先走り過ぎた、と彼は闇の如くどす黒い豹を前にして思った。
彼――ヴィルヘルム・フォン・フンボルトは黒豹の爪の前に倒れたビスマルク親子の服の襟首を引っ掴み、大通りの端、フリードリヒ三世陛下が展開したプロイセン第二軍が守る歩道の上に引っ張って連れてこようと、道のど真ん中に飛び出したのだ。
だが、それがいけなかった。目の前の獲物を一旦は倒したことだし、敵はもうここを通過して森を目指すだろう――その考えと、持ち前の向こう見ずが祟ったのだ。フンボルトが気づいた時には、既に自身の姿を堂々と敵の前に晒していた。
「や――」
やば、という現代人が圧縮した言葉すら、彼の喉から出る隙が無かったようだ。なんとか締まった喉から一音が漏れ出たと同時に、豹は飛び上がり、目を丸くし、冷や汗を流しながらも微動だに出来ない彼に爪を立てんとする体勢になっていた。
どうして、こういう時に限って時間とはゆっくりとした速度になるのだろう? フンボルトはそう呪いながら、黒豹の爪が我が身に届く時を潔く待った。
しかし、その時は来なかった。爪が自分の纏う肉を裂く音よりも先に、若い男が何かを詠唱する声が鼓膜を震わせ――気付けば自分の身体が宙に放り投げられ、空を舞っているではないか!
「はぇ?!」
だがそれも束の間。蹄の音に続くように、フンボルトは騎兵姿の男に捕まっていた。
驚きの連続に、フンボルトは首をぐるぐると動かす。と、頭の上から溜息の降ってくるのが聞こえた――短く、洒落っ気たっぷりに口髭を生やした驃騎兵。
「ベルンハルト!」
フンボルトに嬉しそうに名前を呼ばれた驃騎兵は、彼とは逆に小さく怒りを込めた言葉を発した。
「馬鹿ですか、阿呆なのですか貴方は! 敵の存在を確認せぬまま戦場のど真ん中に身を晒すとは!」
「ああ……」
ベルンハルト・フォン・ビューローの怒号に、フンボルトは苦笑する。
「それは申し訳ないと思う……」
言って、彼はビスマルク親子を放置してきたことに気づいた。ビューローの腕の中に収まったまま、フンボルトは先程まで自分がいた地点を確認しようと身を起こそうとする。ビューローが彼の頭を避けようと、身体を傾けながら言い放つ。
「長官! 起きないでください!」
「いや! あそこにオットーとヘルベルトを置いてきたままだ。戻ろう――」
「駄目です、戻れません!」
フンボルトの言うことに反対するビューローは、先程までとは打って変わり、顔色が優れない様子だった。
それを不審に思ったフンボルトは、自分達が乗っている馬の速度が落ちていることに気づいた。思えば、今までも通常の馬に比べて早い速度で突っ走っていたのだ。
フンボルトは自分の頭の中を不安が占めていくのを感じた。予感が正しければ、ビューローは今、危機に陥っているはずだ。エフェメラの過剰使用という危機に。
自分達――既に死亡して、このエフェメラの構成する空間であるエリュシオンのみにしか存在出来ない者――は、エリュシオンの空間と同じくエフェメラで身体を形作っている。エフェメラは魔法や魔術の他、自分達がこの空間で発揮出来る異能力のエネルギーとしても活用出来る――筋力を極限まで高めて怪力を発揮したり、それこそ魔法にも引けを取らないことを行えたりする――のだが、自分達もそのエフェメラの塊であるからこそ、使い過ぎると自分の状態にも影響を及ぼす。今のビューローのように、だ。
自分を宙にぶん投げたのも、エフェメラに頼ったのだろうと思う他ない。馬に乗っていれば尚更、片腕で自分を引っ掴んでエフェメラを高出力にして筋力を高めるしかないのだから。
そう考えているうち、ビューローの顔は青くなっていった。
どこかへ退避せねば。フンボルトは兵士が壁のように連なる歩道を見やる。ビューローはもう限界だった。今度はこちらが冷や汗をかいてぐったりとしている。心なしか髪の毛の色も白くなっていっているような気がした。
フンボルトはビューローの握っていた手綱を掴むと、馬を歩道へ突っ込ませた。兵士はこちらが気にせずとも吃驚した様子でうまく避難してくれた。
ビューローのエフェメラもここが限界だったようだ。馬は歩道に突っ込むと同時に、段差に足を引っ掛けたように転倒し、結晶が砕け散るような光を放って消える。フンボルトはそれに合わせて兵士達の壁の後ろへ転がり込んだ。ビューローはそうは行かなかった。彼は思い切り身体を煉瓦敷の歩道へ打ち付けてしまったのだ。
「ビューロー!」
フンボルトは踵を返すと、ビューローに駆け寄る。ビューローは既に華麗な驃騎兵ではなく、着古したスーツを纏う、げっそりした中年の男だった。