黒山羊塔

豹狩り(中編)

 ベルリン軍事大学はフリードリヒ大王の時代に建設された、裏に庭を擁するE字型の広壮な建物だ。十九世紀初めの頃は軍事大学の前身にあたる士官学校と軍事省の一部の施設が入っていたらしいが、今回、豹狩りの邪魔をした二人の将校がベルリン衛戍司令官とこの大学の校長を務めていた頃は、全ての建物を大学で占有するまでになっていた。

 顔に決闘で負った傷の残る大学生時代の時分の姿をしたビスマルクは、何故か十九世紀の重厚な煉瓦の風景の中を平然と通過して行くファストファッションの現代人の群れの間をすり抜けながら、軍事大学の施設の一部が建つブルク通り十九番地へ踏み込む。

 そこは図書館や大学職員の執務室を預かる施設が立っているだけあって静かだった。時々現代の鉄筋コンクリート造の風景の中から自動車のクラクション音が聞こえる他は、官庁街の中にあって木立の間を風の抜ける音と川のせせらぎくらいしか感じない。

 そんな物悲しさすら覚える風景の中に建つロココ調の棟の扉を、ビスマルクは叩く。流石、軍人が教授として詰めている大学だ。扉は若い、副官らしい将校によってすぐに開かれた。

 その青年はこの十九世紀前半の風景に見事に収まっているにも関わらず、現代ドイツ陸軍の勤務服――開襟の明るい灰色の上衣、ネクタイを締め、濃灰のズボンと編上げ半長靴を履く――を着用している。ただ、帽子の他、肩章や襟章の類を全く着けていなかった。

 それ以上に、彼の顔の造りや表情、動作や雰囲気までもが気持ち悪い程の違和感を放っている。湖水の青を映す鋭い瞳に鳶の翼のような焦茶色の髪という組み合わせ、そして色白を通り越して蒼白な顔は、まるで実在の人物をうっかり真似しきってしまった陶器の人形のような印象を与えた。

「カール・ゴットリープ」

扉を開けたきり、無表情のまま突っ立っている軍事大学校長の副官を、ビスマルクはそう呼んだ。

「朝方訪問の連絡を入れたオットー・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼン侯爵だが、カール・フォン・クラウゼヴィッツ将軍はいらっしゃるだろうか?」

「ええ、いらっしゃいます」

カール・ゴットリープは表情一つ変えずに酷く無愛想な返答をし、ビスマルクを建物内へ招き入れる。

「グナイゼナウ元帥閣下と、〝剛毅〟の魔法使い、そして軍事大臣閣下と第三代参謀総長閣下もポツダムからお越しです」

「おお、それは都合がいい」

建物の内装はロココ様式の華麗な外見と打って変わって、ビーターマイヤーの装飾の少ない質素な雰囲気で統一されていた。

カール・ゴットリープはビスマルクを無言で先導する。彼は建物に入ってすぐの、廊下もそんなに歩かない距離にある扉をノックした。

「クラウゼヴィッツ将軍閣下」

その呼び掛けは、ビスマルクには先程の自分への挨拶よりも敬意や親愛が感じられた。扉の向こう側から「何?」という、将軍というよりは少々少年じみた声が聞こえた。カール・ゴットリープは扉の向こうの相手へ続けて話し掛ける。

「オットー・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼン侯爵閣下がいらっしゃいました」

「通していいよ」

「失礼します」

カール・ゴットリープは許可の声を聞くと、その扉を恭しく開けた。しずしずと会釈をしつつも、ビスマルクには部屋の中へ入るように威圧しているように見える。ビスマルクは眉を顰めつつ唾を飲み込み、部屋の敷居を跨いだ。

 その部屋は応接室と言うよりは執務室のようだった。大きな本棚に分厚い書籍が所狭しと並び、部屋の隅を書類が山盛りになった机が占領している。部屋の中央に配置された、客を持て成すというよりも待たせるための使い古されたテーブルを囲むように、男性四人と若い女性一人が、椅子やソファに座ってコーヒーを嗜んでいた。

 彼らもまた軍人なのだろう。カール・ゴットリープと同じように、現代のドイツ連邦軍の勤務服風の制服姿だ。

 しかし、彼らとカール・ゴットリープの制服には、大きな違いが見受けられた。彼らの制服には軍での階級を示す肩章と襟章がきちんと着いており、古めかしい物ながら、勲章の数々が胸元を飾っている。特に、男性四人の濃灰のズボンの側面に鮮紅色のラインが走っているのが目を引いた。ビスマルクはそれを見て息を飲む――この鮮紅色のラインを引くことを許されているのは、選抜された精鋭である参謀将校という、極々一部の人間しかいないのを彼は知っている。

 ビスマルクは帽子を身体の前に当て、彼らに向かって頭を下げた。

「皆様、オットー・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼン侯爵が参上しました」

「ああ、侯爵。こんにちは」

そう言ったのはサラサ模様のソファに掛けている、カール・ゴットリープと同じ鳶色の髪の、部屋の中にいた男性陣の中では一番若そうに見える将校だ。彼は立ち上がるとビスマルクの元へ歩いて行き、挨拶代わりに握手をする。

「ようこそ、ぼくの邸へ。席が少なくて申し訳無いんだけど、適当に掛けてくれ」

少将であることを示す肩章を着けた将校――カール・フォン・クラウゼヴィッツは、外向き用の笑み――少なくとも、ビスマルクにはそう見えた――を浮かべて言うと、先程まで座っていた位置へ戻った。

「はあ」

 ビスマルクはそう返事をするが、席はもう既にソファのスペースを合わせて二人分しか空きが無い。それも、この部屋の入口に一番近い、楕円形を描くテーブルの最も角度のきつい部分に当たる丸椅子か、ビスマルクよりも大分年上に当たるだろう軍人に挟まれるしかない場所だ。

 ビスマルクは冷汗が頬を一滴滑り落ちるような錯覚に襲われながら、視線だけをその二つの間に行き来させ――結局、丸椅子に落ち着くことに決めた。

「では失礼します」

一言断りを入れ、彼は丸椅子に腰掛ける。予想通り、全然落ち着かない。

 ビスマルクは帽子を膝の上に置き、正面を向く。すると、先程の副官ことカール・ゴットリープが彼に面するテーブルのスペースに、素っ気なく真っ黒いコーヒーで満たされたカップを置いた。見上げると、カール・ゴットリープはこちらを敵意たっぷりな目で容赦なく睨め付けている。途端、

「ビスマルク候」

と彼を呼ぶ声がした。ビスマルクはその落ち着いて波の少ない声の方を向く――ビスマルクの斜め前に座る、こめかみから顎にかけて毛髪を長く生やした元帥が冷徹な目をしてこちらを向いていた。

「コーヒーを飲んで落ち着き給え。そこの戦争論青年のためにもだ」

冷徹な目の元帥――ヘルマン・フォン・ボイエンと言う――は、コーヒーカップを持ってカール・ゴットリープを指すと、そのまま手本を示すようにカップに口を付けて啜る――何か気に入らなかったのだろうか、ビスマルクにはボイエン元帥が顔を顰めたのが見えた気がした。

「しょうがない、昨日の今日だからな」

ボイエン元帥の隣、ビスマルクの向こう側に圧倒的な存在感を以って座っている獅子のような大将がにやりと笑って言う。

「愛する父上と伯父上を殺しかけた人間が平然と現れれば、俺だってこうなるさ」

獅子の如きカール・フォン・グロルマン大将の言葉に、サラサ模様のソファ――クラウゼヴィッツ少将の隣に座っている、ボイエン元帥と同じ階級の、湖水の青を映す瞳の将校が眉を顰める。コーヒーカップをテーブルに戻し、グロルマン大将に一言。

「だから、俺は彼の伯父ではないと何度も――」

「伯父上」

カール・ゴットリープが彼の言葉を遮るようにきっぱりと言い放った。『伯父上』と威圧感たっぷりに呼ばれた元帥――アウグスト・フォン・グナイゼナウはぐったりとして額を押さえる。

 そんなことも構わず、カール・ゴットリープは続けてクラウゼヴィッツ少将のほうを向き、

「クラウゼヴィッツ将軍閣下」

と呼ぶ。クラウゼヴィッツ少将は平然とした態度で、彼に、

「何?」

と問う。

「他には何か御用など御座いますか?」

「無いよ。また用事が出来たら呼ぶから、居間で待機しておいで」

クラウゼヴィッツ少将はそう言うと、ビスマルクが入ってきた扉とは別の、この部屋から直接繋がっている隣室へのドアを指した。カール・ゴットリープはそれを見ると、踵を鳴らし、

「Jawohl(了解しました)」

彼は言うと、クラウゼヴィッツ少将に向かって深々と頭を下げ、居間に繋がる扉から出て行った。

 「それで」

と、カール・ゴットリープが執務室から出て行ったのを見た、ルドと同じか少し若いくらいの外見の女性――ビスマルクから見てテーブルの奥の方、クラウゼヴィッツ少将の正面の椅子に陣取っている――が切り出した。

「侯爵がいらっしゃったということは、ルドはここには来ないということでよろしいのでしょうか?」

明朗で清々しい声。女性はビスマルクの視界に入るには長身、そして大柄な男性陣に遮られる位置に座っているせいか、前傾姿勢で覗き込むようにして彼を見る。ビスマルクはやっと調子を取り戻しつつある様子で、

「はい」

と返事した。調子を取り戻しつつある、とは言え、年長の軍人達に囲まれているせいか、ぎこちない丁寧語を使ってはいたが。

「ルドはこれから我らがフリードリヒ三世陛下と共に、ある身元不明者に会う予定です。数時間後には政府高官との会議もスケジュールに入っていたかと」

「あら、そうだったかしら……」

首をまるで王侯貴族のように上品に傾げる女性に、ビスマルクは言う。

「何しろ、我らがベルリンの〝運命の輪〟は全ドイツの魔法使いの頭取。意外にも日程の密度は我ら政治家にも引けを取らぬほどですよ、ポツダムの〝剛毅〟殿」

「あらまあ――」

ビスマルクの『ポツダムの〝剛毅〟』という呼び方に、女性は驚いたように口元に手を当てた。

「ウーリと呼んでくださいな、ビスマルク=シェーンハウゼン侯爵! 貴男だって、有事以外で『鉄血宰相』と呼称されるのは嫌でしょう?」

「全くです」

ビスマルクは大袈裟に首肯する。

「次から気をつけましょう」

「ありがとうございます、侯爵」

そう言うと、軍服の女性――ポツダムの〝剛毅〟ことウーリ――は、隣に座っていたグロルマン大将と、そのまた隣のボイエン元帥に目配せをした。彼女が二人に合図を送ると、二人は席を立つ。彼女もまた腰を上げると、二人と入れ替わるようにビスマルクの隣に着席し、二人もまた位置をスライドして席に着く。

ウーリはグロルマン大将とボイエン元帥が落ち着いたのを確認すると、ビスマルクのほうを向いて言った。

「では人数も揃ったことですし――昨夜の出来事をお教え頂いてもよろしいでしょうか?」

 ビスマルクは、こちらを向いたウーリの表情に目を疑った。

 ウーリは身に纏う濃灰の勤務服と白いロングスカートの軍服という衣装の通り、女性で、ポツダムの〝剛毅〟の称号を持つ魔法使いでありながら軍人然としている。背筋を伸ばし、胸を張り、堂々と構えるその姿は、実にプロイセン的で軍人的だ。その印象は、長い黒髪を後頭部の高い位置でシニヨンにし、口を固く結んでいることからも伺える。しかし女性らしさを隠し切れずにいるのは、目元が切れ長ながら大きくぱっちりとしているせいだろう。

 それらを踏まえても、ウーリの表情は恐ろしかった。

 ウーリは美しい、女性らしい微笑みを浮かべてはいたが、その春の青空のような大きな瞳が、ぎろりとこちらを見下しているように見えたのだ。見下し、容赦無く対価交換を求めてくるような。

 ビスマルクの思うに、きっと、こちらがそちらを信用する代わりに、そちらもこちらを信用せよ、と言いたいのだ。

 酷い押し付けだとビスマルクは思った。

 ビスマルクは、この娘の養育係をしていただろうエリュシオンの住人を思い浮かべると、彼らに向かって、お前ら、子育てに失敗しているぞ、と心中で毒づいた。ちらりと、迫ってくるウーリの向かい側に座るグナイゼナウ元帥とクラウゼヴィッツ少将を横目で見る。グナイゼナウ元帥の困り顔と、クラウゼヴィッツ少将がジト目で外を眺めているのが目に入った。苦労をしているのはお互い様なのかも知れない。

 ビスマルクはウーリに視線を戻し、

「構いませんよ」

と答えた。

「元からそのつもりで来たのです。が、こちらも今回の件に関して、そちらの意図やお考えを訊ねても?」

「ええ、構いませんわ」

ウーリもにっこりと笑って返事をする。

「こちらも貴男がた――ベルリンの〝運命の輪〟の側に変な誤解をされているようでは厭ですもの」

その言葉に、ビスマルクはウーリと参謀将校達に、昨夜の狩りの顛末について説明を始めた。


   *


 「昨夜、我々――ルドとフリードリヒ三世陛下、そして私を含めた三人は、一週間程前からベルリン=エリュシオンを荒らし回っていた豹型の悪性エーテルを狩りにティーアガルデンへ赴きました」

「ルドが?」

ウーリはビスマルクの発した言葉を反復した。何か腑に落ちないことでも言われたように、眉間に皺を寄せている。

「私も豹の形を取ってベルリン=エリュシオンを荒らし回っているという悪性エーテルの話は聴いていましたが――それはルドが配下の魔術師達にやらせたのではなかったのですか?」

「はあ、残念ながら」

ビスマルクは肩を竦めた。

「豹の姿で噛み付く引っ掻くの他、地面から湧いて出た槍に突き殺されかかったり、突然発光して目を晦まされたかと思えば見覚えのない場所へ飛ばされたりなどと、予想以上に強力な相手だったらしいと皆申しておりました。なのでルドへ選手交代を余儀なくされまして」

 「ごめん、ちょっと質問が」

ウーリとビスマルクの会話の横から、クラウゼヴィッツが手を挙げた。講義を受ける学生のような挙手に、グナイゼナウが、

「はい、クラウゼヴィッツくん」

と講師に倣って応える。しかしクラウゼヴィッツはグナイゼナウのそれには構わず、自分のほうを向いたウーリとビスマルクに向かって訊ねた。

「ぼくはまだベルリン=エリュシオンに来て日が経っていないから分からないんだけど、悪性エーテルって何?」

ビスマルクはその言葉に引っ掛かりを覚えた。しかし魔法使いであるウーリはそれに気付かなかったのか、クラウゼヴィッツの質問に構わず回答する。

「悪性エーテルとは、このエリュシオンに存在して、エリュシオンのみならず生者の暮らす現世にも悪影響を及ぼすエーテルのことです」

そう説明するが、クラウゼヴィッツはまだ腑に落ちない顔をしている。見兼ねた様子のボイエンがウーリに言う。

「ウーリ、すまないがエーテルのことから説明してやったほうがいい」

「え……」

ウーリは自信無さげな顔になった。首を捻り、考えあぐねた様子で唸るように溜息を着く。

「そもそも、エーテルというものは人間の感情、思考、記憶を元素とする、エフェメラの同素体です。例えるなら、エーテルが黒鉛――鉛筆の芯ですね――で、エフェメラがダイヤモンド、といったところでしょうか」

ウーリは手を空に差し伸べ、緩く掌を広げる。途端、その掌の上で粉雪のような結晶がふわふわと踊り始めた。空気中に舞っていたエフェメラの結晶を、ウーリが己の魔力で以って集めているのだ。

ウーリは続ける。

「エフェメラはこの通り、普段は結晶や鉱物の姿をしていますが、何らかの、そう、例えば魔法使いや魔術師の魔力や、貴男方エリュシオンに棲まう死者達の念などの霊能力が加わると、こうして人間の形を成したり、建物や武器などを模倣するのです」

 「その説明、時々聴かないとオカルトみたいに思ってしまうなあ」

グロルマンが伸びをしながら言う。

「昔から魔法や魔術の技術は身近だったが、技法の多くは企業秘密だもんな」

「私は」

とボイエンが口を開いた。

「技法を説明しても感覚や生来の才能に頼る部分が多すぎて再現不能に陥るのがオチだと思うぞ」

「確かに、エフェメラの使い方を教わった時は『理論を読むよりも勘と想像力があれば何とかなる!』みたいな言い方はされたけど」

 「それでウーリ」

クラウゼヴィッツは、またも自分の先輩達の会話を無視してウーリに話しかける。

「話を戻すけど、人間の感情、思考、記憶を元素とするエーテルが悪性になるとどうなるの?」

 ビスマルクはクラウゼヴィッツの態度にカール・ゴットリープとの共通点を見た気がした。

 ウーリは「はい」と返事をして答える。

「エーテルはエフェメラの同素体なので、元素は同じなのですが性質に違いがあります。エーテルはエフェメラとは逆に物体の模倣は不得手で、形の一定しない――概念にも近いエネルギーを増幅させるほうが得意なのです。燃料から人間の感情まで、エネルギー的なものなら何でも、と言っても過言ではないでしょう」

「ああ、なるほど」

ウーリの説明を聴いて、クラウゼヴィッツはやっと合点が行ったようだった。膝を叩いて確認する。

「悪性エーテルはエネルギーの中でも人間の良くない感情をより増幅する性質を持ったもの、ということか」

「その通りです、クラウゼヴィッツ将軍」

ウーリが笑顔で首肯した。

 「それで」

とビスマルクが先程の話を続行する。

「部下の魔術師では手酷くやられてしまう豹をルドとフリードリヒ三世陛下と私とで退けたのが昨夜なのですが、その狩りの最中に〝月下の狩猟行〟が現れまして」

ウーリが驚きで目を丸くするのを、ビスマルクは見た。ウーリはぐるりと首をグナイゼナウのほうに向ける。ボイエンとグロルマンも視線を彼へ向かわせた。ビスマルクは平然と構えるグナイゼナウとクラウゼヴィッツを見て言う。

「貴方がたでしょう? 〝月下の狩猟行〟を差し向けたのは」

「そうだよ」

ビスマルクの言葉にクラウゼヴィッツが即答した。

 クラウゼヴィッツはそう答えながらも、ソファに背を預けたまま、緊張感の無い姿勢を続けている。ビスマルクは彼らの様子を冷静に伺っている。むしろこの部屋の中で一番狼狽えているのは話を切り出したウーリだ。

 クラウゼヴィッツは続けて言う。

「ぼくがグナイゼナウ元帥に〝月下の狩猟行〟を出撃させるようにお願いした」

「本当に?」

「そうだ」

ビスマルクの問いに、グナイゼナウがクラウゼヴィッツの言葉を継いで答える。グナイゼナウはビスマルクのほうに向き直る――一瞬、彼の瞳が湖水の蒼を映して光ったように見えた。

「〝運命の輪〟がティーアガルデンで狩りを行っていた昨夜の同時刻、この周辺でも奇妙なことが起きていたからな」


   *


 時は遡ること昨夜。ベルリンの〝運命の輪〟ことルドと、〝鉄血宰相〟オットー・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼン、そしてフリードリヒ三世がエルベ軍を駆り出して狩猟を行っていたのと同じ頃。

 ベルリンの東側の中心街、ウンター・デン・リンデン沿いは極めて静かだった。十九世紀の軍隊や、二十一世紀に当たり前の自動車やバスの通りはおろか、人っ子一人通う者はいない。

 いや、寧ろそれが普通なのだ。この街はエフェメラが現在と過去を継ぎ接ぎに模した世界の一部なのだと、このベルリンを守る任に就いているベルリン衛戍司令官であるグナイゼナウは知っている。

 グナイゼナウは生前も就いていた衛戍司令官の任務――その生前とは違って名目的ではあるが――をポツダムの〝剛毅〟の称号を持つ魔法使いであるウーリに与えられて、このノイエ・ヴァッヘを仮住まいとしていた。

 しかし、魔法使いの根拠地はベルリンから離れたポツダムだ。任務は極めて名目的なものである。

 街を守るにしても、既にこの街にその役目を全うするに足る人間は余る程居た。つまり自分が手を出すことは殆ど無い。「厄介払いでしょうね」と彼の相棒――カール・フォン・クラウゼヴィッツは苦笑いしていた。

 そして今日もまた、彼の一日の時間は暇――もとい、平和に過ぎようとしている。

 グナイゼナウは乾いた空気を飲み込みながら、自室に設置された申し訳程度の家具の一つであるソファに寝転がる。小さく電灯に照らされた灰色の天井を眺めて、欠伸を一つかいて目を閉じた。

 その時だ。真夜中のくせに訪問者があったらしい。廊下をダダダと駆けて来る音がグナイゼナウの耳へ飛び込んで来た。

 微睡み掛かっていた目をかっ、と開ける。グナイゼナウは跳ねるようにソファから起き――ようとして失敗した。ひっくり返るように床にどすん、と転がり落ちる。グナイゼナウが床に落下したのと同時に部屋のドアが開いた。

「グナイゼナウ元帥!」

ドアを開けて現れた、ふさふさした茶髪の年若い将校姿の青年が彼を呼ぶ。名前を呼ばれたグナイゼナウは、硬いコンクリートの床に背中を叩きつけて、悶えながら起き上がる最中だ。

 自分の上官の「うう……」という地を這うような声を聞きつけた青年将校は、部屋を覗き込む。――比較的自分の近く、ソファの足元の陰から上官らしき陰を見つけた彼が、半ば呆れた様子で話し掛ける。

「――お眠でしたか、元帥?」

「五月蝿い……」

しかしその声色は、眠気に包まれていたことを言い訳出来ない気怠さが現れていた。寝ぼけ眼のグナイゼナウが、ソファの陰からのっそりと立ち上がる。

「きみも、人の睡眠を邪魔するなよ――クラウゼヴィッツ」

 クラウゼヴィッツと呼ばれた青年将校は、自らの元帥が立ち上がりながらその姿を変えるのを見た。

 今まで現代で流行りの比較的余裕のある、しかしスッキリとしたデザインの形のYシャツと鮮紅色のラインの走る灰色のズボンだったものに影が煙か水のように纏わり付き、十九世紀初め、ナポレオン戦争の頃のキッチリと体格の線が現れるデザインのプロイセンブルーの軍服に変わる。肩章や勲章が一個一個まで再現され、胸元や肩を飾っていく。しかしそれらは見るには惜しいことに、上からマントで覆われてしまった。

 そして今まで訪ねて来たクラウゼヴィッツと同い年位だった精悍な顔にも、歳を刻むように皺が入った。クラウゼヴィッツの目にはもう二十年分は老けてしまったように見える。

 グナイゼナウはひと通り変化を終えたところで、寝転がって少し崩れた髪を再び後ろへ撫で付け、上着代わりのマントをばっ、と広げてクラウゼヴィッツの前に立った。

 グナイゼナウの一連の変化に、クラウゼヴィッツは独り言つ。

「わざわざ老けなくてもいいのに」

 そのクラウゼヴィッツのボヤキに構わず、グナイゼナウは訊ねた。

「それで、一体何があった?」

「蛍が」

とクラウゼヴィッツが言う。グナイゼナウは怪訝そうに、「ホタル?」と反復する。クラウゼヴィッツは一つ首肯した。

「大量の蛍がこの辺り一帯を漂っているんです」

クラウゼヴィッツの言葉に、グナイゼナウは彼を伴い半信半疑で表へ向かった。古しくなりつつある扉を開け、夜の閑散としたウンター・デン・リンデンへ出る。すると、グナイゼナウの目にベルリンには有り得ない光景が飛び込んできた。

 いや、クラウゼヴィッツの言葉で予め想像出来てはいたのだが、あまりにも彼には衝撃的すぎたのだ。グナイゼナウの目には、それは蛍の光というよりも、ガス灯の強い明かりが常に明るいまま目的も持たずにふわふわ浮いているように見えた。

「何だこれは」

グナイゼナウは驚いた様子で呟く。

「どこから湧いて出た? ベルリンに蛍など生息していないだろう?」

「分かりません」

とクラウゼヴィッツは首を横に振る。だが彼は「ですが」と言って博物館島やベルリン軍事大学のある東のほうを指して続けた。

「川向うにはこの蛍のような光の大群はありませんでした。ぼくも大学から「何だかぴかぴかしてるなあ」と思って来たので」

「では少なくともここから以西に発生源がある可能性があると」

「と、考えます」

彼らはノイエ・ヴァッヘからウンター・デン・リンデンの西側を向く。

 彼らよりも西のウンター・デン・リンデン沿いには、フンボルト大学やフリードリヒ大王像、少し前まで東西ベルリンを隔てていたブランデンブルク門が建ち並んでいる。それを越えればティーアガルデンだ。これらのどこかに原因があるのだろうか、そうだとすれば二人では骨が折れやしないだろうか、とグナイゼナウは考え始めた。

 その矢先だった。

「そう言えば」

クラウゼヴィッツが口を再び開いた。

「ティーアガルデンで鉄鴉亭の人々が捕物をしているようですね」

「へえ」

クラウゼヴィッツの一言に、グナイゼナウは眉をぴくりと動かす。表情は変えない。一瞬の出来事だったがクラウゼヴィッツは見逃さなかった。それが『鉄鴉亭』――ベルリンの〝運命の輪〟であるルドの屋号だ――という言葉を含んでいるから尚更だ。グナイゼナウは問う。

「しかし捕物ぐらいどこでやろうと同じだろう? それが鉄鴉亭ならば尚更」

「ところがですよ」

クラウゼヴィッツは畳み掛ける。

「規模がいつもより比較にならない程大きいのです」

「どの位だ?」

グナイゼナウはクラウゼヴィッツに訊いた。興味を持ち始めた様子のグナイゼナウに、クラウゼヴィッツの頬は緩み始めている。

「今回の捕物には〝運命の輪〟が百日皇帝と鉄血宰相を駆り出してのもののようです」

「大規模だな」

グナイゼナウは言った。

「余程手強い相手か」

「下っ端の魔術師では歯が立たない程の相手なのでしょうね。第二軍を指揮出来る百日皇帝がいらっしゃるのですから、間違いなく」

クラウゼヴィッツの言葉に、グナイゼナウはふむ、と顎に触れる。

 考える素振りを見せた自分の上官に、クラウゼヴィッツは訴える。

「ぼくらの任務上、これは〝剛毅〟に知らせなくてはいけないと思うのです。嘗て一つの戦争を揺るがした軍勢が動いているのですから。それに――」

「この奇妙な蛍の群れの発生源があるかも分からない、か」

グナイゼナウはクラウゼヴィッツの言葉を継いで言った。

「――宜しい」

グナイゼナウはそう呟き、首肯すると、「クラウゼヴィッツ」と自分の部下の名前を呼んだ。

「はい」

クラウゼヴィッツは上司であるグナイゼナウ元帥の傍らに立つ。その様子は命令を待つ忠実な部下、或いは冒険の始まりを予見した少年のように見えた。グナイゼナウは彼に向き直り、威厳を持った口調で言う。

「善良なるベルリン市民のため、この奇妙な異変を放置してはおけない。我らはこれからティーアガルデンに偵察に向かう。付いて来い、カール・フォン・クラウゼヴィッツ少将」

「Jawohl, mein Generalfeldmarschall! (はい、元帥閣下!)」

クラウゼヴィッツもグナイゼナウ元帥のほうを向き、踵を鳴らして敬礼した。


   *


 グナイゼナウとクラウゼヴィッツの話にビスマルクは「ははあ……」と漏らし、興味深いとでも言いたそうに彼らのほうに近付く。

「蛍でしたか。それは気付きませんでした」

ビスマルクは言う。

「何せ、どこも光っておりませんでしたもので」

「やっぱり」

ビスマルクの言葉に、クラウゼヴィッツが呟いた。

「やっぱりぼくらにしか見えていなかったんだ」

ビスマルクは怪訝そうな目でクラウゼヴィッツのほうを見る。当のクラウゼヴィッツはそれに気付いていない様子で、隣に座るグナイゼナウに言う。

「グナイゼナウ元帥、やっぱりあれは――」

 その時だ。

「グナイゼナウ元帥閣下!」

クラウゼヴィッツの言葉を遮って、不機嫌そうに肘をついたウーリがグナイゼナウを呼んだ。名前を呼ばれたグナイゼナウ、そしてクラウゼヴィッツがびくりとウーリのほうを見やる。ウーリは今にも舌打ちしそうな剣幕でグナイゼナウに言う。

「――続きを。続きを先にお願いします」

それは『言う』というよりも『命じる』に近い言葉だった。


   *


 グナイゼナウとクラウゼヴィッツは生前の、在りし日のように馬――勿論彼らがエフェメラで自分の記憶を元に再現したものだ――に跨がり、蛍の発生源を追ってティーアガルデンへやって来た。

 既に捕物は始まっていたらしい。ティーアガルデンの敷地に入ると、中心部分を囲うように兵士達が内側を向いて整列している。クラウゼヴィッツが念のため遠巻きに、彼らの陣形を確認する。

「さしずめ、〝逆〟方陣、といったところでしょうか」

偵察から元帥の元へ戻りながら、彼はそう評した。

「〝逆〟方陣?」

グナイゼナウはクラウゼヴィッツの奇妙な表現がよく分からなかったようだ。首を傾げて、戻って来たクラウゼヴィッツの言葉を反復する。

「方陣と言えば、ラ・ベル・アリアンスでイギリス=オランダ連合軍が使用したあの陣形だが」

「今回はその方陣が、内側を向いているんですよ。獲物を囲うように」

クラウゼヴィッツは陣を成す兵士達を指して言った。

 グナイゼナウは溜息を着く。

「本当に狩りをしているようだ、皇帝陛下は」

「壁に兵士を使うなんて、贅沢ですね」

クラウゼヴィッツの皮肉に、グナイゼナウが表情を変えることはなかった。長年の付き合いのせいで、慣れてしまっているのかも知れない。グナイゼナウが返す。

「〝運命の輪〟が部下が失敗を繰り返したせいで、後がないと思っているのだろう」

「気持ちは分かりますが……」

今度はクラウゼヴィッツが溜息を着いた。しかし、先程のグナイゼナウのものとは違う。酷く虚しげな表情で、彼は息を虚空へ吐き出す。

 さて、問題の蛍の行方だ。蛍の群れはこの緑地に入ってからもしっかり浮遊していたし、数も減るどころか倍加してすらいた。

「問題は」

とクラウゼヴィッツが陣の中を指して言う。

「陣の中にも蛍が浮遊していること、そしてその蛍の数は運の悪いことに陣のこちらよりも中のほうが数が多いことです」

 グナイゼナウはクラウゼヴィッツの指すほうを覗くように見る。陣の中は、ガス灯並みの光度の蛍の大群のせいで、彼らにはほんのり、どころか電灯の下にあるかのように思えた。グナイゼナウはクラウゼヴィッツに訊ねる。

「陣の向こう側はどうだ?」

彼らは顔を見合わせる。

「この陣の周囲を半周した先に蛍はいるか?」

「いえ、いませんでした」

クラウゼヴィッツがきっぱりと言って首を横に振った。

「全く」

「一匹も?」

「全然ですよ」

クラウゼヴィッツの答えに、グナイゼナウはいよいよ腕を組んだ。蛍の発生源はこの囲みの中にあるのは明白だった。しかし皇帝陛下をはじめとする人々が狩猟に勤しんでいる。皇帝陛下の邪魔をする訳にはいかない。だが、この兵士達の様子からして、蛍の光が皇帝陛下に見えるとは思えなかった。

 「ところで」

クラウゼヴィッツが口を開いた。

「彼らは何故微動だにしないんでしょうね?」

「何だと?」

グナイゼナウが信じられない、とでも言いたげな表情でクラウゼヴィッツを見る。クラウゼヴィッツは陣を成す兵士達を見ながら、馬に足踏みをさせる。

「この距離なら、この静かな環境でぼくらの会話が聞こえないはずはないと思うんですよ。ですが彼らは何の反応も示さず、姿勢を楽にしようともせず、頑なに陣の中に注目している――おかしいとは思いませんか?」

彼は言いながら、足音も気にせず、馬を陣へ向かって前進させていく。

 グナイゼナウは陣に近付いて行くクラウゼヴィッツを、不安に思いながらも止めなかった。彼の主張する兵士達の行動は、グナイゼナウにも異常に思えたのだ。

 クラウゼヴィッツは馬を兵士達の背中のぎりぎり一歩手前というところで停止させた。当の、敵にも等しい者に背中を取られたはずの兵士は姿勢を変えない。ただ、じっと銃を構え、主人であるフリードリヒ三世の獲物がこちらに来ないかどうかを伺っている。そんな兵士達を前に、クラウゼヴィッツはまた馬を兵士の後ろでうろうろと往来させたかと思うと、彼はいきなり、「わっ」と叫んだ。

「わあぁっ?!」

古典的なサプライズに驚いたのは、背後から叫ばれた兵士ではなく、様子を後ろから見守っていたグナイゼナウのほうだった。それにはクラウゼヴィッツのほうが驚いたらしい。呆れ顔でグナイゼナウのほうを振り返る。グナイゼナウは飛び上がった心臓を抑えるのに必死の様子だった。当然だ。敵に回せば危険な数の相手を前に、腹心の部下があんなことをしたのだから。

「クラウゼヴィッツ」

と彼は部下を呼んだ。呼ばれたクラウゼヴィッツは再び彼の元へ戻ってきた。

「大丈夫ですか? かなり気分が悪そうですよ」

「危険を冒すのも程々にしろ」

「気を付けます」

 「何はともあれ」

グナイゼナウは息を落ち着かせると、クラウゼヴィッツに言った。

「兵士達はこちらが手を出さない限りは何もしないわけだということは分かったな」

「はい。ですが、それが助けになるかどうかは微妙です」

クラウゼヴィッツが答える。

「兵士達の壁を越えることは出来ませんし、かと言って強行突破しようとすれば切り抜けるなり振り切るなりは出来ても、鉄鴉亭の人々には絶対に気付かれます」

「下手すれば拷問かもしれませんね」とクラウゼヴィッツはぞっとしない一言を付け加えた。

しかし、そうクラウゼヴィッツが言っている最中に、今度はグナイゼナウが進み出る。彼の瞳が湖水の色に光るのを、クラウゼヴィッツは見逃さなかった。

「〝月下の狩猟行〟ですか? 元帥」

クラウゼヴィッツがグナイゼナウに訊ねる。その口振りは確信を得て言っているように聞こえたが、しかし、心配をしているようにも思えた。

「見つかっても大丈夫なんでしょうね? 水を被ったら危ないんでしょう?」

その問いに、グナイゼナウはクラウゼヴィッツのほうを振り返った。彼は被っていた二角帽を取ると、クラウゼヴィッツに言った。

「もしもの時はきみがバックアップしてくれ。頼りにしているぞ、我が低ライン方面軍参謀長殿」

そう言いながら、グナイゼナウは兵士達の背中を越えた陣の中を見通すように、目の前に集中する。取った二角帽を振り、前進の指示を出す。

 その時。彼らの足元の影がぐにゃりと歪んだ。月に照らされ、くっきり映しだされた影が、千切れるようにして散っていく。

 途端、その千切れた影がひゅっ、と兵士達の足元を弾丸のように突き抜けた。弾丸は陣の中に侵入すると、火を吹いて地面を焼く。地面を焼く火は炎となり――それは地面を焼く音の代わりに地べたを蹴る音を放ち、燃える四肢と風になびく体毛と化す。

 身体中から炎を立ち上らせる狼の群れ――〝月下の狩猟行〟は、背後に控える主と兵士達には目もくれず、一目散に森の中へと駆けて行った。


   *


 グナイゼナウとクラウゼヴィッツの話を聴いたビスマルクは、失敗――狩場に燃える狼が侵入したことだ――の原因が分かり、溜息を着いて頭を抱える他なかった。

 あの時、侵入者排除と獲物を取り零さないために壁の役を果たすはずだったフリードリヒ三世の第二軍。彼ら全体に神経が行き届いておらず、優秀な兵士達はただの目のない人形の群れと化していたのだ。

 どうしようもない凡ミスに、彼は力ない声で、

「陛下にはよくお伝えしておきます」

と言った。

その隣で、ウーリがコーヒーで満たされていたカップを空にしつつあった。彼女は落ち着いてはいたが、相変わらず威圧感を感じる表情のままだ。ウーリはカップから口を離すと、ビスマルクに訊ねた。

「それで、結局は〝月下の狩猟行〟は排除してしまったんでしょう?」

「はい」

ビスマルクが首肯する。

「ルドが水をぶっ掛けて消火してしまいました」

それを聞いて、グナイゼナウは昨夜のことを思い出しでもしたのか、気分悪そうに小さく身を震わせた。クラウゼヴィッツが隣に座る彼を見て、

「ほらやっぱり」

と呟く。

「だから言ったんですよ。水を被ったら危ない、と」

「ああ。悪かったと思ってる」

グナイゼナウがバツが悪そうに言う。

「あれはすごかったな――すごい水量だった。ルドはああいうのが得意なのか?」

「そうらしいです」

グナイゼナウの質問にビスマルクが答える。

「本人の談では、『俺は〝運命の輪〟だから、大抵のことは出来る』とのことでした」

 ビスマルクは隣に座るウーリに視線を向けた。ウーリはそれを感じたのか、一瞬だけ彼と視線を合わせると、飲み干したコーヒーカップをテーブルの上へと戻す。

「〝運命の輪〟には、ウェイト版タロットカードの絵柄では鷲と天使、雄牛と獅子が描き込まれています。こう――」

ウーリが人差し指で中空に丸を描き、長方形の四つの角に点を打つ。

「車輪を中心に、それら四つが四隅にいるんです」

「四福音史家か?」

グナイゼナウがウーリに訊ねる。彼はそれらが、キリスト教の福音史家であるマルコとマタイ、ルカ、そしてヨハネの象徴であると思ったのだろう。しかしウーリは、

「それだけではありません」

と言って続けた。

「これらはギリシャ哲学における宇宙を構成する要素としての『火地風水』と結び付けられて考えられることもあります。宇宙を構成する四大元素――その中の鷲は水の要素を表していると考えられていますが――を支配するのが、〝運命の輪〟なのです」

ウーリの説明に「へえ」と感心の声を上げたのはグロルマンだ。

「魔法使いはやっぱりすごいな!」

「お前も十分にすごいぞ」

グロルマンの隣に座るボイエンが呟くように言う。

 「それでは」

ウーリがボイエンの言葉を引き継ぐように、ビスマルクとグナイゼナウ、クラウゼヴィッツに言った。

「そのすごい魔法使いに〝月下の狩猟行〟が駆逐された後、蛍は一体どうなったのかをお教えください」


   *


 「――見つけた」

〝月下の狩猟行〟で喚び出した炎の狼の群れ、そのうちの一頭の視界を借りて視ていたグナイゼナウが呟く。グナイゼナウのその言葉に、クラウゼヴィッツが彼のほうをちらりと見た。グナイゼナウが続けて言う。

「豹だ――豹が光っている」

狼の視界を借りる彼は、ついに蛍の大群の中心にあって森を疾駆していた黒い豹を見つけたのだ。蛍がエーテル製の黒い豹を、まるで神や使徒のように神々しく演出しているのを。

「クラウゼヴィッツ」

グナイゼナウが本来の、自らの視界に戻って、クラウゼヴィッツを呼ぶ。グナイゼナウに向き合ったクラウゼヴィッツには、彼のまだ仄かに光り続けている瞳が少し神秘的に見えた。グナイゼナウが言う。

「今視た豹が蛍の発生源だと思うが、どう思う?」

「その可能性は高いかと」

クラウゼヴィッツが答えた。

 その時、クラウゼヴィッツが目を見開き、ばっ、と後方の空を見上げた。

 ティーアガルデンの森の木々、その間隙から見える戦勝記念塔。月の光で幽かに浮かび上がるその塔の頂上が、クラウゼヴィッツには奇妙に、そして先程のグナイゼナウの瞳のように神秘的に光って見えた。

 クラウゼヴィッツは胸の中心に突き刺さるような緊張を覚え、そこから沸き上がるゾッとするような予感を口にする。

「そして恐らく、それが皇帝陛下達の狩りの獲物――」

「なんだと?」

 グナイゼナウがクラウゼヴィッツにそう訊き返した、束の間。

 突然、グナイゼナウの耳を、滝の激しく流れ落ちる爆音が劈いた。彼は驚愕し、咄嗟に耳を塞ぐ。しかし、それは彼の喚び出した炎の狼が、自分の聴覚を通してグナイゼナウに伝えた音だ。耳を塞いだだけでは音は軽減されない。

 それだけではなかった。狼達は自らが思い切り被った途轍もない水の激流をも、主であるグナイゼナウに伝えてきたようだ。クラウゼヴィッツはグナイゼナウが耳を塞ぐのと同時に、頭の上から爪先まで大量の水を被ったように、衣服から滴るほどにずぶ濡れになったのを見た。

 クラウゼヴィッツが叫ぶ。

「グナイゼナウ元帥!」

彼は元帥に駆け寄る。水を被ったグナイゼナウは、前屈みになったまま、体勢を変えなかったのだ。クラウゼヴィッツは馬をグナイゼナウに寄せると、彼の肩を掴んで起こす。

 グナイゼナウは急に水を被っただけでなく、自分のエフェメラを使って喚び出した狼達が撃破されたことで消耗しきっているようだ。呼吸が激しく荒れ――彼の最期を看取ったクラウゼヴィッツには、まさに彼のその時の様子を連想させた。

 クラウゼヴィッツはグナイゼナウに向かって必死に呼びかける。

「グナイゼナウ元帥! アウグスト・フォン・グナイゼナウ元帥!! しっかりしてください!!」

「あ……」

グナイゼナウが小さく声を上げた。

「く……クラウゼヴィッツ――」

「元帥」

クラウゼヴィッツはグナイゼナウの肩から恐る恐る手を離す。先程よりは呼吸の乱れの落ち着いた様子のグナイゼナウは、二角帽に溜まった水を捨てる。息を一つ吐く。

「撤退だ。成果は十分得た」

落ち着いたとは言え、まだ青い顔をしているグナイゼナウが、クラウゼヴィッツに命じた。クラウゼヴィッツは心配顔のまま返事をする。

「はい、元帥――」

 しかしクラウゼヴィッツはまた戦勝記念塔の上から気配を感じた。

 先程とも違う。水で群れを制圧するのとは違う、個を確実に仕留める殺意だ。そしてクラウゼヴィッツは、相手方にそれが可能な者がいるのを知っている。

 クラウゼヴィッツはグナイゼナウに言った。

「元帥。先に行ってください。出来るだけ遠回りで森の中を抜けるようにして、木々の陰を伝うように。殿はぼくが務めます」

「分かった」

グナイゼナウは彼の提案に頷いて答えた。早速馬を転回させる。最後に、グナイゼナウはクラウゼヴィッツのほうを振り向いて言った。

「バックアップは任せたぞ、我が低ライン方面軍参謀長殿」

「元、ですけど」

 そう彼の背中に言う時間も、クラウゼヴィッツには余り与えられていなかった。

 ティーアガルデンの空、戦勝記念塔の上。クラウゼヴィッツはそこから注がれる殺意に向かって思い切り睨め付けると、それに背を向けて駆け出す。

 その瞬間。


 ――August Wilhelm Antonius Neidhardt von Gneisenau――


 自らの元帥の名前が呼ばれたのが、微風が梢をゆする音混じってに聞こえた。クラウゼヴィッツは馬を急停止させ、再び戦勝記念塔を向く。そしてクラウゼヴィッツは、左手の手袋を引っこ抜くようにして取ると、中指の腹を犬歯に当てて強かに囓った。ガリっという音。

「っち――」

痛みに顔を顰めて舌打ちするクラウゼヴィッツ。しかしゆっくりしてはいられない。彼は左手を広げて戦勝記念塔の頂上に向けてかざし、齧った中指の先に意識を集中する。


 ――ヒトの血液には微量ながらも鉄が含まれている。


 クラウゼヴィッツは、その微量の鉄が何倍にも何十倍にも膨れ上がる様を想像する。戦場で消費される血潮が媒介となり、砂埃を被る鉄鋼を呼び起こすその様を。

 彼の左手の中指から、ひた、と血の雫がこぼれ落ちた――途端。その血が磁力に反応した砂鉄のように躍動した。血に含まれる様々な成分や物質が、凝り、空気中のエフェメラと反応し、落下していく中で結晶化していく。結晶が成長して広がり、他のエフェメラを巻き込んで軋むような音を立てた。

 瞬間。エフェメラの軋む音は空気の悲鳴へとすり替わった。血の結晶が周囲のエフェメラと結合し、爆発的に成長し、それは一秒にも満たない速度で戦車の装甲板に化けた。

 装甲板の壁で目の前の風景が陰り、塔が丸ごと見えなくなるのを確認すると、クラウゼヴィッツはまだ血を流す左手中指の先を口に突っ込みながら、グナイゼナウの後を追う。

 帰り道は真っ暗だった。森というだけでなく、先程まで一帯を大量に浮遊していた蛍の群れは、一匹も残さず消え去っていたのだ。クラウゼヴィッツは記憶を便りに森を馬で駆けながら嘆息する。

 ――背後で鉄と鉄のぶつかり合う強烈な音が聞こえたのは、そのすぐ後だった。


   *


 「黒豹――」

ウーリが呟く。顎に触れ、脚を組んだ彼女は、眠るようにも見える表情で椅子に寄りかかった。

 彼女の前に座っているクラウゼヴィッツが訴える。

「結局、その豹は貴方がたによって倒されてしまったようですが――その豹が蛍の発生源になっていた可能性があります」

「しかし」

とビスマルクがクラウゼヴィッツに言った。

「その蛍は一体何なのですか? 少将達はともかく、他の契約者をはじめ、魔法使いにすら視認出来ないのでは、蛍の話は体の良い業務妨害の理由にしかなりませんよ?」

「それは――」

ビスマルクの言い分に、クラウゼヴィッツは言い淀む。彼は奥歯を噛み締めて、ウーリのほうをギッと睨み付けている。ビスマルクはクラウゼヴィッツと瞑目して思考しているウーリを見比べた。

そのウーリがクラウゼヴィッツの視線を感じてか目をぱちっと開ける。

「――『ある身元不明者』」

ウーリが呟く。ビスマルクはその言葉に、内心とは言え、心臓が飛び跳ねたかと思わされた。ウーリが顔を上げてビスマルクに訊ねる。

「その身元不明者とは、この件に関係はあるのですか?」

先程の威圧的な視線で見詰められ、ビスマルクは喉の奥が絞まるような「う」という声を出してしまった。思わず目を逸らす。しかしそれも話を濁すには無駄な努力だということがすぐに分かった。自分とウーリの周囲に控える軍人達の視線全てが、こちらに突き付けられているのだ。


 ――駄目だ。逆らえない。


 元より嘘を吐くつもりは無かったが、ビスマルクは観念した。後ろ頭を掻きながら答える。

「はい」

その答えに少々嬉々としながら、ウーリが更にビスマルクに問う。

「その人は今どこに?」

「ルドと我らがフリードリヒ三世陛下と共にいるはずです」

「そうですか――」

ウーリは既に疲れ気味のビスマルクに向かって止めを刺すように言った。

「侯爵、その人に私も是非会ってみたいわ」

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