01
ベルリンの〝女教皇〟なる魔法使いは、ルド達のいるベルリン宮殿とは街の反対側に位置する、クアフュルステンダム――「クーダム」と言ったほうが通りが良いかもしれない――にある、カイザー・ヴィルヘルム記念教会を根城にしている。
クアフュルステンダムは東西分断時代には壁を隔てて西側に置かれ、「西側のショーウィンドウ」として栄えた街だ。とは言え、この地区は二十世紀初頭から投資ブームに押されて発展し、第一次大戦後は富裕層が好んで住んだ場所でもある。そういうこともあり、ドイツが再統一された現在においても、その賑わいぶりは変わらない。
ルドとフリードリヒに連れられてクーダムにやって来た少女は、街に入ってからずっと、驚いた顔のまま周囲をきょろきょろと見回していた。現代の街の風景に十七世紀から二十世紀までの様々な過去の風景が織り混ざり、上書きされた街を通う人々に、次々視線をやっていると、
「お嬢さん?」
すぐ斜め前を先導するフリードリヒが、彼女の様子に気付いて声を掛けてきた。
「そんなに街の様子が珍しいのか?」
フリードリヒの問いに、彼女は首肯する。
「いっぱい、人がいるし、こんなに高い建物も、初めて見た……」
「この塔も?」
フリードリヒは見えてきた目的地、カイザー・ヴィルヘルム記念教会の尖塔を指して訊ねた。しかしそれにも彼女は首を横に振る。
「初めて――すごい……」
「そうかね」
フリードリヒは平然と返事をするが、やはり彼の頭の片隅に居座り続ける違和感が表情を濁らせている。
フリードリヒはカイザー・ヴィルヘルム記念教会の尖塔を見上げた。
彼らの目の前に聳え立つのは、第二次大戦で爆撃され、破壊される前の姿の教会と、大戦後に市民によって建てられた、現代においてその役目を果たしているモダンなデザインの鐘楼だ。
大戦後に建てられたモダンな姿の鐘楼はさておき、本来のカイザー・ヴィルヘルム記念教会はネオ・ロマネスク様式建築で、高い塔を構築することが特徴の一つに挙げられる。そんなロマネスク様式が流行していたのは十世紀から十二世紀頃までのゴシック様式に移り変わるまでの間だ。プルーセンがまだしっかりと存在していた時期を鑑みても、彼女がこの尖塔を見て「初めて」と言うのは疑問符が残る。
そんな彼らを差し置いて、先頭をせっせと歩いていたルドは既に教会の門の前に立っていた。
「おい」
とルドが二人を呼ぶ。ルドは少し焦っている様子で、続けて言う。
「もう少し急いでもらって良いか? 特にお嬢さんには」
ルドが指す先、フリードリヒの後ろでは、少女が道の真ん中を占拠して――道行く現代人達は彼女を素知らぬ顔で避けて行った――教会の尖塔を見上げていた。まるで子供か観光客のように飽きずに塔を見上げている彼女を見て、足を早めかけたフリードリヒが引き返す。
「お嬢さん」
フリードリヒが声を掛ける。呼ばれた彼女は我に返ったようにはっ、とした顔で背の高いフリードリヒを見上げた。
「あ……」
少しびっくりした様子の彼女に、フリードリヒはまるで子供に笑いかけるように言う。
「お嬢さん、先にこちらの用事に付き合ってもらいたいんだが?」
「あ、えと」
少女はおずおずと返事をする。
「すみません……」
彼女のその様子に、ルドは溜息を着く。
フリードリヒが彼女を連れて来たのを見て、ルドが言った。
「すまないな、お嬢さん。俺も少し時間が迫ってきているから、急いで済ませたいんだ」
それを聞いて、やっと少女と共にルドに追いついたフリードリヒが、耳打ちするようにして彼に訊ねた。
「次の予定は何が入っているんだ?」
ルドもフリードリヒのほうを振り向き、小声で答える。
「政府の関係官僚と会談。こちら側の今後の動きやエリュシオンの管理方針を決める」
彼は扉をノックして続けた。
「時間が押してるから、話の途中で抜けるかもしれない」
「分かった。その時はお嬢さんの面倒を引き受けよう」
フリードリヒが了解の返事をしたのと同時に、扉の向こうから声が聞こえた。
「はい、何か?」
爽やかな風が流れるような、快活な声だ。ルドは少し大きめに声を発する。
「先程連絡を入れた、ベルリンの〝運命の輪〟が参上した。中に入れて戴きたい」
そう言うと、ルドは扉から少し離れた。錠前の開く古びた金属の重い音と、扉とその蝶番が軋むのが聞こえる。
立てる音の重厚さにも関わらず、扉はすぐに開けられた。
その扉の開けられた隙間から、普段街で見かけるようなネクタイではなく、ふんわりとしたクラヴァットを首に巻いた男性が、こちらを覗くようにして現れる。男性は裾丈の少し長めに見えるスーツを着込んでいた。美しい銀髪は後ろに撫で付けて、余りは細い飾り紐で丁寧に束ねられている。
「やあ」
と、男性が口を開いた。手を顔の横でひらひらさせて挨拶する男性は、まずルドを認めて、
「ようこそ、ルド」
そしてその横に立つフリードリヒを見上げ、
「そしてドイツ皇帝フリードリヒ三世陛下」
そう言う男性を見て、ルドは目を疑った。目を丸くしたまま、
「ヴィルヘルム・フォン・フンボルト――?」
と呟く。ベルリン大学の門に居座る設立者の名前を呼ばれ、男性はにやりと口を上弦の月のようにした。
「テーゲルの賢者様じゃないか。ずっと館に篭ってると思ってたのに」
フンボルトは、ルドの『テーゲルの賢者』という呼び名に満足そうに笑うと、彼の影に隠れるようにして控えている少女に目をやる。
「そこな彼女が、連絡にあった件のお嬢さんだな?」
「あ――ああ」
ルドが後ろにいた少女のほうを振り向きながら答える。
「お前達の〝女教皇〟に用事を頼みたい、例のお嬢さんだ」
少女はその大人びた見掛けによらず、まるで子供のようにルドに縋り付くようにして、フンボルトから隠れていた。それがまるで媚びを売っているように感じたのか、ルドは少し苛立った様子で背中にくっついている彼女を引き剥がして、フンボルトの前に出そうとする。しかし、フンボルトはそれより先に扉から外に出て、彼女の前に立った。
「お嬢さん」
フンボルトが呼ぶ。彼が呼んだ少女は、そっと顔の半分をルドの肩で隠すようにして彼を見た。まるで小動物が巣穴の周囲を警戒しているように見える。
そんな相手の状態にも関わらず、フンボルトは彼女の目線に合わせて跪き、微笑みを浮かべて自己紹介した。
「初めまして、お嬢さん。此方(こなた)はヴィルヘルム・フォン・フンボルト、彼方らからは先程のように『テーゲルの賢者』とも呼ばれている」
まるで舞踏会でお気に入りの相手を口説く時のような態度に、ルドとフリードリヒは呆れ顔でそっぽを向いている。しかしそれを聞く少女は至って穏やかで、しかも興味を持って相対しているようだった。フンボルトは続ける。
「今は名も無き野に咲く健気な花の如きお嬢さん。此方は其方を歓迎するよ。願わくば其方や彼方らの思うままに事が進まんことを――」
そう言い、フンボルトは少女の手を取って握る。
と、すぐ様、ケロッと先程のようなニヤニヤした顔に戻って立ち上がった。
「ま。人手不足だからあまり期待はしないほうが良いかも知れないけど」
その言葉に、さっきまで彼の言葉を無視していたルドも眉を顰めた。
「は?」
ルドはやっと自分から離れた少女を差し置いて、フンボルトに詰め寄る。
「人手不足って、誰か具合が悪いのか? エフェメラが悪性化したとか」
ルドの問いに、フンボルトは演技混じりに深刻そうな表情をした。
「それを言うならジギの精神状態が教会の面子の中では断トツで悪いけどな。狂気にますます磨きが掛かってて」
「それ絶対に本人に言うなよ」
「言えるか。――まあ、それはともかく」
自分のすぐ横でフリードリヒが不安そうな顔をするのを無視して、フンボルトが言う。
「オイレンブルクが前触れもなく突然失踪してな。今、捜索しにホルシュタインとヘルベルトが彼方の領地であるリーベンベルクまで出向いているところだ」
フンボルトの言葉に、ルドは突然頭が痛くなる思いがした。あまりにも奇遇過ぎる、と思ったのだ。フリードリヒがフンボルトに重ねて質問する。
「それはいつのことだ? オイレンブルクが失踪したというのは」
フンボルトがフリードリヒのほうを向いて答える。
「一週間前ではないでしょうか。その後、すぐに豹が現れたというのを聞いたので、よく覚えてますよ」
ルドの頭痛が更に増す思いがした。オイレンブルクの失踪や豹の出現も一週間前のことなら、ゲルラッハの失踪も一週間前だったからだ。
ルドは背後に立つ少女を見る。少女は何の話が展開されているのか分からない、というような、無知な子供のような表情をしていた。
*
「一週間前、何か変わったことはなかったか?」
フリードリヒは、フンボルトにルドと少女共々教会内に誘われるや否や、そう訊ねた。フンボルトは首を横に振って、
「いいえ、特に何も」
前室から廊へと繋がる扉を開けつつ答える。
「オイレンブルクはいつもと変わらず、ヘルベルトとベルンハルトを巻き込んで、ホルシュタインと口論していましたよ」
「本当に変わらないな」
ルドが鼻で笑って、そう言った。フンボルトも呆れ果ててそれを肯定する。
「そう。彼方らは変わらない! ホルシュタインは一〇〇年以上も前から他人を信用していないし、オイレンブルクも一〇〇年以上経ってもホルシュタインに敵意を抱き続けている。ヘルベルトにベルンハルトも、それを知りつつも大事にならない限りは諦めて放置」
「そもそも」
と、フリードリヒが言う。
「死者である我々が変化する、というのは神の御業がない限りは無茶だろう」
「全くその通り」
フンボルトはフリードリヒの言葉を首肯する。
「だから今回の失踪がかなり斬新過ぎて、此方達も慌てて彼方を捜索しに行ったわけです」
フンボルトは前室と廊を隔てる扉を開放すると、ベンチの配置されている身廊、その中央を突っ切るように歩き出した。ルドとフリードリヒ、少女もそれに続く。
「その失踪の前夜も、彼方らはジギ、そして此方を含めた教会の人間全員の前で口論していた」
フンボルトは立ち止まって後ろに続く三人を振り返りつつ、内陣の――本来なら祭壇のあるところ――を、ヴァチカンの教皇か、あるいは英国の王位を持つ者が座するような玉座にすり替えられたそこを指す。
「そこに」
フンボルトが言う。
「ジギが座り、中央ドームを隔てて身廊の一番前の列にオイレンブルクとホルシュタインが座り、そのすぐ後ろにヘルベルトとベルンハルト、その後ろに此方が陣取った。それで未だにオランダから一歩も出ようとしないプロイセン最後の王にして最後のドイツ皇帝を、どうやってベルリンへ連れ帰るかの協議、もとい口論をしていた」
フリードリヒは急にばつの悪そうな表情をした。ルドは一瞬それを見上げたが、一言も言わずに視線を説明を続けるフンボルトに戻す。
「協議という名の口論はいつも通りに平行線に終わった。そしていつも通りに次の朝が来て、昼が過ぎ、夜になって、その日初めて誰もオイレンブルクの姿を見ていないのに気付いた――」
*
フィーリプ・ツー・オイレンブルクとフリードリヒ・フォン・ホルシュタイン、そしてヘルベルト・フォン・ビスマルクにベルンハルト・フォン・ビューローは、共に第二帝政期のドイツで活躍した外交官にして政治家だ。ベルンハルトは大使を歴任した後に帝国首相に上り詰め、ヘルベルトは鉄血宰相と呼ばれた父の元で外相を務めた。ホルシュタインは外交を影から操った文字通り『黒幕』として暗躍、そしてオイレンブルクはヴィルヘルム二世ととても親密な関係を築いたことで知られている。
彼ら四人と、フンボルトを加えた合わせて五人が、ドイツ魔法界を外交面から支えるベルリンの〝女教皇〟の契約者だ。
オイレンブルクが失踪したその日は、珍しくジギとそのジギの契約者達が揃って食事の席に着いたのだという。
いつもなら各自が勝手に外で食べるか、他の魔法使いの契約者となっている親しい者の食事の相伴に預かるなどして、この席は閑古鳥が鳴くことが当たり前になっている。しかしその日に限って、外交官達のスケジュールに余裕があり、どうせだからとジギが皆を呼び集めたのだ。
教会の食堂、その一番の上席にジギが座り、その後にフンボルトとホルシュタイン、オイレンブルク、そしてベルンハルトとヘルベルトと続くのが、いつも通りの席次だ。偶数人なので、四角いテーブルの長辺に向かい合うようにして座る。
彼らはいつもの席次通りに着席し、食事の運ばれてくるのを待っていた。しかし、晩餐はいつまで待っても運ばれて来ない。オイレンブルクが待てども来なかったからだ。
「ジギ!」
と最初に自分の魔法使いを呼んだのは痺れを切らし、テーブルを指で叩いていたヘルベルト・フォン・ビスマルクだ。父親似の顔で少し苛立った様子の彼はジギに言い放つ。
「オイレンブルク侯爵はまだ来ないのか?」
ヘルベルトの言葉に、ジギは「ん……」と唸って、視線を斜め前に注ぐ。首を傾けると、言葉を発する代わり、正面に座るフンボルトに目線をやった。
「確かに遅すぎるが――」
ジギの向かいに座るフンボルトが、ジギの言葉を代弁するように隣の空席を見て言う。彼はそのまま空席の向かい、ジギの隣に座る、銀色の眼鏡を掛けた男に目をやった。
眼鏡の男――ホルシュタインは、腕を組んで視線をテーブルの白いクロスに落としている。が、ただ瞑目しているふうにも見えた。もしかしたら、半ば夢の世界にでも旅立っているかも知れない。フンボルトには、彼が自分の正面の空席をわざとらしく無視しているように思えた。
「枢機卿」
呆れ気味にフンボルトがホルシュタインを呼ぶ。ホルシュタインはフンボルトの声にすぐに反応した。パソコン端末の画面に光が戻るように瞼を開けるとほぼ同じに、視線をフンボルトのほうへ向ける。
「何です?」
冷徹を通り越して感情の欠片すら感じさせない声。
フンボルトは相手の声にぞくりとしつつ訊ねた。
「其方はオイレンブルク侯爵が何をやっているなど知らないのか?」
「いえ全然存じ上げませんな」
即答に加えて早口。相手が年上――どころか人生の大先輩――であるフンボルトでなければ「知ったことか」と答えていただろう。
突然、がた、と椅子の脚が床をこする音がした。ジギの目線が動き、席を立った彼を向く。ベルンハルト・フォン・ビューローだ。
洒落っ気を感じさせる口髭を生やした彼は、他の者に比べて押しの弱そうな印象を受けた。
「あの」
ベルンハルトがジギのほうを向いて言った。
「僕が彼の部屋に様子を見に行ってきます」
「了承した」
「俺も行こう」
と、ヘルベルトがベルンハルトに続く。
「オイレンブルクは今日、大した予定は入っていなかったはずだ。出掛けていなければ自室にいるんじゃないか?」
「出掛ける前に連絡をしておいて欲しいものですけどね」
そう言いながら、彼らは食堂から出て行った。
フンボルトは食堂の扉が閉じられるのを見届けると、テーブルの中央に向き直る。向かいに座るジギに向かって、彼は訊ねた。
「ジギ。オイレンブルク侯爵から何か訊いていないのか? 出掛けるとか、調子悪いとか」
「いや全然聴いていない」
ホルシュタインに似せた口調に声色だった。
ジギはいつも周囲にいる誰かの口調をそっくりトレースし、声色すら似せて会話するのだ。少なくともフンボルトはジギと付き合ってこの方、ジギ自身の特徴ある――トレースして話すのが特徴と言えなくもないが――口調を聞いたことがない。
ジギは続けた。
「加えてオイレンブルクの今日の予定も把握していない。強いて言えば休暇だ。生憎私は他人の休日の予定まで把握しようという趣味は持ち合わせていない。このホルシュタインと違って」
ジギは隣に座るホルシュタインを指す。
彼はジギの言葉に眉一つ動かさない。目は開けているものの、先程とは変わらない様子で空を見つめている。
フンボルトが「むう」と唸る。眉間に寄った皺を掻きながら、フンボルトはホルシュタインに言った。
「ホルシュタイン――もう一度訊くが、オイレンブルクの予定は知らないんだな?」
ホルシュタインは視線だけ動かして答える。
「私に同じことを二度も言わせないで欲しい」
ホルシュタインはそれきり黙ってしまった。フンボルトもこれ以上の追及は無駄だと諦めて、ベルンハルトとヘルベルトの去って行った食堂の扉のほうを向く。
すると、その扉がぎっ、と重い音を立てて開いた。フンボルトは身を起こす。
扉の開かれた隙間から顔を出したのはベルンハルトだった。フンボルトがベルンハルトに訊く。
「オイレンブルク侯爵はいたか?」
「いえ、まだ――」
首を横に振って答えるベルンハルトの表情は焦りを滲ませていた。フンボルトがその様子に首を傾げると、ベルンハルトは今度はジギのほうを向く。
「ジギ、ちょっと来てくれないか? 何だか部屋に、鍵が掛かっているらしくて――」
それを聞いたジギは眉を顰めた。
「鍵?」
ジギは椅子から立つと、ベルンハルトのほうへ歩いて行く。
「オイレンブルクはまだ寝ているのか?」
「まさか、さすがにそれはないだろうけど――」
不安げにそう言う彼に、残るフンボルトとホルシュタインの二人も不審感を覚えた。彼らも食堂を後にし、ベルンハルトとジギに付いて行く。
教会の契約者達は、古い屋敷をそのまま寮のサイズに圧縮したような居住区に住んでいる。
先導するベルンハルトに続いて、ジギやフンボルトとホルシュタインが、点いているはずの明かりが意味をなしていない薄暗い質素な廊下を進んで行くと、数ある扉の一つに向かって突っ立っているヘルベルトに出会った。
ヘルベルトに会うなり、ジギが彼に訊ねる。
「オイレンブルクは?」
「分からない」
ヘルベルトはそう言うと、一歩退いて、ジギの立つスペースを空ける。
ジギはそのスペースに立つと、ドアノブを握って扉を揺する。
「オイレンブルク!」
返事どころか、ノブすらも微動だにしなかった。ベルンハルトの言う通り、鍵が掛かっているのだ。
ふと、ジギはドアノブに掛かった札に気がついた。
「『起こさないでください』?」
ジギがドアノブプレートに書かれた言葉を音読する。ジギはプレートを取ると、契約者達のほうを振り返り、それを見せた。
「オイレンブルクは起きてすらいないのか?」
「信じたくないが――」
と答えたのはジギの後ろに立っているヘルベルトだ。ヘルベルトも足元に置いてあった何かを取ってジギに見せる――今日の新聞紙の朝刊の束だった。
「これ、毎朝皆の部屋の前に配布してあるやつだろ? さっきビューローと来た時、これが部屋の前に放置されたままになってた。プレートは取り忘れるかも知れないが、これにはさすがに気付くはずだ」
「少なくとも、廊下には出ていないということか」
ホルシュタインが言う。
ジギはそれを聞くと、扉に向き直った。目を閉じて、深く息を吐く。そして何かをぼそぼそと呟くと、かっ、と目を見開いた。
一同の何人かが、目が光を放つのを認めただろうか。そんなことを皆が知り得ないうちに、ジギは一歩踏み出した。ドアを厚手の布を掴むように握ると、寝坊助に太陽光を当てる時のような思い切りの良さでドアをその周辺の壁ごとカーテンのように開ける。木製のドアやコンクリートの壁が布のように柔らかく折り畳まれ、押し退けられた。カーテンレールの鳴る音までもが聞こえた気すらした。
「よし」
そう言うとジギは、呆けている契約者達を置いてすたすたと部屋に入って行く。その契約者達も、一瞬遅れて後に続いた。
部屋の中は、先程の廊下とは打って変わって、正真正銘の貴族の屋敷の一室のようだった。ダマスク模様の壁で囲われた部屋は絨毯が敷かれ、ユーゲントシュティル様式の家具が一式、整然と配置されている。部屋の持ち主もあくまで名門貴族なだけあり、趣味の良さを伺わせた。
ジギは部屋を見渡すと、入口の向こう側の壁際に、まだこんもりと丸まっている布団の載ったベッドを見つけた。
「ホルシュタイン」
ジギは背後を振り返り、眼鏡の男を呼びつける。ホルシュタインは返事の代わりに魔法使いのほうに目を向けた。魔法使いはベッドを指す。
「行け」
その指示に、ホルシュタインは配置された家具の間を脇目も振らずにすり抜けて行く。彼はベッドに辿り着くと、何の言葉もなしに、いきなり布団を剥ぎ取った。
剥ぎ取った布団の中身を見て、ホルシュタインは目を見開く。
「ジギ」
と彼は魔法使いを呼んだ。ジギはホルシュタインに続いてそこへやって来るところだった。ホルシュタインは布団の端を掴んだまま、ジギのほうを向いた。そして魔法使いに布団の下を見せるようにして、そこを退く。
「オイレンブルクはいない」
ジギは部屋を再び見回した。他に隠れられそうなところはないだろうか?
部屋の収納は既に他の三人によって改められていた。クローゼットの扉は開けられて衣類は床の上に除けられ、箪笥の中の物も全て取り除かれ、死角になりそうな家具も移動させられている。しかし、それのどこにもオイレンブルクの姿はなかったのだ。
*
「一応、その後は此方の部屋を含めた居住区の全室を探し回る羽目になった」
フンボルトが肩を竦めて言う。しかし、結局そのオイレンブルクが見つからなかったのは彼の様子からして確かなのだろう。
フリードリヒが言う。
「出掛けようとした様子もなかったのか?」
「それらしい形跡はありませんでしたよ」
フンボルトが答える。
「オイレンブルクが持っている分の鍵は部屋の中にありましたし、布団の形も抜け殻そのものでした。一応、彼方の能力上、自分の領地にだけは何の形跡も残さず引っ込むことが可能なので、ホルシュタインとヘルベルトが調査に行っています」
「ジギが自分でやった――」
と言い出したのはルドだ。フリードリヒとフンボルトが彼のほうを向く。
「と言うことはないよな?」
ルドの言葉に、フリードリヒは驚いた表情でフンボルトと顔を見合わせた。彼はルドに向き直って訊ねる。
「なぜそう思う?」
「なぜ? 単純だ」
ルドは二人とは逆に、その考えに辿り着かないことに対して驚いているようだ。彼はフリードリヒの問いにきっぱりと言い放った。
「ジギの得意とする魔法が、そういった形跡の残る失踪を起こすことに適しているからだ」
その言葉に、フンボルトは一瞬押し黙った。俯き、視線を中空で右往左往させた後、
「――言われてみれば」
と呟く。ルドが彼のその台詞に、人差し指でびし、と彼を指す。
この中でジギの魔法をよく知っているのは、その魔法使いの契約者であるフンボルトしかいない。彼がすぐに、ジギの使えるであろう、失踪を起こすことが可能な魔法に思い至ることが出来るのも無理はなかった。
しかし、フンボルトはすぐに顔を上げてルドを真っ直ぐに見た。直後、彼は反撃を始める。
「でもジギがオイレンブルクを失踪させる動機はないだろ。あくまで現在は自分の配下だ。いつだって自由に扱き使えるんだぞ。わざわざ失踪させる必要なんてない」
「ルドは」
と、フリードリヒが口を開いた。フンボルトがばっ、と彼のほうを向く。フリードリヒは構わず続ける。
「『失踪させる』ことも手段の一つだと考えているんじゃないか?」
フリードリヒがルドを見遣る。ルドは黙ったまま、フンボルトを見ている。
「手段?」
フンボルトはルドを一瞬だけ見、再びフリードリヒに視線を戻した。
「何のための手段ですか?」
フンボルトがフリードリヒに問う。
フリードリヒはそれに回答しようと口を開け――ようとした寸でのところで、ルドがフリードリヒの目の前、フンボルトとの間に立って制した。
「フリッツ!」
ルドが険しい顔でフリードリヒを睨む。フリードリヒはその鋭い視線に、やっと自分が口を滑らせかけていたことに気付いた。ルドがフリードリヒに言い放つ。
「ここでは控えろ、フリッツ。ここはあの〝女教皇〟の場だ。迂闊に喋って変に手を出されたら――」
どうする、と言いかけたところで、ルドは言い淀んだ。後ろにいたフンボルトに肩を叩かれたのだ。ルドは彼のほうを振り返る。
しかし、振り返ってそこにいたのは、テーゲルの賢者とも呼ばれるフンボルトではなかった。
繕ったような苦笑いを浮かべているフンボルトの隣。長い茶髪をリボンで束ね、体型をすっぽりと隠すように丈の長い背広を着た、蒼い瞳の青年が、ポストモダン彫刻のように立っている。
「やあ」
美しいテノールボイスの青年が片手を顔の横でひらひらと振って、ルドに挨拶をする。しかし当のルドは彼のぱっちりとした大きな瞳を強調する笑顔を見て硬直していた。青年は構わず続ける。
「ようこそ、ルド」
そしてその横に立つ、同じく驚愕の表情を浮かべたフリードリヒを見上げ、
「そしてドイツ皇帝フリードリヒ三世陛下」
と、フンボルトの口調を借りて恭しく言った。
ルドは声が出せる程度に緩んだ喉を震わせて、彼の呼び名を絞り出す。
「ベルリンの〝女教皇〟――」
「あっは」
〝女教皇〟と呼ばれた彼は、それを聞いた瞬間に突然、乾き切った高い笑い声を発した。チシャ猫のように笑って言う。
「ルド、毎回言ってるだろ? 此方のことは『ジギ』と呼べ、と」
『ジギ』と呼んだら殺されるという空気の中で、その言葉は発せられた。
*
「ジギ――」
自分でも知らぬ間に息が荒れていたことに気付いたルドは、やっとのことでジギの名前を呼んだ。ジギが満足気に首を縦に振るのを見ると、溜息混じりに彼に言う。
「教会でホラーな演出をするな」
「ええ〜」
ジギは口を尖らせて反発する。
「教会だからこそ出来る演出だろ? 今やらずにいつするんだ」
「教会だからこそ冗談では済まないとは思わないのか、お前は」
ルドはジギの妙な熱の入りように呆れた。
また一つ溜息を着いて、ルドはジギに言う。
「ああそうだ、一つ用事を頼みたい」
そう呟くと、彼は後ろにいるはずの少女を振り返る。
「お嬢さん――」
ルドは振り返って早々、また頭を抱える羽目になった。呼ばれた少女は、自分が呼ばれたことにも気付かぬまま、正面のファザードに広がるバラ窓や側廊のクリアストリーから放たれる美しい光に見蕩れている。
ルドは大きく溜息を着くと、すぐさま彼女に駆け寄る。
「お嬢さん――時間は有限なんだ」
そう言うと、彼は乱暴にも見える動作で少女の腕を掴んだ。自分に従うように強要するような剣幕で睨め付ける。
「ここで立ち止まっていたら、太陽があっと言う間に地平線下へ落っこちる――そうなっては堪らない」
言い終えると、ルドは彼女が腕を掴まれて痛みを感じていることすら知らん顔で皆のところへ引っ張って行った。
ルドは引っ張って連れて来た彼女を自分の隣に立たせる。少女はまた知らない人間を前にして怖気づき、俯いて縮こまった。
ジギが彼女を見て訊ねる。
「それが連絡にあった例のお嬢さん? 身元が知れないという」
「ああ」
ルドが即答する。彼は少女に一歩前に出るように勧めた。
少女は言われた通りにおずおずと前に出る。ジギはそんな緊張した様子の彼女を、中腰になって興味深そうに観察し始めた。そんな様子のジギにルドが言う。
「だからお前にはお嬢さんの身元調査に当たってもらいたい。ベルリン中の行方不明者と意識不明者、そして失踪届の全てを把握しているベルリンの〝女教皇〟に」
「分かった。ドイツ全州の行方不明者・意識不明者・失踪届は把握してる。すぐ突き止めて見せよう」
ジギが少女の涙に潤んだ目を見つめながら返事をした。彼女の瞳に映る自分の像が、零れそうな涙で歪むのを見て、ジギはニヤリと笑う。
それを見下ろしながら、ルドは重ねて言った。
「このお嬢さんの衣装を適当に見立てて貰いたいんだ」
「はい?」
少女の顔を覗きこんでいたジギが、ルドに唖然とした表情を見せた。ジギは再び背筋を伸ばして――しかし何かに寄り掛かっているような、斜めった姿勢で――ルドを見る。
「なぜ私なんだ? 女性なんだから、この場合はお嬢が適任者だろう?」
「ウーリは駄目だ」
ルドがきっぱりと言う。
「ウーリは制服を選んで着こなす程度にしか自前のファッションセンスを持ち合わせていないことくらい、お前だって知ってるだろ」
「確かに」
ルドの意見に、ジギはすぐに納得した。
「お嬢の周囲は職業軍人集団だもんなあ……正直、お嬢が流行のファッションをしてるところなんて見たことないし。荷が重いな」
ルドが続けて言う。
「その点、ジギに任せておけば安心だ。男のくせに女装ばっかりしてるんだからな」
「はい?」
ルドの言葉に、ジギは再び喫驚した。首を傾げる彼を、ルドが怪訝そうに見る。そんなルドに、ジギは言い放つ。
「その表現には語弊があるな、ルド――いつ私が、男だと言った?」
「……え?」
ルドは目をぱちくりさせ、彼の言ったことを理解しようとした。
しかし、ルドにはそのような時間は与えられなかった。彼のコートのポケットに突っ込まれたブラックベリーのケータイが主を呼び出そうと叫びだしたのだ。
ルドは我に返って、ポケットからケータイを取り出す。画面に表示された番号はベルリン軍事大学のものだった。ルドはジギ達から数歩離れて背を向けると、ボタンを押して電話に出る。
「もしもし?」
――ルドか?
電話の相手は軍事大学に行っているはずのビスマルクだった。ビスマルクが軍事大学に設置されている電話を借りて掛けているのだ。
ビスマルクはルドが返事をせぬままに、続けて言う。
――今どこにいる? 宮殿か?
「いや」
とルドが否定する。
「フリッツとお嬢さんを連れてクーダムのカイザー・ヴィルヘルム記念教会に来ている。〝女教皇〟と面会中だ」
言いながら、〝女教皇〟――ジギを見やった。
ジギはまだ少女を眺めていた。いい加減に泣き出しそうな少女本人をよそに、ジギは楽しそうに頭の上からつま先まで、今着ているルドが用立てた衣装も含めて舐め回すように観察している。
ルドはそんなジギの様子に苦い顔をしつつ、電話越しにビスマルクに訊ねた。
「何か進展はあったか?」
――あったぞ。だがルド、お前にそれを報告する前に一つ言わねばならんことがある。
「何だ? まずいことか?」
訝しげなルドの問いに、ビスマルクは真剣そうな声色でこう答えた。
――ウーリがお嬢さんに「会ってみたい」と仰せだ。
「断れ!」
ルドが怒鳴るように言い放った。思い切り大きな声で叫んだせいか、教会の廊全体に、その声が反響した。振り返ると、ルドの後ろで電話の様子を見守っていたフリードリヒやジギ、そしてフンボルトが驚いた様子で彼を見ている。ルドはすぐに彼らから目を逸らし、言い直した。
「……後が面倒臭いことこの上ないだろ。出来るなら断ってしまえ」
――しかしルド、それは残念ながら出来ない。
そのビスマルクの声も、電話越しながら疲労が感じられた。ルドはビスマルクに問い質す。
「なぜ? お前程の人間なら、ウーリを丸め込むことくらい簡単だろ」
――その理由は簡単だ、ルド。
ルドは受話器の向こうで、何か無数に動き、擦れて音を立てるのに気付いた。
それだけではない。その擦れ合う音の間に間に、咳払いや小声、舌打ちまでもが混じっている。
ルドはそれらの音に不安感を覚えた。ビスマルクが言う。
――ウーリの後ろに、参謀本部――モルトケやシュリーフェンではなく、グナイゼナウ将軍閣下達の参謀本部――が控えていらっしゃるからだ。私が断り切れると思うか?
ビスマルクにそう言われてしまい、ルドはあっさりと、
「無理だな。逆らえない」
と言った。悔しさすら感じられない表情で完敗を認めている。
ルドは電話の向こうで小さく溜息を着くビスマルクに言う。
「しょうがない――こちらも用事が詰まっているから対応するならその後になるが、それでも良いならポツダムの〝剛毅〟とその配下の方々にはカイザー・ヴィルヘルム記念教会までご足労願ってくれ」
――了解した。後でな、ルド。
諦めた様子でビスマルクは返事をし、電話を切った。
ルドは通信の終了したケータイの画面を見る――表示されたデジタル表示の時計が、次の予定の時刻を指そうとしていた。
丁度、彼の耳にきい、と扉の開く音が聞こえた。ルドが顔を上げ、音の聞こえた袖廊の奥を見る。
「ベルンハルト」
同じく袖廊のほうを見ていたジギが、身廊にいる自分達のほうを覗いている男を呼んだ。
ベルンハルトは人集りの中にルドを見つけると、自分の魔法使いであるジギに会釈をしつつ彼のほうへ歩いて行く。
「こんにちは、ルド。来ていたんだね」
「ベルンハルト・フォン・ビューロー」
ルドが彼のほうに向き直り、名前を呼んだ。
「俺に何か用か?」
ルドの言葉に、ベルンハルトは渋い顔をしつつ手に持った紙片を見る。
「きみのところの取り憑かれ屋くんから、「そろそろ時間なんで早くしてくださいっス」と連絡が来たよ」
そう言うと、ベルンハルトは紙片をルドに渡した。――インクをたっぷり含んだ抑揚のある筆跡で『取り憑かれ屋のアクスからルドへ、至急現世へお戻り願う』と書かれている。ルドはそれを確認すると、丁寧に折り畳んでコートのポケットへ突っ込んだ。
「急ぎの用事?」
「まあな」
ベルンハルトの質問にルドはそう答えると、ジギやフリードリヒのほうを向く。
「ジギ!」
ルドがジギを呼ぶ――彼は少女の頭を乱暴に撫で回していたところだった。ジギはその手を止めるとルドのほうを見る。
「何?」
「俺は現世での予定を済ませに行ってくる。終わったらすぐ戻って来るから、その間に――」
「了解した」
ルドの指示に、ジギが首を縦に振って応じる。ルドは不安を感じながら、フリードリヒのほうを向く。フリードリヒはルドと目が合うと「分かっている」と言いたげに首肯した。
「後のほうは任せておけ。何かあったら連絡しよう」
その言葉に、ルドはやっと安心した様子で緊張の緩んだ表情を見せた。穏やかな声で一言。
「頼む」
そう言うと、彼は廊の入り口の扉へ急ぎ足で去って行く。
ルドが教会の入り口の扉を開けたその時。ジギの元にいた少女は不安げな表情で飛び出した。彼女は身廊を足音の響くのも構わず突っ切る。しかし一歩遅かった。ルドは既に扉の向こうへ行ってしまって、彼女が来るのも知らぬままに入り口は閉じてしまったのだ。しかし少女は構わず扉の取手に手を掛けた。今なら追いつけるかもしれない。彼女は思い切り扉を引いた。
「あれ……?」
しかし、教会の外――夕日が照らす街にはルドの姿はコートの影すら見当たらなかった。
見回す少女の後ろにフンボルトが立つ。
「ルドは今頃はアクスの運転する自動車の中だな」
「アクス?」
少女はフンボルトを見上げて、知らない名前を質問代わりに復唱する。フンボルトは彼女の顔を見下ろして答えた。
「ルドの部下の取り憑かれ屋――魔法使いの下っ端で此方達にとっての便利屋かな」
少女はフンボルトの説明を理解出来ず、困り顔で首を傾げた。
フンボルトは彼女の肩を押して教会の中へ戻るように促す。少女はまだ教会の外へ消えたルドの行方を気にするように後ろを向こうとしている。フンボルトが言った。
「此方達はルドを待つ間、其方の用事を済ませようか」
02
少女がジギに手を握られて連れて来られたのは、ジギの衣装部屋だという、衣装箪笥に所狭しと占領された大広間だった。少女はまた――収納を漁っているジギをそっちのけで――その部屋に施されたロココ調の華麗な装飾に目を輝かせている。
しかしその部屋は、幅は少し広く作られてはいるものの、教会の建物とは離れた客を通すには暗く見窄らしい棟にあった。来る時には装飾も最低限に抑えられ、質素で少し埃っぽいような印象を受けたものだ。
少女は、ふと衣装箪笥を今にもひっくり返しそうなジギの背中を見る。彼女はジギの、優雅さの欠片も感じられない様子を見て、頭に小さくこびり付いた疑問が、再び大きくなるのを感じた。
「あの――」
と少女はジギに話しかける。
ジギは衣装箪笥から取り出した様々なファッションジャンルの服で出来た服の山に、色とりどりの腰の細いシルエットのドレスを数着盛ると、彼女のほうを見て、
「ん〜?」
と低く唸った。ジギの人間を正面から見ていないような目付きに気圧されて、少女の背筋がびくっと跳ねた。視線をぐるりと泳がせる。ジギはその様子に首を傾げて、
「何か言いたいことでも?」
と訊いた。少女は一瞬だけジギから目を逸らしたが、意を決したように向き直る。
少女はジギに訊く。
「あの……あなたも、魔法使いなの?」
少女のほっそりとした声に、ジギはまたチシャ猫のようににんまりと笑う。
少女はその表情に悪寒を感じた。
しかしそんな少女をよそに、ジギは抱えたピーコートの束を床にぶち撒ける。
「そうだ」
そう語る様子はまるで啓示を受けた霊媒者のようだ。彼は自分の胸に手を添えて演技を続ける。
「此方は魔法使い――〝運命の輪〟から推薦を賜り旧プロイセン王から栄誉ある魔法使いの称号を授けられし〝女教皇〟」
ジギは妖艶さを漂わせた恍惚の表情で、自分の称号の所以を語る。だがそれを聞いている少女は雰囲気に圧倒されてはいたが、やはり自分の中の違和感を拭いきったとは思えなかった。
その少女の様子に気付いたジギが不満気に眉間に皺を寄せる。
「其方、此方が〝女教皇〟であることに不満でも?」
「え……?!」
突然、ジギが激しさを滲ませた異議を言い放った。ジギは喫驚して、慌てて首を横に振る。ジギは靴底を脅すように鳴らして少女のほうへ歩いて行く。
「ち、ちが――」
少女は彼の勘違いじみた言葉を否定しようとするが、そんな試みは未遂に終わった。
「では」
とジギが少女に問う。
「其方は何が不満だと? 此方が〝女教皇〟であること以外の何が?」
ジギは前のめり気味に少女に迫る。彼女はジギの剣幕に悲鳴を漏らした。それを聞いた魔法使いは益々苛立って、
「言いたいことがあるならはっきり言え!」
と叫ぶ。
少女は異常な程に近いジギの顔に仰け反りながら、おっかなびっくりジギに言う。
「ち、違うって思って――」
「何と?」
「わたしの知ってる、魔法使いと、違うって思って――」
「はい?」
ジギは少女の言葉を聞いて、やっと彼女から離れた。彼が離れたことでやっと緊張感から解き放たれた少女は、疲れてへたり込む。ジギはやっと納得した様子で首を縦にこくこくと振った。
「なるほど。お嬢さんのイメージにある魔法使いと、実際のそれのギャップに驚いているわけか」
ジギはさっきと打って変わって、新しい興味の対象を見つけたとでも言うようににこにこ笑う。
彼は腰を抜かしたままの少女を近くにあった丸椅子に座らせた。座った彼女の視線に目を合わせて中腰になる。
「お嬢さんが持ってる魔法使いのイメージは知らないけど、実際はこんなもんだよ。さして神秘的でもなければ仰々しいこともしない。ちょっと箔の付いた魔術師でしかないし?」
「そんな……」
ジギの話に少女は酷くショックを受けたようだ。悲しみに満ちた顔で、茶化すような笑顔のジギの目を見ている。しかしジギ本人は相手の受けた衝撃などどうでも良さそうに言う。
「だって事実だもん」
そう言って、彼は次の衣装箪笥をひっくり返しにかかった。少女に背を向けつつ、話を続ける。
「そりゃあ、昔は庶民層相手にまじないをしてみたり、病気が流行れば薬をあげたりして、魔法使いや魔術師は生活の様々な困り事を解決する役を担ってたらしい。でも、教会が魔女狩りをやったせいで、魔法魔術稼業の者は王侯貴族に胡麻を擦って癒着しないと生きていけなくなったんだ」
びし、とジギが少女を振り返って指す。
「そうやって称号を授かった魔法使いの子孫の一人が、お嬢さんが今お世話になっているルド」
少女の瞳の中の光が揺れる。彼女はジギに訊ねた。
「あなたも、そうなの?」
「いや、此方はルドの御先祖の弟子の家系の末裔」
ジギがきっぱりと答える。
「とにかく、そんな感じで特に媚びまくった魔術師は魔法使いとなり、王侯貴族には身分にちょっとした箔が付いて、互いに得をし合いながらやってきた。けど、一回目の大戦で王侯の多くが身分を追われ、国をも追われてしまって、結果的に王侯のお零れをありがたく頂戴していた魔法使いも細々とするしかなくなったわけ。今では御洒落なまじないアクセサリーを売りながら、こそこそと歴史の表舞台から降りた人々の介護をしてるような状態」
「信じられない……」
少女がもはや絶望的な表情で言った。
「詐欺師みたい……魔法使いはもっと崇高で神々しい人達じゃないの……?」
ジギはそれを聞いて、途端に吹き出した。腹を抱え、時に仰け反り、箪笥が並んでいるとはいえ大広間に匹敵する大きさの部屋に思い切り響く声を上げて大爆笑する。少女は驚きのあまりきょとんとなってしまった。
彼は過呼吸気味になりながら少女に言った。
「き……そ、其方の……ひひ、魔法使い観は、ぶっ、何と言うか……ひっひ、ひゃひぇ、現実(ひぇんじつ)離れ、して、してる、というか、ひゃっは、ふぇ、メルヘンチッ……クというか、ファンタジー……っぽいなって」
少女は肩をすぼめて縮こまる。今にも泣き出しそうな表情で顔を伏せてしまった。
何とか深呼吸をして過呼吸を治めたジギが言う。
「でも、お嬢さんの魔法使い観はある意味で嬉しい誤解だよ」
少女はその言葉にそっと顔を上げる。彼女は小さく、
「なぜ?」
と訊ねた。ジギは再び振り返って答える。
「魔法使いには神秘性が必要だから。魔法使いは結局のところ、よく分からないことを報酬目当てでどうにかしてやっちゃう者だからね」
「見返りが必要なのは……変わらない、じゃない」
ふてくされた様子の少女に、ジギは言う。
「それはしょうがない。こちとらそれで飯喰ってるんだから。報酬無しはボランティアや親切と変わらない」
言いながら、箪笥の引き出しから安物のパーカーを乱暴に引っ張りだした。いかにも量販店で売っていそうな発色の良いビビットカラーのパーカーを、ジギはぱん、と広げる。手に持ったそれと少女を見比べる。
そして唐突に、
「ああ、でも――」
と彼が呟いた。顔を上げて首を傾げる少女に向かって、ジギは言う。
「其方には今回特別に、此方の魔法を見せてあげても良いよ」
少女の目の色が一瞬にして変わった。絶望でどんよりと曇っていた瞳が、好奇心と期待できらきらと光っているように見える。少女がわくわくした様子で、
「見たい!」
と大きな声で言った。ジギは小さく、しかし大袈裟に笑う。
「では見せてあげるとしよう」
ジギは少女に持っていたパーカーを渡すと、漁っていた衣装箪笥の元へ戻った。
衣装箪笥の扉を全開にして言う。
「こちらは何も種も仕掛けもないただの衣装箪笥、そしてその扉」
彼の言う通り、その少し使い古された箪笥は、中には閉じられた引き出しがあったものの、しまわれていた服は全て床に素材や新旧問わず放り出され、撒き散らされていた。扉には鏡すら付いていない。取手や表の装飾が無ければ、ただの蝶番の付いた板だろう。
少女が箪笥と自分に注目しているのを確認して、ジギは続ける。
「正直、この扉を閉じてeins(いち)、zwei(に)、drei(さん)! とすれば、当然誰かを召喚出来るけど――」
ジギは少女が期待に胸膨らませて思わず立ち上がるのを見た。しかし少女はジギが箪笥の扉を閉める振りだけをしたのを見て、再び上げた腰を椅子に下ろす。
「此方は〝女教皇〟の魔法使い、扉なしで召喚して見せよう」
言うと、ジギは息を太く深く吸って吐いた。少女に箪笥の中を見せるように移動すると、その箪笥に向かって手を差し伸べる。
――ジギの目が蝋燭に火が灯るように、しかし電灯の如くはっきりと発光した。
それまでのトレースを捨て、ジギは無表情で感情の全く籠もっていない声で低く詠唱する。
「――いるはずのない美徳よ、あるはずのない真理よ、妄想の中の神秘よ」
ジギのぼそぼそと呟くように唱えられた呪文を聞いて、少女は眉を顰めた。ジギの面のような顔と箪笥を見比べる。
少女は文句を言おうとして、口を開きかけた。しかしそこから言葉が出る一瞬、箪笥に異変が起こった。
箪笥の扉を開いたそこで、何やら影が動いて見えたのだ。箪笥の中、隅のほうに小さくあった影が中央に向かって伸び出し、丸く円を描く。
少女は目を見張った。円を描いた影が立ち上がり、岩から泥が流れ落ちるように、現れたそれの全容を成していく。
現れたのは男性だった。短くもところどころにアクセントを付けたような、小洒落た跳ね方をした髪。影が流れ落ちて見えた瞳から、快晴の空を映す海洋を彷彿とさせる青い眼光が見える。
少女はその男に見覚えがあった。彼女は喫驚して開いた口を動かそうとする。
それよりも前に、男が箪笥から出て広間の床をカツンと鳴らした。ジギが口元に笑みを浮かべて、その男の手を取る。
間髪を入れず、男の目が稲妻のように閃いた。少女の背筋が危機を感じて凍り付く。しかしそれも手遅れだ。男の突き刺す視線が少女の澄んだ瞳を捉えるのが早かった。男が舞台俳優のように歌う。
「――ビューローの血筋、プロイセンの時代、ドイツの歴史よ!」
瞬間、広間中の照明がショートした。発光している、していないに関わらず、部屋中の明かりが写真機の照明がフィラメントを爆ぜさせるが如く、部屋中を真っ白な光に包む。
少女は咄嗟に目を閉じて、視界を腕で覆い――動きを停止した。
少女だけではない。衣装部屋にあるものの殆どが、動きを止めていた。扉の開け放された箪笥の中で揺れる衣装も微動だにせず、空気も循環している気配がない。音すらも止まっているようで、しーんと静まり返っている。
しかしその異様な空間の中で動いているものがあった。
ジギが自分の喚び出した男に向き直り、ぱちんと指を鳴らす。
「Danke schön(ありがとう)、ビューロー!」
ビューローと呼ばれたベルンハルトは、瞳に青い光を残したまま笑いもせずそこに立っていた。彼の返事代わりの乾いた笑い声を聞くと、ジギは少女へと近付いて行く。
ジギは彼女の視界を覆うとした腕の隙間から、彼女の泣き出しそうな驚いた表情を覗き見て言った。
「この娘阿呆の子だ」
言って、舌舐りする。
「今ついさっき魔法使いが何かする時は報酬目当てだと言ったのに、特別って言葉だけで引っ掛かった!」
腹を抱えて笑い出すジギの後ろで、ベルンハルトは溜息を着いた。光る片目を開けたまま、もう片目を閉じて額を撫でる。
「自分で仕掛けておきながら、それはないだろ」
呆れた様子で呟くベルンハルト。彼のほうを、震えの止まらないままのジギが振り返る。
ベルンハルトはジギに言った。
「それに、特別、とは他とは別の扱い、例外的な良い扱いのことじゃないのか?」
「其方も例に漏れず分かってないな、ビューロー。それでも〝女教皇〟の従者か?」
ジギがベルンハルトに言い返す。彼はその言葉にむっとしてジギを見た。魔法使いは笑いが収まると、彼に言う。
「魔法使いは契約の取り決め取り交わしの類にはしつこい程に厳しい。その代わり、相手の特別扱いは絶対にしない。年端も行かない幼児であれ、土地の理も解さない外国人であれ、乾涸びて浪費するのみとなった老人であれ。相手に例外はないよ」
「だが彼女とは何も取り交わしていないはずだろ?」
「そうだね?」
ジギの口から容易く出た返答に、ベルンハルトは唖然とする。
腐っても自分の主である魔法使いが、取り決めを交わしていない相手に向かって躊躇なく魔法使いの従者である自分に攻撃に準ずるものを仕掛けさせたのだ。今言った言葉と矛盾しているではないか。
彼の表情を見て、またジギが吹き出す。
「なんか可笑しいことでも言った?」
そう言うジギに、ベルンハルトは温情の感じられない顔をして返す。
「自分の口から出た言葉への読解能力は持ち合わせるべきだ、ジギ」
「自分も使う言語すら理解出来ない其方に言われたかないねえ」
ジギが楽しそうに笑う。ベルンハルトは不満気だが、それを抑えているようだった。
魔法使いが言う。
「確かにこの彼女とは何もしてない。彼女とはね」
ベルンハルトが目を丸くするのを見ると、魔法使いが止まったままの少女に向き直る。
「ルドが全部ぶん投げたまま彼女を置いてったのがいけない」
ジギは続ける。
「頼み事一つ取っても契約には変わりないことを百も承知の魔法使いのくせに、頼むだけ頼んで報酬を明示しない。同盟相手だからって油断しすぎ」
言いながら、ジギは触手のような形をした影を少女に伸ばしていく。獲物を探るように細く伸びるその動きは、蛸や烏賊の脚を連想させる。それを見た魔法使いの背後に立つベルンハルトが言い放った。
「だからと言って彼女についての情報を提供する代わりに彼女自身を要求するのか」
「あ?」
ベルンハルトの言葉にジギは低い、這いずるような声を漏らした。
その声と同時に、ベルンハルトはジギとは反対側――箪笥が並ぶだけの自分の背後――からも殺気を感じた。何かおぞましいものに見られているような感覚と、しっとりとした呼気のような空気の流れにぞっとしつつも、彼は後ろを振り返ろうとはしない。
ジギも彼のほうを振り向こうとはせず、少女をゆっくりと触手のような細く緩やかな線を描く影で包囲しながら、ベルンハルトに言う。
「其方、〝女教皇〟の意向に逆らうと? ええ?」
冷や汗が頬を滑っていくのを感じてはいたが、魔法使いに対するベルンハルトの態度は至って毅然としていた。ジギの脅迫にも動じない様子で、彼は、
「いいえ」
と答える。
「そもそも、魔法使いの配下が、魔法使いに反逆なんて出来ない」
ベルンハルトの言葉にジギは満足したようだった。ジギは口元に微笑を浮かべている。
「解ってるねえ」
背後の配下を殺気から解放しつつ、ジギは改めて目の前の少女に集中した。
ベルンハルトは少しホッとした様子で、魔法使いから気の毒な少女に目を移す。彼は少女の足元で蠢くジギの触手のような形をした影の中で、不意にぎょろりとした大きな瞳を見た気がした。唾をごくりと飲み込みつつ、目をジギの背へと逸らす。
ジギはニヤニヤと気持ち悪い笑みを浮かべながら、動かない少女に語りかける。
「お嬢さん、恨むなら其方をほっぽり出したルドでお願いするよ」
その瞬間。少女の足元のジギの影が、触手の形から閉じた瞼へと変わった。細く蠢いていたそれが、眼の開かれるように丸くなっていく。
ベルンハルトは怖いもの見たさに駆られ、先程目を逸らしたはずの少女の足元に視線をやった――動いたのは目だけではない。白くて細い腕、肉の張り付いたままの石灰色の骨が浮かんでは影の海へ沈んでいく。
影はゆっくりと開いていくが、その眼中に少女を収めるには十分早い。既に睫毛は彼女の足を捉え――ようとしたその時だった。
少女の身体から進み出るように、とても古めかしいデザインの軍服を着た男性が抜け出たのだ。
突然の出来事に、彼を目の前にしたジギは口と目とを真ん丸にした。魔法使いの後ろに立つベルンハルトは唖然とするどころではない。狼狽えた様子で目を泳がせている。
「嘘」
ベルンハルトが震える声で呟く。
「なぜ、僕の時間に他者が――?」
予想外の事態に、彼らは急に出現した軍服の男を見る。
男は軍服の上から長いマントを着ていた。癖っ毛というよりも整え損ねて跳ねている様子の短い髪と、マントの隙間から覗く古いデザインの着古したプロイセンブルーの軍服が、彼を見窄らしく見せている。
しかしジギは、見窄らしい彼の軍服のズボンに際立った特徴のあるのを見逃さなかった――鮮紅色のライン。
「其方――参謀将校?!」
そう魔法使いが言い終えるよりも前に、男はマントを翻して片腕を自分の前へ突き出していた。彼は出した手を再びマントの中へ突っ込むと、煌々と明かりの灯るランタンを取り出す。
「ビューロー!」
ランタンを見たジギが必死の様相で叫んだ。まだ慌てた様子の彼の前に飛び出しながら、ジギは続けて言い放つ。
「目を閉じろ!」
ランタンが閃光を放ったのはその言葉と同時だった。ジギがベルンハルトの前に躍り出るのと同時に、ランタンの中の明かりが周囲の風景を焼き尽くすかの如く白く強く発光し、男の姿を掻き消す。
「う……ッ?!」
ジギはベルンハルトの視界を光から遮りはしたものの、男の姿を追おうとしてまともに閃光を見た。
発光はすぐに終わったものの視界に白が張り付いて取れないジギの肩を、ベルンハルトが掴む。
「ジギ、大丈夫か――」
しかしベルンハルトの手を、ジギはすぐに撥ね退けてしまった。魔法使いは既に自分の真白い視界から――ベルンハルトが見る健康的な風景からも――消えてしまった参謀将校を追うように、ぐるぐると周囲を見回す。
「待て!」
もういない参謀将校に向かって、ジギは叫ぶ。
「待て、待てこの野郎! くっそ……」
ベルンハルトもまた視界の利かないジギに倣って消えた参謀将校がいないか探した。
だが確認できたのは、先程の閃光によってかベルンハルトの術が解けてしまい、時間が再び動き出したことだけだった。箪笥の中で吊るされた衣装が、循環する空気によて微かに揺れている。
「きゃっ」
時間と同じに動きの止まっていた少女が急に悲鳴を上げた。ベルンハルトが必死に叫び続けるジギに代わって、彼女のほうを見る。
ジギの影が伸びていた足元からは、不気味な腕や骨を含んだ瞳は消え去っていた。しかし代わりに、先程の参謀将校とは違う軍服を着た男性が少女の身体から抜け出るように現れたのだ。
大人しそうな茶髪の彼は、胸甲騎兵の白い軍服と銀色の胸甲を纏っていた。しかしそれは同じく胸甲騎兵の装いをするフリードリヒ三世のそれよりも威厳を大幅に欠いている。しかし軍人というよりも文人らしい優雅な立ち姿は、気品を醸し出すのに十分だ。
ベルンハルトはその彼に心当たりがあった。だが彼は同時に、その心当たりのある人物がここにいるのが疑わしかった。むしろいてはならないとすら思えたのだ。
白い軍服の男性は素早く少女のほうを振り向き、自分の抜け出た勢いで座っていた椅子から投げ出された少女の細い腕を、タイルの床に叩きつけられるすんでのところで掴む。彼は少女を気遣うように彼女の身体を抱え直すと、再び椅子に座らせた。
少女は事態を把握出来ていない様子で目をぱちくりさせる。一方の白い軍服の男性は少女の無事を確かめると、彼女に一瞬微笑みかけてからベルンハルトに緊張感を持った表情で向き直った。
ベルンハルトも白い軍服の彼と睨み合う。ベルンハルトは汗の滲む掌をぎゅっと握り締めて、低く呟いた。
「オイレンブルク……」
「オイレンブルク?!」
ベルンハルトが呼んだ失踪中であるはずの人物のその名前に、ジギは反射的に反応した。魔法使いは未だ自由の利かない目で周囲を見渡そうする素振りをする。
「ビューロー」
オイレンブルクはそれを無視し、ベルンハルトに向かって話し掛けた。
「今、自分が何をやろうとしたか、分かっているのか……?」
言論よりも歌唱が相応しいその声に、今は怒りが込められているのを感じたベルンハルトは、奥歯を噛み締めつつも何も答えない。彼の瞳は怒った様子の友人と、幾分かは落ち着いた自分の魔法使いに代るがわる視線を向けている。もう何滴の汗が頬を滑り落ちたか知れない。
その時、彼はジギの足元でまた影が蠢くのを見た。魔法使いは自分を身を小さくして深呼吸をし、自分を落ち着けようとしているように見える。しかし、状況を理解しきれずに混乱している少女を、懲りずに捕えようとしているようだ。
ベルンハルトはそれを見て、小さく首肯した。オイレンブルクが苦虫を噛み潰したような表情をしたのを見ながら、彼はまた唱和する。
「――ビューローの血筋、プロイセンの時代、ドイツの――」
だがそれは遅かった。ベルンハルトが言い終えるよりも早く、オイレンブルクは間に立つ魔法使いを突き飛ばす。オイレンブルクの接近に気付けなかった魔法使いが、思い切り顔面から床に叩き付けられた。は、とベルンハルトは目を見開く。揺らめく幻想的な光を纏いながら、オイレンブルクはもうベルンハルトの半歩手前まで迫っている。
ベルンハルトもオイレンブルクから逃れようと、自分を構成するエフェメラに意識を集中しようとした。だが遅い。その時にはオイレンブルクがベルンハルトの肩を掴んでいる。
オイレンブルクはベルンハルトを引き寄せると、彼の耳元に囁くように歌いかけた。
「――一輪の野薔薇の歌を歌う。城の小さな愛らしいいばらの枝を一つ持って――」
歌を聴いたベルンハルトがぞっとしたのも束の間、オイレンブルクは彼の肩から手を離した。ベルンハルトはバランスを崩して後ろに倒れる。だが誰も、床に身体を打ち付けるベルンハルトを見なかった。彼の姿は彼が倒れていく途中で掻き消えたのだ。
それを目撃した少女は途端に悲鳴を上げた。今度こそ自分の座っていた椅子ごと投げ出され、積まれたジギの衣装の山に突っ込む。
オイレンブルクは泣き喚く少女のほうを振り返ると、倒れたままのジギを放置して彼女に駆け寄った。跪き、衣装の山を掻き分けて倒れた少女を助け起こす。
「大丈夫ですか?」
彼は少女にさっきの殺伐とした様子とは打って変わってにこやかに訊ねる。けれど彼女はオイレンブルクの笑顔を見て落ち着きを取り戻すことは出来なかった。少女はオイレンブルクの顔を見て更に顔を引きつらせた。彼から逃げ出すように衣装の山から這い出す。
「来ないで!」
彼女の叫びに、今度は広間の入口の扉が勢い良く叩かれた。だんだんだんだん! という音に混じって、「お嬢さん?! お嬢さん?!」という必死に少女を呼ぶ声が聞こえる。フリードリヒだ。
「お嬢さん! どうした?!」
フリードリヒは呼びかけながらも扉を開けようとしているようだった。しかし扉は揺すられるだけで開く様子がない。鍵が掛けられているのだ。
一方の少女もまた、フリードリヒの声を聞いてもまだ喚き続けていた。彼女は頭を抱えて縮こまっている。代わりにフリードリヒの問いに答えたのはオイレンブルクだ。
「ジギが魔法で彼女を捕えようとしたのです!」
そう言う彼の背後で、ジギが不気味に低く笑う声がした。オイレンブルクは振り向く。ジギがのっそりと身体を起こそうとしているのが見えた。
「酷いぞ……オイレンブルク……」
ジギの笑いながら怒っているような声に、オイレンブルクはジギのほうを振り向く。
ジギがまた魔法を使おうとしている様子は見えなかったが、彼にはまだ魔法使いの挙動が危険に思えたのだ。
「ジギ!」
オイレンブルクは低い姿勢のまま、滑るようにジギに飛び掛かった。彼は魔法使いの両手を取り押さえながら伸し掛かる。ジギはまたうつ伏せで床に押し付けられた。だが魔法使いの低い笑いは止まらない。ジギの顔の下でまた再び影が動いた。
その時だ。
「――【開/け】!」
フンボルトの声だった。その命令というよりも呪詛めいた言葉に、広間の扉の鍵は勝手に解錠され、扉もばん! という音と共に全開になる。フリードリヒとフンボルトがすぐに部屋へ飛び込んで来た。
「陛下!」
と、ジギを取り押さえたままのオイレンブルクが叫ぶ。オイレンブルクの前に現れたフリードリヒは、事態を察してか背広姿ではなく、あの胸甲騎兵の白い軍服姿に変わっていた。
「お嬢さんは無事か?!」
「そこに――」
フリードリヒ三世はオイレンブルクの指すほうを見た。少女は彼らからすぐ近く、壁際の古めかしい回転ダイヤル式電話機の設置された台の影で丸まるようにして縮こまっている。
フリードリヒ三世は覗き込むようにして少女の姿を確認すると、跪いて手を差し伸べた。
「お嬢さん、大丈夫か?」
訊かれて、少女はばっ、と彼のほうを見た。少女は涙で目元を赤くしている。彼女はフリードリヒの姿を確認すると、堰を切ったように声を上げて泣き出した。
少女の丸まっていたすぐ脇にあった電話機が鳴り出したのは、顰め面で頭を抑えているフンボルトがやって来たのと同時だった。
頭痛でもするのだろうか、先程とは打って変わって顔色の悪そうなフンボルトはこめかみ辺りを抑えている。痛みに眉間に皺を寄せながら、彼は泣きじゃくる少女と慰めるように彼女の背中を擦るフリードリヒと、不気味な笑い声をあげ続ける魔法使いとそれを取り押さえている失踪していたはずのオイレンブルクとを、不審そうに見比べた。受話器を取る。
「もしもし、カイザー・ヴィルヘルム記念教会だ」
電話の相手は感情の波を感じさせない声で名乗った。
――こんばんは、テーゲルの賢者様。ホルシュタインです。
「何だ、枢機卿か。まだリーベンベルクにいるのか?」
目の前の特異な状況で電話どころではないのだろう、フンボルトの声色は無関心そうに聞こえる。対するホルシュタインもそれに負けない様子で答える。
――はい。一日中、ヘルベルトと共にオイレンブルクの屋敷内を捜索しましたが、今回の手掛かりは一切出ませんでした。
「だろうな」
フンボルトはジギを取り押さえている当事者のオイレンブルクに、「そのくらいにして降りてやれ」のジェスチャーを出しながら返答する。オイレンブルクは渋々、ジギの手を離した。まだ笑っている魔法使いを警戒しながら身を起こす。
電話の向こうのホルシュタインが続けて言う。
――ですがオイレンブルクの代わりに、居間のテーブルの下から何故かビューローが出て来ました。
フンボルトはオイレンブルクに視線を向けた。オイレンブルクは自分の白い軍服に付いた埃を払っている。
永く彼と同じ魔法使いの元で働いているフンボルトはすぐに分かった――オイレンブルクがビューローに歌を聴かせたのだ、自分の庭へ飛ばしたのだと。
――我らは明日にはベルリンに戻りますので、では。
そう言うと、ホルシュタインはすぐに電話を切った。
受話器が後を引くような電子音を鳴らし続けるのが聞こえたが、フンボルトはすぐにそれを戻せなかった。オイレンブルクに続いて身を起こしたジギが、笑いながら妙なことを言い出したのだ。
「すごい……すごいぞ」
チシャ猫のようににんまりと不気味に笑いながら、ジギが嗚咽を漏らす少女を指す。
「その娘、〝シャムロック〟だ!」
そう言った魔法使いの高笑いが、衣装のぶちまけられた大広間に響き渡った。