黒山羊塔

豹狩り(前編)

 間もなく日付も変わるであろう、ドイツ連邦共和国はベルリンの戦勝記念塔(ジーゲスゾイレ)。大気に散るエフェメラの小さな結晶が月の光に照らされて、まるで粉雪のように見えた。

 一昔どころか二昔は前のデザインの背広を着込み、顎髭を蓄えたフリードリヒという名前の男性は、美しく舞うそれを見ながら、唐突にぽつりと呟く。

「エフェメラとは何とも非科学的な物だな」

「え?」

フリードリヒの呟きに妙な声を上げたのは、彼の隣に立つ、フリードリヒとは親子程に年齢の離れていそうな青年だ。

 何とも偏屈そうな青年だった。

 姿勢は良い。しかし体格は骨に申し訳程度の肉が付いたように見え、それがこの青年の健康的印象、もしかしたら性格的印象にも悪影響を与えているようだ。しかも結ばれた口元はへの字に曲がり、目付きも悪い。目元に寝不足を思わせる隈があるせいで、三白眼と暗褐色の瞳が強調されているように思われる。痩身に纏うのは古めかしいデザインのスーツと長いコート、しかもYシャツの他は黒で統一、極めつけに少し長めの黒髪を同じく黒いリボンで結ってある、という、この環境下では月光や街灯に照らされない限りは闇夜に完全に紛れる出で立ちだ。

 そんな偏屈そうな青年に、フリードリヒは改めて言った。

「エフェメラとは非科学的な物だと思ったのだよ」

「今更か」

青年の返答には目上の人間への気遣いと関心の無さが伺える。

「もう何年や何十年も見てるだろ、このくらい」

「まあ言うな、ルド。幾つになっても新鮮に思える物は一つや二つくらいあるものだ」

「左様か」

「ルド」とフリードリヒに呼ばれた青年はどうでも良さそうにそう返した。

ルドは小鼻を掻くと、

「しかし、『非科学的』という表現も可笑しな言い方だ」

と言った。先程とは逆にフリードリヒがルドのほうを見て「ん?」と呟く。ルドは続けて言う。

「このエフェメラは今では魔法の分類だが、元はと言えば錬金術の部類だったらしい。錬金術も魔法や魔術の一種だが、現代でその技術は科学として認められている。そんな存在を『非科学的』とするのもどうかと」

「成る程」

フリードリヒは口元と顎に蓄えた髭を撫でながら、ルドの言葉を関心を持って聞いているようだ。先程のルドの態度とは全くの逆である。フリードリヒはルドに訊ねた。

「ならば君達魔法使いの使う魔法は科学だという認識になるのか? エフェメラを使ってのものなのだし」

「――ちょっと違うな」

自分の話題に関心が集まっているのが嬉しいのか、ルドは今度こそフリードリヒの問いを無下にはしなかった。ルドは答える。

「確かにエフェメラや魔法や魔術は、科学的に根拠を並べ立てて『これは科学です』と主張すれば科学だ。一応エフェメラは観察や実験で変化を検証し実証出来るしな。でも実証出来るのは俺のような魔法使いや魔術師だとか、霊能力を以ってこのエリュシオンに干渉出来る人間だけだ。それだとそんじょそこらの宗教やオカルトと変わらない。だから俺はエフェメラや魔法や魔術は結局のところ『疑似科学』だと思ってる」

「なかなか哲学的な理論展開だな」

「そりゃどうも」

 その時、二人の耳元に着いていたイヤホンが、鼓膜を蹴り飛ばすようなノイズを発した。

 二人のイヤホンにはそれぞれコードの途中にマイクが付いており、先端はベルトやコートのポケットに収まった無線機に繋がっている。

 イヤホンからは至極通りのいい男の声が聞こえた。


 ――お二人共、大変興味深い話の途中で申し訳無いのですが、そろそろ予定の時間です。


 「現在、目標に異常は無いか?」

フリードリヒが通信相手に話しかける。今までのルドに対しての口調と打って変わって、威厳を示すような様子だ。通信相手は答える。


 ――現在、目標は戦勝記念塔より十一時の方向、グローセル通り周辺を駆けまわっています。


 「了解。作戦開始と同時にグローセル通りへ直行、戦線を組む」


 ――了解しました。


「お前は警戒を怠るな」

フリードリヒの次に発言したのはルドだ。ルド自身も、イヤホンマイクに話しかけながら視線を動かす。

「この〝狩り〟は我々だけで済ませる。間違っても衛戍司令官達の介入を許すなよ、ただでさえゲルラッハが失踪して人員が欠けているのに、後で〝剛毅〟と悶着起こすのは避けたい」

ルドはそう通信相手に念を押した。通信相手は先程と変わらず、一言「了解」と言い、


 ――それでは時間です。


 とカウントを始める。ルドとフリードリヒは揃って腕時計に注目した。


 ――時計合わせ、三、二、一――


時計の秒針が文字盤の「十二」を指す。

「零。作戦開始」

 そのルドの言葉とほぼ同時に、フリードリヒがカツ、と足を踏み出した。

 戦勝記念塔の階段をグローセル通り方向に向かって一歩一歩ゆっくりと降りながら、フリードリヒは祈るように手を組んで歌う。

「――プロイセンの星よ、遥かに燦々と輝け。

 ――プロイセンの鷲よ、雲の彼方に羽搏け」

 フリードリヒが一歩を踏み出す毎に、足元の石段が蛍石のように光を放つ。光は結晶が砕けて散るように、空を舞って宙へ消えていく。

 フリードリヒの歌は続く。

 「――プロイセンの旗よ、若き月桂樹を冠せよ。

 ――プロイセンの剣よ、勝利への途を切り開け」

 ルドはフリードリヒの歩く後ろ姿を、その場でじっと、教会で聖歌を聴くが如く見守っている。夜風でルドの鴉のように黒いコートが揺れた。

 フリードリヒの足元の光は大きさを増していく。

 「――そしてプロイセンの王座高く、

 ――フリードリヒの王冠の輝くもと、

 ――雄壮にして優渥なる王である余は、彼らを治め統べる」

 その時、ルドはフリードリヒが足を踏み鳴らす音と光に混じって、騎馬の蹄の音と胸甲の煌きを感じた。ただ、ルドはそれに驚く素振りは見せず、少し期待の滲む表情でフリードリヒの背中を見守っている。

 フリードリヒはカツ、と踵を踏み鳴らして、最後に大きな光を足元から発したと思うと、そこで足を止めた。

 自分の上着の胸元を掴み、後ろに控える誰かに呼びかけるように唱える。

 「――プロイセン人の胸は!」

 フリードリヒはその詠唱と同時に、掴んだ自分の上着を勢い良く脱ぎ捨てた。

 宙を舞う上着。同時に、フリードリヒの周囲一帯の地面から光が噴出した!

 その光にルドは目の前を腕で覆う。しかしそれと同時に、フリードリヒの詠唱を継ぐように歌が光の中で歌われるのを、彼は聴き逃さなかった。

「並べて王の楯なれ!」

ルドは光が収まるのを見ると、目の前を遮っていた腕を下ろす。

 ルドの前、フリードリヒの周囲には驚くべき光景が広がっていた。

「――いつ見ても圧巻だな」

ルドは満足気に呟く。

「フリードリヒ三世の第二軍は」

 フリードリヒを囲むようにして、十九世紀の装備と制服を身につけた、周辺の道路を埋め尽くして道すら森のように見せる程の大軍勢が集結している。そしてそれに囲まれているフリードリヒも、先程の背広姿とは打って変わり、その軍勢に見劣りせぬガルデ・ドゥ・コーアの金色の胸甲を身に着けて、白い騎兵の制服を身に纏っている。

 軍勢を構成する一人、フリードリヒの近くに立つ軍人が号令を掛ける。

「我らが軍団の主、我らが王、我らが皇帝であるフリードリヒ三世陛下に!」

ザッ、と軍勢が姿勢を正す。

「敬礼!」

短銃を持つ軍の兵士全員が、一斉に手に持ったそれを目の前に構えた。その号令に応えるように、フリードリヒ――八代目のプロイセン王にして二代目のドイツ皇帝、フリードリヒ三世が、腰に提げたサーベルを抜き放ち、天へと掲げてエルベ軍へ呼びかける。

「ここに集いし者共よ! 余について参れ!!」


   *


 その家には、磔刑の十字架など存在しなかった。

 存在しないのは十字架だけではない。主への祈りは勿論、文字や時間すらありはしなかった。彼らにとって致命的な要素であるはずの隣人と話すための言葉すら持たなかった。

 彼らは毎日好きに暮らしていた。太陽すら好き勝手に昇って落ちるのだから当然だ。日がな一日、起きて、食って、戦って、寝て、そうして暮らす。それが彼らの暮らしだ。隣人がどう思うかはともかく、彼らはそれで良かった。

 しかし隣人は良い顔をしなかった。当然だ。貴重な貴重な、主の下さった命の時間をひたすらにこの者共は浪費している。男が複数の女を独り占めするのは傲慢で、女が天から授かった子供を捨てるのは卑劣だ。許されることではない。

 隣人達は彼らの土地に乗り込んだ。隣人達は自らの主の教えに服従することを要求し、抗う者には死を突き付ける。

 しかし彼らは隣人達の行いに呆然とする他無かった。隣人達が彼らの言葉を解しないのと同じく、彼らは隣人達が何を喋っているのはさっぱり分からなかったのだ。突如として家に押し入って訳の分からない言葉を口走る隣人達に、彼らは為す術はない。隣人は煌めく教えの刃を抜き放つと、即座に彼らを斬り捨てた。

 それは十年もの間続いたと聞いている。正直、十年とは一体どのくらいの時間なのか、何回太陽が昇り降りを繰り返せば十年なのか分からない。しかし、その訳の分からない間に沢山の同胞が斬殺され、焼かれ、犯されてしまったというのは分かる。残された仲間の怒りは限界だった。

 そして、わたしも。


   *


 グローセル通りはベルリンの西側、ティーアガルデンの中を通過する通りだ。周囲はほぼ森や湖という、欧州の一大国家の首都の中にあって貴重な緑地である。

 フリードリヒ三世率いる第二軍は、満月とは言え木々に光を遮られて真っ暗な森の中を、目標を囲うようにして進軍していた。

 目標はずばり、豹。

「今更だけど」

と言ったのはルドだった。

「何でベルリンのど真ん中で豹を狩ることになったんだろうな、俺ら」

 ルドは戦勝記念塔から動かず、フリードリヒ三世とエルベ軍の動きを無線でやり取りしながら追って、彼ら豹を狩って無事に戻って来るのを待っていた。

 ルドは無線に話し掛けながら続ける。

「だいたい、豹ってアフリカに生息している動物だろ? 何故よりによってヨーロッパのドイツで発生する?」


 ――ヨーロッパだから、かも知れないな。


 ルドに答えたのは、先程からずっと無線の向こう側で一行の周囲を警戒しているらしい男だ。

 男は無線機特有のノイズを挟みながら答える。


 ――豹は、キリスト教では人々をイエスに導く伝導者だとされていて、古代ローマでも豹がモチーフのモザイクなんかが出ている。お前も知っているだろう、ルド?


「勿論知っているが……お前も意外と詳しいんだな?」

ルドが感心した様子で言う。目をぱちくりさせる様子からして、余程意外だったのかも知れない。


 ――これでも信心深いほうだと自覚しております。


「へえ」

 ルドの呟きに間髪入れず、またノイズが入った。


 ――貴様が『信心深い』など、信じられないが。


 フリードリヒ三世だ。先程の威厳を示すような口調とも違い、冷たさすら感じる。しかし、そんな皇帝陛下の様子にも関わらず、男はそれをさらりと流すように、


 ――はい。勿論、陛下の信仰心の前にはわたくしめのそれなど、吹けば飛ぶようなものです。


 と言ってのけた。

 「ところで」と、ルドはフリードリヒ三世に訊ねる。

「目標は見つけられたか、フリッツ?」


 ――ああ、見つけた。


 フリードリヒ三世は答えた。


 ――我が軍が完全に取り囲んでいる。目標の黒豹は木の上で休憩中と言ったところだ。


「そうか」

ルドは頷くと、無線の向こうのフリードリヒ三世に――本当ならば臣下の身であるはずのルドが――あっさりと、こう命ずる。

「始末しろ」

 その言葉の直後だ。ルドの眺めているティーアガルデンの森の中から、銃を発砲する音がした。一発の銃声の後、一斉射撃の火薬がドドド、と爆発し、短銃の火を吹く音が低く轟く。

 現場で自らが召喚したエルベ軍を指揮しているフリードリヒ三世は、木の上で休んでいるところだった黒豹を、驚かせて起こし、木から飛び降りたところを歩兵隊のライフルの射撃で仕留めるつもりだった。

 彼の思惑通り、黒豹は最初の銃声で飛び起きた。歩兵隊を怖気づかせる程の眼光を発して地に飛び降りる黒豹。ここまではフリードリヒ三世の思い描いた通りだ。しかし、次の一瞬、フリードリヒ三世の思惑に反して黒豹は飛び降りたその足で跳躍するように地を突っ切って疾走した。斉射で放たれた銃弾は黒豹のいない空の空間を切り裂いて消える。

 フリードリヒ三世は面白くなさそうに顔を歪ませた。


 ――すまない、ルド。取り逃した。


 「まじかよ追え!」

ルドは間髪入れず追撃を皇帝に命令する。無線の向こうでフリードリヒ三世が悔しそうに「ぐ……!」と唸るのを聞いた瞬間、スピーカーがブッ、と鳴った。通信が切れたのだ。

 ルドは溜息を着く。階段に座り、頭を抱える。


 ――疲れているのか?


と、通信相手は訊ねた。ルドは頭を抱えたまま、イヤホンマイクに向かって低く呟く。

「ここで仕留められないと、また馬鹿にされるんだと思うと、酷く苛つく」

ルドの怒りと怨嗟の秘められた言葉に、相手は失笑する。誤魔化すように「はは」と言って、


 ――それは陛下も、俺にとっても一緒だが……?


 と言う。ルドはむっとして、即座に反撃した。

「俺とお前らとじゃ、馬鹿にされる規模が違うんだよ」


 ――それには違いない。


 相手の言葉にルドは子供のように頬を膨らませた。立膝に顎を載せ、ふん、と鼻を鳴らす。

 その時だ。ルドは森の中で何かがチラチラと怪しげに煌めくのを見つけた。

「あ……?」

ルドはそれを凝視し、瞬きも忘れて観察する。呼吸すら忘れて、その煌きに心を注ぐ。

 その煌きは、宝石が光を反射して輝くのに似ていた。しかしその色は、静かに燃える炎にも見える。煌きは一つではなく、森の中を蛍のように無数に駆けずり回っている。

 ルドにはその煌き、色、そして様子に覚えがあった。感覚が警告音を発し、身体を巡る神経系に雷の如く命令を下す。

「おい」

とルドはイヤホンマイクに話しかけた。「え?」という男の声に、ルドは静かな、しかし強い口調で続ける。

「おい、どういうことだ? 〝月下の狩猟行〟が森の中を駆けずり回っているぞ?!」


 ――何だと?!


 通信相手の男も驚きを隠せないようだった。ルドはイヤホンの向こう側で、ガシャ、という硬いものが小さくぶつかり合う音を聞いた。立ち上がって、戦勝記念塔の階段を駆け下りる。

「フリッツはまだ目標を仕留めないのか?」


 ――未だだ。まだ銃声が断続的に聞こえる。


「どうする。このままだとフリッツは仕留める前に〝月下の狩猟行〟に囲まれるぞ?!」

焦るルドの様子に対して、通信相手は実に冷静に答えた。


 ――この様子なら、もうとっくに包囲されているだろう。


男の言葉に、ルドは「ぐ……」と唸る。

「糞が……!」

ルドは怒りに奥歯を噛み締めると、戦勝記念塔を離れ、森へ向かって走り出した。ルドの耳元のイヤホンがガッと耳障りな音を立てる。


 ――ルド!


 男の声だ。森に入ろうとするルドの姿を見た男が、咄嗟にルドに呼びかけたのだ。

 ルドはイヤホンが苛立ちを煽るようなノイズを鳴らしたことにむかっ腹が立っていた。うざったそうにイヤホンマイクに向かって怒鳴る。

「何だ?!」

イヤホンの向こうでスピーカーがキーンと鳴った。通信相手の男もまた「ああ……!」と苛々を溜めているようだ。


 ――ええい、イヤホンに向かって怒鳴るな!


「他人のことが言えるのか、鉄血宰相?!」


ルドの反駁に、相手の男――「鉄血宰相」と呼ばれた――も思い切り反撃する。


 ――黙れ鴉め! ああ糞、怒鳴り合いをしている場合ではなかろうに!!


 ご尤もだった。鉄血宰相の罵倒を混ぜつつも冷静な意見に、「鴉」と呼ばれたルドは奥歯をぎぎ、と鳴らす。鉄血宰相が構わず続ける。


 ――良いか、ルド……今日は満月で森も明るい。影がハッキリしているんだぞ。今、ベルリン=エリュシオンには影を支配できる人間が二人いる。


「だから何だ?」

鉄血宰相の声は怒鳴り声に代わって、落ち着いた、諭すような口調になっていた。しかし、ルドは相変わらず腹の底が煮えているような様子で、少し声も震えているように聞こえる。

「それが〝月下の狩猟行〟と何の関係がある?」


 ――分からないか? ここ一帯は俺が睨みを利かせているし、陛下がエルベ軍を呼び出した後にすぐに狩り場を軍の殆どの人員を使って包囲させたはずだ。〝狩り〟の直前には俺達と目標以外の者は徹底的に排除しておいた。しかし今こうして〝月下の狩猟行〟が駆けずり回っている。影に紛れて侵入する他方法は無いはずだ。どちらかが手引をしたに違いないだろう?!


 鉄血宰相の言葉に、ルドは眉間に皺を寄せて唸る。

「つまり、手引をどっちがしたか分からないうちに森に入るのは危険だと?」


 ――そうだ。それに一人は鼻が利く。下手に森に入れば集団で嬲られるぞ。


「だからどうした?」

ルドは鉄血宰相の忠告に、そんな言葉を返した。鉄血宰相がイヤホンの向こうで「なっ……?」と言うのがルドに聞こえた。鉄血宰相が信じられない、といった様子で、


 ――お前は阿呆か?


と呟く。ルドは溜息を着いた。

「いちいち五月蠅いぞ、鉄血宰相。集団に対する対抗策ぐらい、俺も考えてあるさ」

ルドは自信に満ち満ちた様子でほくそ笑みながら、こう言った。

「俺はドイツ魔法界の頭取、ベルリンの〝運命の輪〟だぞ? 魔法使いが自分の庭で負けることは無いことぐらい、お前も知っているはずだ」

鉄血宰相は何も言わない。ルドはそんな鉄血宰相を無視して、歩を森に進めつつ命じる。

「俺はフリッツの邪魔をする奴を追い払いに行く。お前は〝狩猟行〟の主を射殺しろ」

鉄血宰相は遂に折れた。溜息混じりに「了解」と答える。


 ――もう何も言うまい。だが危なくなったらいつでも助けを呼べ。分かったな?


「――恩に着る」

鉄血宰相の目には、ルドが手を振る後姿が見えた。手を振り終えると、ルドはティーアガルデンの森の中へ入っていく。

 鉄血宰相はその姿を見ながら鼻の頭を通る薄くなった切り傷の痕を掻く。

「さて――」

未だ若かりし頃、彼が鉄血宰相でもなく政治家でもない時分の姿を取る彼は、戦勝記念塔の頂上で一人静かに狙撃銃を構えた。


   *


 それが目の前、鼻の先を横切った時、フリードリヒ三世は俄に信じられないものを見た気がした。

 それは一頭現れてこちらを低い声と射抜くような眼光で威嚇したかと思えば、途端に木々の間からずるりと湧き出てきた。ちょうど再び補足したばかりの目標の黒豹と、フリードリヒ三世達の歩兵隊を取り囲むように、それらは陣取っている。歩兵の一人が狼狽えた様子で小さく悲鳴を上げた。フリードリヒ自身も落ち着くので精一杯だ。

「何ということだ」

フリードリヒ三世が呟いた。

「――燃える狼だと……?!」

彼の言う通り、今黒豹を包囲しているのはただの狼ではなかった。全ての狼が、美しい毛並みの代わりに蒼い炎で全身を形作っている。それを見るのはこれが初めてだが、彼はこれが何かを伝え聞いていた。フリードリヒは息を呑む。

「これが、〝月下の狩猟行〟なのか……?!」

勿論答える者はいない。

 蒼い炎の狼達は、じりじりとフリードリヒ三世ら歩兵隊と黒豹への距離を詰めていた。フリードリヒ達は動かない。黒豹と言えば、狼達に恐れをなしたのか、竦み上がっている様子でいる。

 これは好機ではないだろうか? そう考えたのか、歩兵隊の一人が後装式のライフルに弾丸を込め始めた。

 歩兵はライフルのボルトから生えたハンドルを左へ起こし、手前へ引き薬室を開く。薬室に紙の筒のような薬莢を入れてボルトを元へ戻せば、ライフルの中にあるバネが縮こまって発射準備が整うはずだ。次弾の発射準備には――当然、現代二十一世紀のものには負けるが――時間をそれほど要さない。

 歩兵は自分の腰のベルトに付けられた薬莢入れから、紙の包みを取り出そうとした。その時だ。

「おい」

隣に立つ歩兵が制止に入った。腕を伸ばし、自分とは反対側で着々と発射準備を続ける仲間の右腕を抑えようと試みる。

「おいやめろ」

しかしそれは既に遅かった。むしろ制止が入らなければ良かったかも知れない。彼が仲間を制止しようとした拍子に、彼の手が目的通りに仲間の右腕に触れ、仲間に銃弾を誤射させてしまったのだ!

 パン! とそれは幸いにも地に向かって発射され、仲間にも狼にも、目標である黒豹にも当たらずに地にめり込む。だが発射音はどうしようもない。その甲高い銃声を合図に、狼が狼狽する黒豹に迷わず飛び掛かった。

「っは?!」

我に返るフリードリヒ。彼はその時、不覚にも狼なんぞに恐れを成していたことに対して自分に腹が立った。

 目の前にいる黒豹が、一瞬にして、呆然としたまま狼の炎を纏った脚に殴られ、蹴られてボコボコにされていく。

 フリードリヒは遅きに失した命令を掛ける。

「歩兵部隊! 豹は後回しだ。狼共を駆逐せよ!」

歩兵隊は皇帝陛下の命令に従い、黒豹を取り囲む狼の排除に掛かった。しかし、フリードリヒ三世達の歩兵隊にも狼の群れが迫っている。歩兵達は遅々として進まない。

 フリードリヒは奥歯を噛みしめる。

 その時、彼の耳元のイヤホンが耳障りな音を叫んだ。


 ――フリッツ!


 ルドだった。彼の呼びかけに、フリードリヒ三世は心のどこかで安心したような気がした。フリードリヒ三世はイヤホンマイクに向かって応答する。

「ルドか?! どういうことだ? 奴は怠慢でもしたのか? 〝月下の狩猟行〟が――」


 ――フリッツ、フリードリヒ! その話は後だ。まずは俺の話を聞いてくれ。


 ルドはフリードリヒ三世の急な質問攻めに少し驚いたようだった。フリードリヒのほうも、ルドに自分の発言を止められ、やっと自分が興奮していたことに気づく。自分の荒い息や脈拍の早さに目を見開いた。

 ルドはフリードリヒ三世が発言を止めたのを確認して続ける。


 ――俺も森に入って……今、レーヴェン橋のところにいる。


 ルドもまた、今まで急いで走って来たのか、酷く荒い呼吸をしていた。暫く喘息のような咳込みをし、落ち着くのを待つと、彼は言った。

 ――今から、俺が〝月下の狩猟行〟を追い払う。ちょっと水を多めに使うから、濡れるかも知れないってことだけ承知していてくれ。

「ああ、了解した……助かる」

フリードリヒはルドの言葉に了承の返事をした。

 しかし、フリードリヒの脳裏に小さく疑問符が残った。リーヴェン橋のある辺りと、このグローセル通りは少し距離がある。どのようにしてこの炎の狼の群れを追い払うというのだろう。

 しかし、その疑問点はすぐに消し飛んだ。フリードリヒ三世の耳元から、小さくルドの声が聞こえ始めたのだ。

 そしてすぐに彼は、自分がルドについて失念していた点を思い出した。

 ルドは魔法使い――〝運命の輪〟を司る魔法使いである。


 ――我は〝運命の輪〟。

 ――二十一と一の十番目の席に座す者。

 ――天を廻し、運命を賭し、命を掌握する〝運命の輪〟。


 ルドの呪文に、フリードリヒは背筋に触れられた時の、ゾッとするような緊張感を覚えた。周囲の空気が、水の凝結するような軋みを上げる。フリードリヒ三世の従える歩兵隊は訳の分からない空気の変化に気付いたのか、周囲をキョロキョロと見回している。狼達もさっきまでの凶暴な動きをやめて、再び警戒するような、威嚇するような行動を再開した。

 ルドの呪文は続く。


 ――我は〝運命の輪〟。

 ――四大元素を司る者。世界の構成要素を統べる者。

 ――この地の水を治める者。


 周囲の空気が、一層耳に障るような軋みと、ぐつぐつと煮え立つような気体を吐く音を上げる。

 フリードリヒ三世には、その時、世界がほんの一瞬だけ静止したように見えた。


 ――この地の水よ、この地の統治者として命ずる。

 ――この土地を荒らす狼を、刈り取る炎を、招かれざる紛い物を駆逐せよ!


 その言葉が叫ばれた瞬間、森を抜ける風の音は勿論、狼の炎のなびく音、歩兵の装備がぶつかり合って鳴る音――そう、音の全てが宵闇に吸われたかのように止んだ。数秒――一呼吸の間に静寂が訪れる。

 しかしその直後だった。フリードリヒと歩兵隊の背後から、大量の水が東洋の龍のような形を成して、轟音と共に一気に襲ってきた!

 水の龍は、二股に分かれて地をのた打ち回り、跳ねながら、歩兵隊のすぐ脇を掠めて飛来した。歩兵隊の目の前にいた炎の狼の群れに向かって、大口を開けて突撃する。哀れな狼達は、まるで駄犬のような情けない吠え声を上げながら逃げようとしたが、当然無駄に終わった。

 水龍は容赦無く、炎の狼達を飲み込み、締め上げて消火すると、地面を蛇のようにずるりと這って歩兵隊のほうを向いた。フリードリヒは蛇に睨まれたような気がして、身体をびくりと震わせる。

 だが、それも無用になった。狼達を駆逐した水龍は元の住処に戻るように、歩兵隊を無視して地を蛇行しながら這いずって行った。

 その代わりにルドがやって来た。歩兵隊が身構え、敬礼する。

「鉄鴉殿、お勤めご苦労様であります」

歩兵隊の長らしい兵が、ルドに向かって挨拶を述べる。対して、ルドはそんなことを予期していなかったらしい。一瞬目を丸くし、「へ……?!」と声を漏らす。フリードリヒのほうを向くと、苦笑していた。ルドはぎこちない敬礼の姿勢を取って答える。

「歩兵隊の方々も、任務ご苦労様」

そう言って歩兵隊がやっと敬礼を止めて直立姿勢に戻ったのを見ると、ルドはフリードリヒに話しかけた。

「怪我は無いか?」

「大丈夫だ。心配ありがとう、ルド」

フリードリヒ三世のにこやかな返答に、ルドは一瞬照れたように口元を歪ませ、しかし何も言わずに歩兵隊の前方へと目を向けた。――黒豹だ。

黒豹は水龍に蹂躙されてはいないものの、先程まで炎の狼の群れに嬲られていたのが堪えたらしい。今まで懸命に耐えて立っていたが、急にばたりと横倒しになった。ルドが黒豹に近づいて行く。

「〝月下の狩猟行〟はどうなった?」

フリードリヒが訊ねる。ルドは振り向きもせずに答えた。

「今ので俺が追い払った。〝狩猟行〟の主も鉄血宰相が発見次第すぐに仕留める筈だ」

「黒豹が目的だったのだろうか?」

「さあ?」

ルドは黒豹の傍へ辿り着くと、しゃがみ込んだ。観察するように眺める。

「仮にこれが目的だったとしても、〝狩猟行〟の主がこれをどうこう出来るとは思えない。だからと言って〝剛毅〟がこれを欲しがる理由もこれと言って思い付かないし」

「エリュシオンのものを毛皮に出来るわけもないしな」

フリードリヒの冗談のような言葉に、ルドは笑った。

「違いない! ――あ」

 その瞬間に、黒豹の身体が灰のように空へ千切れて飛んで行くのをルドは見た。今まで豹の形を成していたエフェメラが崩壊しようとしているのだ。立ち上がり、半歩下がってそれを見守る。

「――〝狩り〟は終わりか?」

フリードリヒ三世が訊ねた。

「一応」

ルドが黒豹だったものが崩壊していくのを見つめながら答える。

 その時、彼らの前方――森の更に奥のほうで、切り裂かれる空気の悲鳴が聞こえた。フリードリヒは咄嗟にその音の方向を見たが、それきりだった。再びルドのほうを見る。

「あとは〝狩猟行〟の主と、彼を森に連れ込みやがった奴がどうなったかだが、それは宰相の報告を――」

待つしかない、とルドは言いかけたのだろうが、それは喉の奥に引っ込んだ。いや、ルドは目の前で起きた予想外の出来事に、言葉を引っ込めざるを得なくなったのだ。

 黒豹の皮の下から、一糸纏わぬ姿の見知らぬ少女が出てきたのだから、当然だろう。

 「フリッツ」

と、ルドは裸の少女を見下ろしたまま、フリードリヒを呼んだ。呆然としているように見える割に、声が微かに震えている。

「フリッツ、女の子が――」

「狼狽えなくてもいい」

フリードリヒは平静を保ちつつも半ば困っているように見えるルドを見て、呆れた様子で馬を降りた。歩兵の一人に馬を預け、ルドの隣へ歩み寄る。フリードリヒの動きに合わせ、歩兵隊も少女を包囲した。フリードリヒは歩兵の一人から、彼が持ってきた明かりの灯るランプを受け取り、跪いて少女の顔を照らす。

 少女は、少女というよりは大人びて見えた。ルドの年齢に近いかもしれない。横向きに転がり、寝息を立てる彼女の色白な顔に子供らしさはあまり感じられなかった。しかし、彼女の亜麻色の美しい長い髪と若干アジア系の入り混じった顔付きは、現在このベルリンに多く居住する人々の中にいても目立ちそうな形をしている。

 フリードリヒはルドに訊ねる。

「この子が黒豹の中身か?」

「そうらしい」

ルドは少女から目を逸し、フリードリヒの隣で、自分の着ていたコートを脱いだ。フリードリヒはそれを無視して続ける。

「この辺りでもあまり見ない顔だ。少なくとも典型的なゲルマン系には見えない」

「そうだな。俺にもゲルマン系よりかは柔らかそうな――」

ルドは脱いだコートを、絞られたタオルを干す時のように、ばん、と広げた。

「どっちかと言うと、アジアでヨーロッパ系ハーフタレントをしていそうな顔に見える」

フリードリヒは首を傾げる。少なくとも彼にはそうは思えなかったのかもしれない。

 ルドはまるで少女の肢体を視界に入れないようにするかのように、広げたコートで彼女の身体を隠すように覆う。ほ、と息を着くルド。

「どっちにしても、このお嬢さんが今回の豹騒動に関わっているのは間違いない」

「保護するのか?」

フリードリヒが立っているルドの顔を見上げた。ルドもまた彼の顔を見てきっぱりと言う。

「一般人だったらどうする? 現実逃避のし過ぎで幽体離脱してエリュシオンに来てしまう事例は結構あるんだぞ」

フリードリヒは眠る少女に視線を戻す。

 その時、二人の耳元に着いていたイヤホンのスピーカーが呼び出しのアラーム音を叫んだ。鉄血宰相からだ。ルドが通信のスイッチを押して応じる。

「鉄血宰相、どうした? 仕留めたか?」

ルドの言葉に、鉄血宰相は悪びれる様子も無く平然と答えた。


 ――いや、仕留め損ねた。さすが〝月下の狩猟行〟の主――衛戍司令官とその配下、と言ったところだな。


 ははは、と笑う鉄血宰相。ルドは頭が痛くなるのを感じた。それを聞いていたフリードリヒも溜息を着いて、鉄血宰相に訊ねる。

「それで、どうするんだ? 衛戍司令官は無事なのだろう?」


 ――ご心配無く、陛下。


 鉄血宰相は恭しく答えた。


 ――仕留め損ねはしたものの、衛戍司令官はルドに〝月下の狩猟行〟を駆逐されたのが大きかったのでしょう、ティーアガルデンからは配下の方共々退却したようです。勿論、〝月下の狩猟行〟を駆逐されたことによってそれなりにダメージを負ったはず。暫くは派手なことは出来ないでしょう。


 「そうか」

フリードリヒ三世は立ち上がり、今度は逆に自分よりも身長の低いルドを見下ろす。ルドが少し不機嫌そうにフリードリヒを見上げた。

「今回はルドの面目躍如、と言ったところだな」


 ――その通り!


 それを聞いて、ルドはまたフリードリヒからそっぽを向いてしまった。

「それよりだ」

ルドはわざとらしく大きな声を出して言う。

「衛戍司令官の〝月下の狩猟行〟の件については、また夜明け以降、鉄血宰相が対応してくれ。対応策は任せるが、なるべく平和的に。得意だろ?」

ルドの言葉に、鉄血宰相は自信有りげに「任せろ」と返事した。ルドは首肯して続ける。

「それと、こちらでも思わぬ拾い物をした。それについても昼以降、こっちで何とかする」

ルドは目の前の、自分のコートに包まれた亜麻色の髪の少女を見遣る。彼女は、自分がどんな状況下に置かれているのか知ってか知らずか、安らかに眠りに就いていた。

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