものだった。けれど、それでも、私は時々水中に潜っていたいと思うのだが。
4
私が課題の資料集めの為と言い分を付けてレジデンツ博物館を訪れたのは、八月の快晴の日だった。このドイツにしては珍しい炎天に、わざわざ博物館にまで日光を避けに来るのは私だけなのだろう、バイエルンの誇るヴィッテルスバッハ家の本宮殿だったこの博物館には、職員の他には私くらいしか見当たらなかい。けれど、偶には一人で自分の世界に浸っていたい私にはそれは好都合だ。
(懐かしいなあ……)
実は、ここには基礎学校生時代に来たことがある。生粋のバイエルン人であり、未だにバイエルンを『自由共和国バイエルン』と呼ぶ両親に連れられて来たこともあるが、学校の歴史授業の一環として教師をはじめ、クラスメート達と訪れたりもした。――未だ私が才女でも、ましてやプロイセン狂いでもなかった時分のことだ。
(そういえば――)
そういえば、私はいつからプロイセン狂いになったんだっけ――?
そんな事を考えているうち、空気が湿気のようにねっとりとこちらに絡みついてくるのに気づいた。
(おかしい)
博物館内は、建物こそ宮殿をそのまま利用してはいるが、空調は現代のものを導入している。ドイツでは湿気など余程のことがない限りは感じないし、ましてや博物館内で湿気を感じることがあったら大問題だ。そう思って、私は周りを見回し、――あることに気付く。
「あれ――」
迷った――?
レジデンツ博物館――元はバイエルン王家であるヴィッテルスバッハ家の本宮殿だ――は、十四世紀後半から建造が始まって以来、度々の拡張工事によって複雑さを増してきた。だから、音声ガイドを聴きながらじっくり回ればたっぷり一日はかかる広さを誇るし、地図や案内看板などが無ければ迷子は必至だが、まさか、何度も来ているこの私が、いい歳して迷子になるなんて!
(いやいやいやいや――)
良し、取り敢えず落ち着こう。恥やら湿気そのもののような空気感やら、嫌な考えを振り払い、周囲を改めて見回す。
――どうやらここは何処かの回廊らしかった。壁には所狭しと大量の老若男女の肖像画が掛けられている。
その肖像画の一つと目が合った瞬間、私は何とも言えない悪寒を感じた。ふと思う。私には、この回廊の全ての肖像画から視線を投げられているのだと。その時、私はこの湿気の正体に気が付いた。いや、そもそも、これは湿気ではない。
(これは、視線だ)
私はぞっとした。鳥肌が立つのが分かる。ここにある全ての肖像画の死んだ視線が私に突き刺さり、私は足が竦んで動けなくなってしまった。
その時だ。私しか居ない筈の回廊の奥から、硬い底の靴の足音が響いて来た。私はびっくりして飛び上がり、喉の奥から絞まるような変な声を出す。その足音は止まることなく私の居るほうへやって来る。私はそれをじっと見ていた。
足音の主は、空調が効いているにしても、この炎天下にそぐわない身頃の長い黒いスーツ上下に革靴という出で立ちの男性だった。それにも関わらず、ラテン系の入り混じったアポロみたいな造形の顔は澄ました表情をしている。
(この人、会ったことがある……?)
それにしては、この人は奇妙だった。この人の纏う空気感もそうだが、一番奇妙だと思ったのはその姿そのものだ。だが、そのことに関しては思い出す暇など無かった。奇妙な彼がこちらに近付いて来て、こんな言葉を投げて来たのだ。
「――また、迷った?」
5
私は頭を微かな疑問が過ぎったのを感じつつも、恥を飲み込んで、
「――そうみたいです」
と答えた。男性は口角を少し上げながらも、ふう、と息を一つ零して、これまた奇妙なことを言う。
「キミはいつでも迷ってばかりだね?」
私はそれには答えず、
「貴方は何者です?」
と訊いた。男性はにやりと笑って即答する。
「ルートヴィヒ二世」
「ふざけないで」
思わず暴言じみた反論をする私。当然だ、ルートヴィヒ二世と言えば、我が誇り高きバイエルンの“狂王”と謳われたその人の名前ではないか。王の名を騙った彼は苦笑して、「ホントなんだけれど」と顎のラインを摘まむようになぞり、
「ではハンス・ヨアヒム――」
「黙りなさい」
訳が分からない。名称詐称を繰り返す彼は、溜息を着きつつ、逆の手でまた顎のラインをなぞる。
「キミも理不尽だ、折角名前を訊かれて答えてあげているのに」
「誰も有名人の名を騙れとは言っていません」
「誰も嘘は言ってない……」
彼は本当に困っているようだった。さっきまで顎に触っていた手をだらんと下げて、彼は項垂れてしまった。私はその顔に頭を抱えつつ、大きく溜息を吐く。彼も暫く低く唸って、
「……では、ワタシのことはニンフェンブルク卿とでも呼んで」
と言った。
「はあ……?」
私は顔を顰める。ニンフェンブルクと言えば、ヴィッテルスバッハ家の夏の離宮の名前だ。確か、今でも城の一角にバイエルン公がお住まいのはずだが……
「細かいことは気にしないでくれ給え」
ニンフェンブルク卿と名乗る彼の言葉に、私の詮索は中断される。彼は苦笑を通り越して、途方に暮れた表情をしていた。
「名乗るような名前は他に無いよ。自分でも困ってるくらいさ」
私は何だか、申し訳無くなってしまった。
「――それで。今度は何で迷っているの、ルイーゼ・ハルトヴィヒ?」
ニンフェンブルク卿が訊ねてくる。私の名前を的確に口にする彼に目を丸くしつつ、
「出口が分からなくなってしまいました」
そう答えるが、彼は「それじゃなくて」と言う。
「それよりも、自分の身を振りあぐねているような感じだったから」
私は答えない代わりに俯いた。ニンフェンブルク卿が小さくふう、と言うのが聞こえ、彼が離れて行くのが分かった。と。
「こっちへお出で」
彼のほうを向くと、回廊の奥へ行くようだった。誘う仕草をしているのを見て、私は促されるがまま、彼に付いて行くことにした。
6
「――で、さっきの続きだけど」
と、肖像画でいっぱいの気持ち悪い回廊を渡る途中、ニンフェンブルク卿は唐突に話し始めた。私は横目でちらりと彼を見る。ニンフェンブルク卿はこちらには目もくれず、のしのし歩いている。
「さっきワタシはキミが『自分の身を振りあぐねているような感じ』だと言った」
「はあ」
私はさっきから話が飛躍に飛躍を重ねているせいで、目をぐるぐる泳がせながら曖昧に返事を返すことしか出来ていない。的確に私の様々な悩みや名前を言い当ててくるが、その実、彼の自分の世界の中でしか話が展開出来ていないのではないだろうか? そう私が勘ぐるのも気にせず、ニンフェンブルク卿は話し続ける。
「それはキミの様子が何となく彼に似ていたと思ったからなんだよね」
彼はそう言うと、出口へ向かう足を止めた。私も釣られて立ち止まる。
そこには、ニンフェンブルク卿に酷似した――本当は逆だ――顔の王の肖像画が掛かっていた。
(……前にもこんなことがあったなあ)
私は、『狂王に似ている』と言われた事実より、このデジャヴみたいな出来事に目を見張る。
「――ルートヴィヒ二世のことは知っている?」
自身の顔によく似た特徴の肖像画に描かれた王を指して彼は言う。
「はあ」
私は突然の問いに有耶無耶に返すことしか出来なかったが、彼は微笑んでいる。
「そう。ちゃんとベルリンの他にもバイエルンのことも知っててくれて、ワタシは嬉しいよ」
「それは、故郷のことですから、当然です」
「では彼はどんな人物かは知っている?」
ニンフェンブルク卿は期待に瞳をキラキラさせて答えを待っているようだった。私は深く息を吸う。
「ルートヴィヒ二世、全名はルートヴィヒ・オットー・フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・バイエルン、現代に於いては“狂王”と呼ぶ人も居ます。父はマクシミリアン二世、母はホーエンツォレルン=ブランデンブルク家――プロイセン王家出身のマリー・フォン・プロイセンで、弟にオットー一世が居らっしゃる。父に虐待同然の教育を受け、なのに母には興味を持って貰えず、けれど弟思いだった彼は、全ての日課が終わった深夜に、一人で想像の世界に篭るようになります。王になってからもその癖は抜けず、その上プロイセン主導の元で普墺・普仏両戦争が始まり、弟のオットー一世が発狂するとますます自分の世界から抜けられなくなり、昼夜逆転生活を送るようになったと言います。そんな中、叔父にあたるルイトポルト王子をはじめとする家臣団はそんな王に危機感を感じ、彼らによって王はベルク城に送られ、送られた翌日にシュタルンベルク湖で――」
「そう、シュタルンベルク湖でわたしは死んだ」
私の言葉を継ぐ形で発せられた彼の声は、凪いだ湖面のように落ち着いており、氷のように冷たかった。私は、自分の心臓が一瞬だけ爆ぜたのを感じ、息を荒くする。その時の彼の表情が見えなくて本当に良かったと思う。
「蘇生させようと心臓マッサージをしたところ、何度やっても吸い込んだ湖水が水死体から吐き出されたという。――うん。気に入らないところもあったけど、まあ、だいたい合ってるかな」
次に彼の口から出たのは、それとは違う、会ってから今までのような血の通った言葉ものだ。彼の顔色を伺うと、先程と同じようにニコニコと笑っていた。私は素直に胸を撫で下ろすことも出来ず、緊張して、自分の顔色を誤魔化すのに必死だった。
「それで、貴方は私と狂王のどこが似ていると思ったんですか?」
私は恐る恐るニンフェンブルク卿に訊ねる。彼は両手の指を合わせ、こちらを向くと、逆に問いかけてきた。
「ルートヴィヒの死の知らせを受けたオーストリア皇后のエリーザベト、彼女がその時述べた言葉は知っている?」
「ええと……」
私は記憶の引き出しを総動員して、その言葉を思い出す。
「確か……“彼は決して精神病ではありません。ただ夢を見ていただけでした”、だったと思います」
「あたり」
彼は満足そうだ。
「彼は夢を見ていただけだったんだ――アルプスの山の上を飛ぶ夢を見て、あともう少しというところで翼をもがれて、彼は墜死した」
なかなか詩的な表現だが、私には訳が分からない。私の意識がその話から逸れそうになったところで、彼は自分の世界から帰ってきた。
「キミも一緒だろう? 自分の夢を泳ぎたいけれど、呼吸が続かなくて窒息しそうなんだ」
私は再びどきりとしてニンフェンブルク卿を見た。ニンフェンブルク卿はしてやったりといった顔でこちらを見ている。
「ワタシの言った通りでしょう? ルイーゼ・ハルトヴィヒ」
私は何も答えられない。この人は一体何なのだろう?
(ピエロか何か……?)
いや、もっとえげつない何かかもしれない、と、ぞっとしつつ、私はごくりと唾を飲み込んで彼に問う。
「仮に貴方の言う通りだったとして――、その状況から私が脱するにはどうすれば良いのでしょうか?」
ニンフェンブルク卿はほくそ笑んで答える。
「それは至極簡単だ――狂ってしまえば良い」
「はあ?」
訳が分からない。語句が詩的で難解であるとか、そういうのを超越している。さすがにこれは彼に伝わったのか、ニンフェンブルク卿は苦笑して、
「そうじゃなくて」
と言う。
「ワタシが言っているのは、『自分がおかしいだなんて分からない世界にしてしまえ』ということだ。キミには多分、そのための勇気と反抗心は備わっているはずだ」
(……『自分に不利な現状を何としても打破しろ』、ということだろうか)
私はそう解釈したが、それでも首を傾ぐ他無い。本当にニンフェンブルク卿の言うところの“そのための勇気と好奇心”なんて、私は持っているのだろうか。彼は肖像画のほうに向き直って続ける。
「狂い給えよ。自分だけがおかしいなんて世界は無いんだから。生まれと運命は両立出来ないんだから。ここが現実だろうと、ここではないどこかには夢が確かに存在している。……ルートヴィヒには勇気と反抗心なんて無かった――狂い切れなかった。だからこそ、狂い給えよ」
私はニンフェンブルク卿について、ルートヴィヒ二世の肖像画を見上げた。
(本当にそうなんだろうか)
肖像画の中のルートヴィヒ二世は、私の見てきた彼の様々な写真や他の肖像画のように、私達ではなく私達の向こうを見ているようだった。私達の向こう側にしか、自分の居場所が見つけられないとでも言いたそうに。彼の夢は山の上にしか無かったように。
(私の夢は……)
その答えは一つだった。ただ――
けれど、ニンフェンブルク卿はその先の答えに手を伸ばす時間を与えてはくれなかった。私が彼の足音が遠のくのに気付いた時には、彼自身は既に回廊の出口に差し掛かっていたのだ。私は再びあの湿気のような恐怖に襲われないうちにと、ニンフェンブルク卿を必死に追いかけた。彼にはまだ問い質したいことがある。
7
ニンフェンブルク卿に追いつくなり、息も整えずに私は彼に質問を投げた。
「あの、さっきから気になっていたのですが――」
「何が?」
彼はさっきと打って変わって、全然関心なさげに答える。足を止めてさえもくれない。
「私、貴方に昔会ったことがありますか?」
「何を言っているの、ルイーゼ・ハルトヴィヒ」
急に立ち止まり、振り向いた彼は目を丸くしている。
「キミはここから始まったんじゃないか」
彼はにやりと笑う。訝しむ私に、彼はさっきまで私達が居た回廊のあの場所を指し示した。
8
その男性は、涙と鼻水とで顔をぐしゃぐしゃにした私に気付いてこう言った。
「――迷った?」
幼いくせに意地っ張りで、しかも反抗期だった私は、泣き腫らした顔でこう答えた。
「迷ってないもん」
男性は見透かしたように苦笑する。
「ああ、じゃあ迷ったのはワタシのほうなのかな?」
そう言うと、彼は自分に良く似た顔の描かれた肖像画のほうに向き直る。
私は、自分が無視されたみたいに感じたのと、会話が余りにも早く終わってしまったのが嫌で、頬を膨らませながら、彼に付いてその肖像画を見た。
(どこを見ているんだろう、この人)
それが、初めてその肖像画を見た率直な感想だ。とてもじゃないが、現在の私からは考えられない。
そうとも知らず、男性はじっと肖像画を見る私を見て、私が肖像画の人物に興味があると勘違いしたのか、こんなことを訊いてきたのだ。
「ルートヴィヒ二世を知っているの?」
彼は瞳を子供みたいに輝かせていたが、もちろん歴史に興味の無い私は首を横に振った。男性はがっかりした様子で、子供向けに取り繕ったような顔になる。それでも、男性は気が済まなかったようだ。
「ルートヴィヒ二世はね、ノイシュヴァインシュタイン城やリンダーホーフ城、あとヘーレンギムゼーを建てた王様だよ」
「へー」
それらが自分が両親に連れられて行ったことのあるところだったからか、私は彼の話に興味を持った。でも、彼の次の言葉は思い切りバイエルンっ子の夢をぶち壊すものだった。
「でも知っている? この中にはプロイセンが出資した資金で建てられたものもあるんだよ」
「えっ」
それは『えっ』というより、ほとんど悲鳴に近い『ひっ』という声だった。
当然だ、当時の私にとってのプロイセンと言えば、両親から聞いた野蛮で芸術の“げ”の字も分からない、聞くに堪えないドイツ語を話す“豚野郎”なのだ。そんな人々が出資した汚い金で建てたなど、考えられなかった。
さらに男性は、追い打ちをかけるように続けて言う。
「もっと言えば、彼の母はプロイセン人だった。つまり、彼にはプロイセンの血が半分流れていたことになるね」
これは面白半分に言っていたに違いない。ほとんど笑い声だったと記憶している。一方の私は、何に対してなのか、気味の悪さを感じていた。
「酷いわ」
話の内容が酷いのか、それとも彼の話し方が酷いのかは忘れてしまった。
「じゃあ、何でこの人は王様になれたの?」
そう言う私も大層酷く、理不尽なことを言っている。
「プロイセンが嫌いなバイエルンの人達が、半分プロイセン人の王様を王様にする訳無いじゃない」
「……キミ、かなり酷いことを言ってるよ?」
彼は子供の相手をしながら笑顔を作るのに、かなり苦労しているようだった。けれど、彼はかなり辛抱強く私の相手を続けてくれたと思う。
「何でプロイセン人だと駄目なの? キミ、プロイセン人に会ったことがあるの?」
この質問に、私は俯いた。何でプロイセン人は駄目なのか、そんなことは考えたことも無かったし、大体、プロイセン人には会ったことも無かったのだ。私は悔しくなり、涙腺が緩むのを感じた。唇を噛んで我慢するが、声は息や涙と共にぼろぼろとこぼれる。そんな私に向かって、彼は言う。
「そういうのはね。自分で調べて、納得してからにしないと。今みたいに悔しい思いをしてしまうよ」
私は首を縦にぶんぶん振りながら、袖で涙と垂れてくる鼻水を拭いた。男性が白いハンカチを貸してくれたが、直ぐに鼻水で汚してしまったので、男性は「うわあ……」とショックを受けていた気がする。
「お出で? きっと学校の友達が待ってるから」
私は涙を拭きつつ、彼に手を引かれて出口を目指した。
「ところでキミ。名前は何と言う?」
私は彼にそう訊ねられて、何かのミュージカルに出て来る騎士のように名乗った。いつか、先程問われた質問に答える時が来たら、成長を見せ付けてやるために。
「ルイーゼ・ハルトヴィヒ。わがほこりたかきバイエルンの“きょうおう”とうたわれたその人の名前を戴いたのよ!」
9
その少女は、回廊を抜けた向こうにクラスメート達を見つけると、繋いでいた手をさっさと離して彼らの元へ駆けて行った。少女と手を繋いでいた男性は納得のいかなさそうな顔をしつつも、少女が仲間達と合流し、笑顔で手を振るのを見届けると最後にくすりと微笑を浮かべて、片手に残った微かな温もりを感じながら回廊へ踵を返した。
それをぼうっと思い出した私は、あの日と何一つ変わらないニンフェンブルク卿に目を向ける。彼は最初の最初の時のような憂鬱な微笑を浮かべていた。私は頭の中のモヤモヤから、言うべきことを掬い上げる。
「ニンフェンブルク卿――」
「未だ迷っている?」
「いいえ」
ニンフェンブルク卿の表情は、夕日のせいか泣き顔のようにも見える。私は心を決める。
「私、ベルリンに戻ります」
「良いのではないか」
彼の答えは案外あっさりしたものだった。――いや、『案外』、でもないのかも知れないが。彼は続ける。
「それがキミの運命なのだろうから。――彼の目指せなかったところに行けると良いね」
彼は子供のように笑っていた。
ああ。今思えば、その時に私の人生の歯車は軋みを上げつつもがっちり嵌まって、まるで疾駆する機関車のように生き生きと走り出したのだった。