二〇〇七年、八月。今日もまた、珍しく気温三十度を超える暑い日で、私も上着を着るには少し暖かすぎると感じたので、肩に掛ける程度にしていた日だから、よく覚えている。
この日、永らく空席だったオフィスの事務員に、新しくアルベルト・シュミットが配属された。
大人しい、未だ大学を出たばかりの現代の若者。本人自身がそう語る通り、本の虫で、虫の一匹も殺せないのではないか、というのが、シュミットに対する私の第一印象だった。けれど彼は驚くべきことに、文官などではなく、徴兵されて軍に所属していたのだという。
なんでも彼は、国際治安支援部隊の一員として、中東の何処かの国に行っていたが、現地民との交流の時以外は役立たずで、その上ゲリラの攻撃に遭って重傷を負ったらしい。その時のことに関しては、本人も強烈なショックを受けているようで、あまり覚えていないのだとか。
とにかく、彼はそれ以来人間が怖くてたまらない、死にたいと主張している。
ここ国防省の地下をはじめとして、ベルリンの政府機関の地下施設には『旧体制によって蘇らせられた過去の偉人が棲んでいる』という都市伝説があるらしく、そのせいか自分から『地下室勤めをする』なんて物好きはいない。『地下室勤め』をしたところでどうなるとか、そういうオチは聞かないのだけど。そんな曰く付きの『地下室勤めをする』気にシュミットがなったのは、ひとえに彼の上司が、『ここは死にたがりばかりだ』と吹き込んだかららしい。
だから、私らが『旧体制によって蘇らせられた過去の偉人』だろうとなかろうと、どうでも良いことらしく、私らをせいぜい少し年上の上司くらいに扱ってくれた。そのへんは私らにとっては、それこそどうでも良いことだったが、けれども、私らは彼への扱いをそんなふうに扱う訳にはいかなかった。
何故ならば、シュミットはここに『死ぬために』来たからだ。
シュミットは勤務時間中によくパニックを起こした。そして、二言目には必ず、
「僕はいつ死ねるのですか?」
と訊いてくるのだ。私らはそういう、彼が病気だと主張するもの――心的外傷後ストレス障害と言うらしい――をずっと詐病だろうと言っていたのだが、ここまで酷いと放置しておくわけにはいかなくなってくる。
私はついに彼に、「何故そんなに死にたいのか?」と訊いた。そうしたら、彼は逆に私に訊いてきたのだ、
「あなた達こそ、何故死にたいのですか? 死ぬ気はあるのですか?」
と。
私はついに核心を突かれた気がした。それを訊いてくるオフィス職員はここ数年いなかったし、それを話したところで、大抵の職員は辞めていったのもあったのかも知れない。
けれど、私は話すことにした。これで彼はさらに追い込まれるのではないかと私は思ったが、その一方で彼なら分かってくれるのではないか、とも考えたのだ。
私は覚悟を決めることにした。
最初から違和感はあった。
ぼくが“蘇生”したのは、今で言う第二次世界大戦の末期、ドイツ軍が敗退を始めた頃、ベルリンの何処かの地下壕の中だ。既にハンブルクが全滅し、同盟国も次々と降伏を始めてしまっていた。ぼくが“蘇生”させられたのは、そういう背景があったようだ。
“生前”のぼくは、フリードリヒ大王のご威光のもと、ぬるま湯に浸かり、旧態依然となりつつあったプロイセン軍を改革し、ナポレオン軍を撃退した、その基礎を築いたとして有名だったようで、ぼくを“蘇生”したという責任者らしき男は、『優れた参謀であり、実戦指揮官であるあなたに、ぜひこの状況を打破するためにご意見を戴きたいのです』と言っていた。
同じような経緯があったのだろう、その後アウグストやフィーリプも、同じように“蘇生”した。
僕らは責任者らしき男の求めに応じ、祖国のために働くことに何の疑問も抱かなかった。僕ら参謀をはじめ、軍人は国家元首の――ひいては国家のために働くと誓っている。
「僕らはきっと、祖国の危機を救ってみせる」
“生前”のように、僕らはそう誓った。
けれど――
最初から違和感はあった。ただ、どこが違うのかは全く分からなかった。
アウグストは“生前”より気が短くなったようだった。
フィーリプも“生前”より子供っぽくなっていた。
かく言うぼくも、“生前”より寒さに敏感になったような気がした。
それらは気のせいで済めば良かったのだが、ぼくのそれはかなり異常だった。何しろ、皆が普通に半袖を着て生活していても、ぼくには冬のような気温にしか感じられないのだ。真夏でも長袖着用でないと体調を崩すこの有り様に、ぼくは地上よりは多少快適な地下壕から出られなくなってしまった。
だが、それはアウグストやフィーリプも同じだった。
「何故我らは地上へ出てはならないのか!」
短気なアウグストは度々担当者に抗議していた。
「現場の状況を把握するのが、作戦計画においては重要なのだ。情報もろくに回して来ないくせに、地上へも出さないのは何事か!」
訊くと、上の許可を得ていないから無理なのだという。呆れたぼくは、
「ならば、せめて出来るだけ戦況をもっと多く知らせてはくれないかな? ぼくらも祖国のために、出来るだけのことをしたいんだ。『この状況を打破するためにご意見を戴きたい』とだけ言われても、情報が回って来ないと適切な指示も出せない」
と担当者に言った。
その後、こちらに回って来る情報量は少しずつ増加した。しかし、伝わって来る情報は、どう鑑みても我が軍の圧倒的不利を告げていた。
「多方面作戦はドイツには無理ですよ!」
フィーリプは溜息交じりに地図を見てそう言った。ぼくも首肯する。
「ドイツには天然の要害があまりにも少なすぎる。統一したとはいえ、それを完全に克服したとは言い難い」
この状況を打開するための策はあまりにも少なく、あまりにも屈辱的なものだったか知れない。だがここから導き出される策はそれしか無かった。
ぼくはそれを担当者に提出した。そして案の定、それは黙殺された。
ベルリンが敵に焼け野原にされたのと、東部戦線が全面的に敗退に追い込まれたのは、その後間もなくだった。
フリードリヒ陛下とお会いした時のことだ。
「聞いたかね、ゲルハルト。父王と“余”の棺が軍の者達の手によって疎開させられているそうだ」
ぼくらは相変わらずベルリンの地下壕に棲んでいたのだが、仕事はほとんど回って来なかった。ぼくらとしても、情報は回さないわ献策は黙殺続きで、呆けている部分があったのだけれど。
「“陛下”の棺が? それは本当なのですか?」
ぼくは陛下に訊ねた。陛下は首を振って、
「分からぬ。余も兵達が話しているのを小耳に挟んだ程度なのだ。――きみ達のところには入って来てはいないのかね?」
「いえ、我らのところにも全く。祖国のために働けとはいえ、何の情報も来ないのです」
ぼくは無意識のうちに、体制への不満を、あろうことかフリードリヒ陛下の御前で漏らしていた。
後々考えると、良くないことだったのではと思うけど、陛下は気にしていない様子なのだった。
陛下は溜息を一つ着くと、とんでもないことを仰ったのだ。
「その情報をもたらした兵達は、“余”の棺は今、この地下壕にあると言っていた」
「えっ?!」
ぼくは驚いた。まさか、陛下はそんな兵達の根も葉もないうわさ話をお信じになるのかとぼくは思った。けれど、陛下はそのまさかで、ぼくの気持ちをお察しになったらしい陛下は、こう仰ったのだ。
「余もこんな馬鹿な話は信じたくはない。だが、聞いてしまった以上、確かめなくては気が済まないのだ。ゲルハルトよ、きみやきみの仲間達で、真偽を確かめてきてはくれないかね?」
フリードリヒ陛下は真剣だった。ぼくらとしても、それにお応えしない訳にはいかない。ちょうど暇を持て余していたところだったし、こんな独り善がりな体制には反感を覚えていた。アウグストやフィーリプもこれに反対はしなかった。この真実を知ったら戻れないのではないかという気はしたが、多分、“生前”に軍人として経験した危機的状況などに比べたら、こちらのほうがだいぶマシだろうという、楽観的な部分が勝っていたのだろう。
かくして、ぼくらは真実に至ってしまった。棺はフリードリヒ・ヴィルヘルム陛下のものと、フリードリヒ陛下のものとが丁寧に安置されていたのだ。ぼくらもそれを見て目を疑った。信じられない光景にぼくらは正気ではいられなかったのだろう、迷わずぼくらはフリードリヒ陛下の棺を暴き、中身もちゃんと入っているのを確認した! 信じたくなかった。なんせ、ぼくらは“生前”のままに“蘇生”させられたと聞かされていたのだから。
ぼくは躊躇いながらも、依頼された手前、それを陛下に報告せざるを得なかった。ぼく自身もいつもなら考えられないくらい顔色を失っていたに違いない。そして、それは陛下も同じだった。ぼくが報告すると、陛下はお顔をこちらに向けず、変に冷静な声色で退室をお命じになった。
最初から違和感はあった。ただ、どこが違うのかは全く分からなかった。だが、違うのは明らかだった。
それから半年後、アウグストが拘束された。
なんでも、地上で体制反対派が大規模なクーデターを起こしたらしい。悪化の一途をたどるこの状況では、クーデターの一つや二つは起きてもしょうがないとしか思えないが、何故アウグストまでもが拘束されたかは、担当者も当然説明してはくれなかった。
「聞くところによると、クーデターの主犯がアウグストの子孫筋にあたるようだ。主犯は既に銃殺されたが、体制の指導者は、今回のクーデターには特に厳しく対処すると言っている」
そう仰ったのはフリードリヒ陛下だった。顔色は半年前よりもさらに物憂げに、そして厳しいものになっていた。そしてどういう訳か、半年前のあの事件の後、フリードリヒ陛下のお顔には掻きむしったような傷跡が出来ていた。
「『クーデターの主犯の一族は根絶やしにしなければならぬ』とも言っていたとも聞く。彼の一家は強制収容所へ連行されたり、ピアノ線による絞首刑に処せられた者もいるようだ」
しかし、アウグストがそんなことに与していないのは明らかだ。ずっとぼくらと共にこの地下壕にいたのだから。それでも体制側は安心できないと見える。
「あの、陛下。失礼ですが、そのような情報、何処から入ってくるのでしょうか?」
あまりに陛下が内部事情に詳しいためか、話を聞いていたフィーリプが陛下に訊ねた。陛下はフィーリプの無礼な質問にも、気にせずお答えくださった。
「その『体制の指導者』が、余の崇拝者らしい。自室に余の肖像画を飾り、この戦争が良い方向へ傾くように祈っているようだ。七年戦争の時分のようにね。多分それで余が“蘇生”させられたのだろう」
何とも馬鹿げた話だ、と陛下は付け加える。
しかし、これで一つ確かになったことがある。祖国を救うただ一つの策だ。
もう、ぼくらは自分達が、“生前”の自分達を真似て作られたものだと信じて疑わなかった。何せ、思えば“蘇生”後の記憶は映像とともに鮮明に思い出せるのに、“生前”の記憶といえば資料のような文字情報しか出て来ないのだから。
最初から違和感はあった。ただ、どこが違うのかは全く分からなかった。だが、違うのは明らかだった。違いは正さねばならない。
ぼくらは「アウグストはクーデターとは無関係である」と主張し続けたが、結局、アウグストは解放されなかった。
けれど、諦めた訳ではない。
「戦争は政治の手段であり、継続です」
フィーリプは言う。
「政治で取れないものは戦争で、相手を屈服させて取るしかない」
平たく言えば、これはクーデターだ。武器を入手するのは容易かったし、アウグストの居場所はフリードリヒ陛下が事前に兵に聞き出して、お教えくださった。
つまり、ぼくらはアウグストを力尽くで奪還するつもりだった。だが、陛下には別の目的があったようだ。
「すまないが、銃を貸してはくれないかね」
陛下が意を決した面持ちでそう仰った。ぼくはいつもとは少し様子の違うフリードリヒ陛下に訊ねた。
「銃をお貸しするのは構いませんが、何をなさるおつもりですか?」
「――きみ達に、以前、『『体制の指導者』が、余の崇拝者らしい』と言ったことがあったね?」
……確かに、地上でクーデターがあった時に、陛下がそんなことを仰っていたのをぼくは覚えている。しかし、それが何だと言うのだろうか。陛下はお続けになる。
「『崇拝』というのは『信仰』と同義だ。余を『信仰』するということは、つまり『余が目指したものを自分で実現させようとしている』ということだと思うのだ。だが、この結果はきみ達も知っての通り、余の求めた結果ではない。ならば、余が――フリードリヒたる余が、自らその『体制の指導者』に引導を渡してやっても良いと考えたのだ」
このお言葉に、フィーリプは興奮した様子で割って入った。
「ならば! ならばわたくしにも共をさせてくださいませ!」
「フィーリプ」
「陛下のお言葉通り、『体制の指導者』が陛下の『目指したものを自分で実現させようとしている』のならば、わたくしはその方法を与えてしまった張本人――言わば教祖です。責任はわたくしにもございます。ですから、わたくしにも――」
「フィーリプ」
陛下がフィーリプをお呼びになる。氷のように冷たいお声と眼差しに、フィーリプは我に返ったようになり、言葉を引っ込めた。フィーリプが落ち着いたのを見たフリードリヒ陛下はフィーリプの肩を叩いて、
「きみは、ゲルハルトと共にアウグストを助けに行くのだ」
と命じた。
ぼくはライフルと銃を一丁ずつ、陛下に手渡した。
「陛下――」
「心配は要らぬ。アウグストとフィーリプを頼むぞ」
「はい、陛下。――よろしくお願いします」
ぼくらのいる地下壕はベルリンの各政府機関の施設へ繋がっている。陛下は地下壕を官邸の方向へ歩いていった。だが、そこでグズグズしている暇は無かった。ぼくらはぼくらで、アウグストを助けに行かねばならないのだ。
アウグストが拘束されていたのは、強制収容所にあるようなガス室だった。見張りなどはいなかった。既にベルリンには敵軍が迫っており、兵達は弱り切った男一人に構っている程暇ではなかったのだろう。ぼくらは扉の鍵を無理矢理開けてそこに押し入った。そこにはぼくらの捜していたアウグストと、そして同じく地上でのクーデターの時に拘束されたというベルンハルトとがいた。
ぼくはアウグストに駆け寄った。
「アウグスト!」
「せん――せえ?」
そう呟くと彼は咳き込んだ。アウグストは衰弱した様子で手錠で繋がれていた。拘束されて以来、何も口にしていない様だった。フィーリプはベルンハルトの様子を見ていたが、彼も同様だった。
ぼくはそこで、初めて冷静に部屋を見回した。土と煤とで薄汚れた、どこにでもありそうなコンクリート打ち放しのガス室だが、ぼくらとベルンハルト以外には隅に恐らく戦場かどこかの収容所で使われないままになっている薬品類の缶の山があった。ぼくはあることに思い至った。ぼくを含め、正気である者はいなかった。否、あの時から正気であるはずがなかったのだ。そう、ここはガス室だ。衰弱したアウグストや僕の考えが分かっただろうフィーリプや、たった今血塗れでぼくらに合流したフリードリヒ陛下と、中身が満タンのまま乱雑に転がっている薬品類の山を見比べて、ぼくはあることを実行した。
「でも、君も知っての通り、それは失敗した。もう使う者もいないだろうからって、遠慮なく薬品の缶は全部空けたはずなんだけどね。気持ち悪くなって吐き気がするばかり、せいぜいが気絶するくらいだったよ」
目を丸くしつつも、ここまで黙って聞いていたシュミットに、私はわざと笑って言った。私は続けて、
「アメリカ軍がガスマスクを着けてそこに駆けつけたのは、全部の缶を空けて何週間か後だった。私達は、普通の人間がガスマスクを着けないと死んでしまう濃度のガスの中を、何週間も放置されても生きていた訳さ。それで彼らも、私達が普通じゃないということに気づいたのだろうね。彼らに地下室をより暮らしやすくし、自由に使用する権利を押し付けられた代わりに、 自分達の側に付くことを強要された。結局は何も変わらなかった訳だけど、私らはその地下壕――つまりここのことなんだけれど――で、『死に方探し』を始めたのだ。……成果はご覧の通りだけれどね。普通に寿命で死ぬかと思ったけど、そうもいかなかったし」
「じゃあ、『アウグスト』や『フィーリプ』というのは……?」
シュミットが恐る恐る訊いてくる。私は、後ろの机で書類作業をしているナイトハルトとブリュールを指し、
「彼らをそう呼んだのは久しぶりだよ。もうそれ以来、私らは自分自身を“生前”の名前で呼ぶことをやめてしまったからね」
シュミットは先程まで落ち着いていたものの、今の話でまたパニックを起こしかけているようだった。私はそれに気づかないふりをして続けた。
「そんな訳だから、私らが『死に方』を見つけるのはかなり先だ。もしかしたら、君のほうが先に寿命でくたばるか知れない。だから、私らを待つより先に自分で何とかしたほうが良いと思わないかい?」
それを言い終わるより先に、シュミットは部屋を飛び出して行ってしまった。
結局、僕はオフィスをやめなかった。
何故やめなかったのかは、自分でも分からないし、よく覚えていない。
けれど、時々こう思うのだ。今僕が置かれている状況は、ここの人々が置かれている状況より何倍もマシなのではないか。自宅の書斎で本を読みふけるより、軍に身を置くより何倍も刺激的な日々が送れるのではないか。
実際、その後酷い症状に襲われ、数ヶ月か自宅療養を余儀なくされたものの、オフィスに通ううちにそれも治ってしまった。それに、ここの人々と交流していたほうが、わざわざ休暇をとって家族と生活するより居心地が良いのだ。
そして一年。今日も気温三十度を超える真夏日である。
僕は焼けつくような炎天を呪いながら、またニセ者達の棲むオフィスのドアを叩く。
《地下室のニセ者達 了》