第五幕:異端審問
十二月に入ってずっと、暗い曇天が続いていた。王立ベルリン芸術アカデミーの一室、正面の壁には、そうした闇を振り払うかのように照明で照らされた絵画が二作品、飾られている。ひとつは『シュロス=テーゲルからの眺め』という湖水と森が描かれた風景画、もうひとつは手折られた花を持ったアジア系の女性の肖像画である『ある女性の肖像』であった。それを神妙な心持ちで幸太郎は見つめている。
そう、この二つの作品は幸太郎が自分の実力を示すために制作したものであった。
幸太郎は作品と、審査のために集結したアカデミーの会員たちを見比べながら、かつて現代で受けていた美術予備校での講評を思い出す。あれから幸太郎の中では既に一年以上経過しており、予備校で最下位の位置から成り上がり、芸大に入学出来た当時のことが懐かしい。
今回は幸太郎しか審査対象はいないようだが、それでも大学に入学出来た自分の腕を信じ、心に余裕を持って臨んでいた。
さて、プロイセンの芸術分野を支える、目の肥え、腕を鳴らしてきたアカデミーの会員たちは、皆揃って首肯しているようだった。
「なるほど、デッサンは上手いな……」
幸太郎はアカデミーの会員のひとりがそう唸るのを聞いて、思わず得意気に微笑んだ。未だ評価も受けていないのに気持ちを表情に出すのは憚られたが、しかし嬉しさは抑え切れない。
しばらくすると、会員たちの中で最も身分が高いであろう老人が、幸太郎に向かって結果を告げた。
「デッサンは上手い。よくここまで腕を磨いたと感心する程だ」
「左様」
他の会員たちも異口同音に言う。
「デッサンは画家にとってとても重要なものだ」
「対象の形を正しく捉えることが出来ねば、画家を名乗ることは許されぬ」
幸太郎はベルリンでの成功を確信した。自分の腕が認められたのだ。彼は自分の拳を握り、嬉しそうにアカデミーの会員たちへ「ありがとうございます」と言おうとした。
しかしそれよりも早く、代表者たる老人が「しかし」と口を開いた。
「まずこの肖像画のモデルに得心がいかん。何故このような目の細い中国人なんぞを選んだのだ?」
幸太郎は困惑し、たじろいだ。
「中国人ではありません!」
モデルの選定に口出しされるとは考えていなかった彼は、目を泳がせる。
「ベルリン近郊の日本人村に住む女性です」
混乱して本質を見失った返答をする幸太郎に対して、代表者たる老人は冷酷に言い放つ。
「君の意見は求めていない。君と我らとは趣味が違うようだ」
老人は幸太郎含め、参加しているアカデミー会員たちに残らず聴こえるように大音声を発した。
「芸術家に必要なのは、諸国のあらゆる神話や古今東西の最も優れた詩人たち、哲学、文化遺産などから普遍的概念を抽出し、それを詩的に造形した宗教画や歴史画である。世界に求められているのは、こうした不出来な肖像画や何の寓意も含まれていない風景画ではない!」
代表者たる老人は会員たちのほうを振り向いた。出席者全員に講義するかのように呼びかける。
「美術の純粋な源泉を求めることは、即ち古代ギリシャはアテネに心羽ばたかせ旅することである。アテネに心羽ばたかせ、古代ギリシャ人に倣うことは、我々にとっては偉大な芸術家になるための唯一の道なのだ!」
皆一様に代表者のほうを注視して講義を聴いている中、幸太郎は首を傾げ、眉を顰めていた。文言が難しいが、多分模倣論の話が始まったのだろうことは推測出来た。
代表者は訝しげな幸太郎に構わず、話を続ける。
「諸君らも知っているように、絵画と彫刻におけるギリシャ芸術模倣論には、四つの主要な点がある」
代表者は人差し指を掲げた。
「まず特出すべきは、古代ギリシャ人の自然な肉体の完璧さだ。古代ギリシャの芸術家たちの学校では、この上なく美しい裸の肉体が、我々のアカデミーにおける雇われモデルには到底望めないような、実に多種多様な立ち姿や身のこなしを見せた。我々ドイツ人の中で最も美しい肉体も、最も美しい古代ギリシャ人の肉体と比較するなら、見劣りしてしまうだろう」
代表者は幸太郎の描いた肖像画を指して言う。
「ましてや、あのような貧弱で目も細い中国人の肉体など、比べるまでも無いのだ!」
幸太郎は、技術とはまるで関係の無いところで絵を貶され、顔を顰め、片足でコツコツと床を叩いた。
「また古代ギリシャでは、全てを自然のままに制作したし、そうするよう厳格に監督されてもいた」
再び代表者が幸太郎の描いた肖像画を指す。
「しかしこれはどうだろうか? この腕の角度はわざとらしいし、頭がこちらを向いているのも不自然だ。むしろ、こんなにもデッサンが素晴らしいのに、モデルの姿勢が崩れていることは、とても残念と言わざるを得ない。モデルが古代ギリシャ人の肉体を持ち、自然なポージングであったなら、どんなに素敵な作品であっただろうか!」
代表者の講義に、アカデミー会員たちは揃って同調している。
一方で、やはり幸太郎は歯を食いしばり、代表者を睨め付けていた。代表者の、何としても幸太郎の作品を受け入れないという心意気が透けて見え、うんざりしている。
「最後に……」と代表者は言う。高まった気持ちを鎮めるように、代表者は静かにひと呼吸する。
「ここに居並ぶ者たちが腕を競い合い、必ずやベルリンを再びシュプレー川のアテネとすることを願う……」
代表者はこれで気が済んだのか、踵を返して審査会場を去ろうとした。他の者たちも満足してその後を追おうとする。それらの背中に向かって、幸太郎は反論の声を上げた。
「ちょっと待ってください!」
代表者が部屋の敷居を跨ぐ寸でのところであった。代表者たる老人が首だけで振り返るのを見て、幸太郎は反撃を開始した。
「貴方の言い分も確かに分かる。模倣とは模像を造るために造るもの、まさに術のための術たる美術に相応しい行為でしょう!」
代表者が口元に笑みを浮かべたのが、幸太郎には見えた。自分の論を何処の馬の骨とも分からない異邦人に認めさせたのが、余程気に入ったのだろう。しかしこれでは終わらない。幸太郎は話を続ける。
「しかし、何かを造る行為には、必ず作者の時代性や民族性、イデオロギーが現れることをお忘れではありませんか?! 玄関フロアに展示されている、ナポレオンの肖像画のように!」
反論が予想外の内容だったからなのか、参加者たちは幸太郎の言葉にどよめいた。代表者も幸太郎から目を逸らす。
「そもそも貴方と僕の趣味は違う――その通りかも知れません。貴方がたは従来の模倣論に満足し、造ったものが現物を超える可能性にも気付いていないようだ」
従来の美術論とは違うことを言われて困惑している聴衆と代表者に向かって、幸太郎は決意を込めてきっぱりと言い放った。
「僕は現物を超える作品を造る。貴方がたの模倣論とは相容れない!」
とうとう代表者は焦った様子で急ぎ足で出て行った。他の会員たちも動揺を隠せない様子で退出して行く。
一方で幸太郎は深呼吸をしていた。まさか自分の作品が技術面でないところから批判されたことに、怒り、興奮し、持論を思い切り叩き付けたことに気付いて、落ち着きを取り戻そうとしていた。
すると、静かになった審査会場に、ひとり分の拍手が鳴り響いた。幸太郎が拍手のする方向をゆっくり振り向くと、そこにはシンケルが立っている。
彼は拍手をしながら口を開いた。
「先程の反論、見事だった。普段はあんなふうに作品を貶めないひとだと思うんだが、多分君の作品があまりにも見たことの無い作風だから、戸惑ってしまったのだろう」
シンケルは拍手を止めると、幸太郎に歩み寄る。
「彼はヴィンケルマンのギリシャ芸術模倣論の信奉者なのだ。どうか許してやって欲しい」
シンケルは幸太郎の周囲を歩き回りながら話す。
「それにしても、今回は君の技術と美術に対する考え方を知る良い機会になったよ、カンジキ」
それに答えようとする幸太郎は、しかし気まずそうに表情を曇らせている。
「ダッ、あの……シンケルさん……」
そうして気まずさを取り繕うとしている幸太郎を、シンケルは制止した。
「君も分かっていると思うが、発表しないひとは芸術家ではないし、誰をも対象とせずに発表するのは好事家のやることだ」
シンケルは幸太郎の描いた二作品を指して言う。
「これらは我々の知らない誰か――例えば、未来の誰かに向けて描いたのだろうと思ったが、どうだろうか?」
シンケルが言葉を紡いでいる間、幸太郎は青ざめて、冷や汗をかいていた。握った掌から発せられる汗が滴り落ちるかと感ぜられる。
彼はシンケルの考えに対して、心の中で弁明していた――すみません、その二作品はただ描きたかった題材で描いたものです、好事家以下です、僕の自慰の結果なのです!
それすらも、シンケルに見透かされているだろうと、幸太郎には思えてならなかった。
幸太郎は心の中で弁明を続ける――しかも肖像画は、本当はモデルにカズモリ様をお願いしたかったけど、出来なかったからまきさんに代わってもらったんです、僕は悪い奴です!
だがシンケルはそんな弁明など聞こえない。先程の幸太郎への問いの答えを待たずに言葉を続けた。
「だが職業としてやっていくためには、必ずパトロンのために絵を描かねばならない。私としては、君がどのような趣味で、時代性や民族性、イデオロギーを持っていようと構わないと思っている。その技術で善い絵を描き、パトロンに貢献してくれるならね」
シンケルは幸太郎に向かって手を差し出した。幸太郎は彼の表情をゆっくり覗く。その顔には同じ美術の理想を追い求める仲間に向けるような微笑みが湛えられていた。
「これから仲良くやっていこう、カンジキ」
幸太郎は不満と罪悪感を感じる作品で以って仲間に迎えられることに絶望を感じた。いっそ拒絶されたほうが良かったとすら思いながら、掌を濡らした汗をズボンでゴシゴシと拭う。
彼は緊張で震える手でシンケルの差し出された手を握った。必死に繕った作り笑いを浮かべて答える。
「こちらこそ宜しくお願いします、シンケルさん」
*
「ただいま帰りました……」
審査会を終えて、幸太郎はへとへとになってフンボルト邸に帰って来た。玄関ホールは人間の気配が感じられない程静かであった。しかし今の幸太郎にそんなことを気にする余裕は無い。夕食に呼ばれるまで放っておいて欲しいのが本音であった。なので幸太郎は返答が無いことにも気にせず、足早に自室へ向かった。
すぐにベッドに飛び込もうという心持ちで、幸太郎は自室の扉を開ける。
すると見慣れない黒い大型犬が、自室の真ん中に立っているのが見えた。幸太郎は頭を傾げ、太い縁の眼鏡を掛け直す。疲れて変なモノが見えているのではないかと思ったのだ。疲れて隈の消えない目元を擦り、瞼を瞬いてそこを見直した。けれども大型犬は変わらずそこにいる。
更に奇妙なことに、黒犬はその姿をスライムのようにドロドロに崩した。すると溶け落ちるでもなく、形をまた奇妙なものに変えてゆく。山羊の頭の下に人間の女性の胸元が続き、くびれた腰の下にはおとぎ話のように魚の足が現れた。床に手を着いて身体を支えると、昆虫の羽化のように背にコウモリの翼を生やす。
一通りの変態を経た黒犬だったモノを前に、幸太郎は目を見開いた。対する山羊頭の怪物は、その様子を眺めながら山羊のいななきを上げる。さながら幸太郎に嗤いかけているようであった。
「お前は……!」
幸太郎は見覚えのある山羊頭を見て声を漏らした。間違いなく自分が追い求めていたモノ、悪魔である。
対する悪魔も、自分こそが再会を臨んでいたかのように、喜びの声を上げる。
「お帰りなさいませ、神喰幸太郎様! ああ、この時を待ち侘びましたぞ! 一年前、ローマで貴方様に炎に投げ込まれて以来、どんなに苦痛を味わわされてきたことか!」
悪魔は感情を抑え切れず、溢れる思いを止めどなく口にし始めた。
「ある時は教皇庁の取締部門に聖水を引っ掛けられ、ある時は焼印を押され……悪魔としての力をどれ程失い、屈辱を味わわされてきたか……貴方には分かりますまい!」
悪魔が話し続ける間に、幸太郎は構わず悪魔に接近した。両手に抱えた荷物を放り出し、そんな幸太郎の様子に気付かない悪魔の喉元を掴む。
激しい感情を爆発させて、幸太郎は叫んだ。
「そんなことはどうでも良い、僕を元の時代に帰してくれ!」
幸太郎も悪魔に負けず劣らず、震えながら抑えられない感情のままに気持ちを吐露する。
「こっちの時代に来た途端、危ないことばっかりだ! ゾンビみたいなやつに襲われるし、他の悪魔にどこかも分からない山の中に放り出されるし、この前だって理不尽な理由で自死を迫られた! もう沢山だ!!」
「そんなこと言われましても……」
悪魔は幸太郎がここまで激しい感情を抱いていたことに驚いているようだった。
あくまで断ろうとする悪魔に向かって、幸太郎は自分の言い分を必死に押し通そうとする。
「頼む! 元の時代に戻るには、お前の手引きがないと駄目だって言われているんだ! 元の時代も大学に通えないし、マジでクソだったけど、この時代に比べたら何てことはない。こっちに来てからストレスがすごいし、胃は痛いし、何より便秘が酷いんだ。早く帰って久し振りに納豆ご飯が食べたい! 醤油いっぱいぶっかけた豆腐が食べたい! 小口切りの長ネギを沢山使った味噌汁が食べたい! だから早く、早く僕のうちへ帰して! 帰してよ……」
一通り言うと、幸太郎の目から涙が溢れた。小さくさめざめと泣く幸太郎を見て、悪魔は山羊の声で鳴いた。
すると瞬間、山羊の目が見開かれた。幸太郎の肩を揺すって、悪魔は話しかける。
「では命の保障や心身の健康が得られれば、この時代には居て良いということでしょうか?」
「何だって……?」
幸太郎は悪魔の言葉が理解出来なかった。どうしたらこの時代に居て命が保障された上、心身の健康が守られるのだろうか?
悪魔は説明を始めた。
「最初に申し上げましたように、私は〝ある御方〟と、貴方を〝ある御方〟の元へお連れする契約をしております。しかし貴方によって炎に投げ込まれた上、聖水をも引っ掛けられた今、現在の時間より先の時代でお待ちの〝ある御方〟の元へは、直接行けなくなりました。もう時空間移動は使えませんのでね……」
悪魔の台詞に驚きの事実が含まれているのが聞こえて、幸太郎は聞き返した。
「えっ、じゃあ元の時代に戻ることも出来ないってこと?!」
「左様にございます」
悪魔が首を縦に振ったのを見て、幸太郎はがっくりと肩を落とした。
落胆した幸太郎に構わず、悪魔は陽気に続ける。
「ですので、手を組むのはどうでしょう? そうすれば、貴方の安全を保障し、心身の健康をも保てるように努めます。更にあらゆる外国語を貴方の母語である日本語に同時変換し、コミュニケーションを円滑に行えるようサポートします。貴方の望むことなら何でもして差し上げますよ! ね、手を組むのも悪くないでしょう?」
「そんな事を言って、僕をうちに帰さないつもりなんだろう?!」
幸太郎は溢れる感情のまま絶叫した。再び悪魔に掴みかかり、力の限り締め上げる。
「つべこべ言わずに、僕をうちへ帰すんだ、今すぐに!!」
その瞬間、大勢の人間が階段を駆け上がり、こちらへ向かって来る音がした。部屋の扉は開け放したままであった。やって来た大勢の人間が、幸太郎のほうを見る。大勢の後ろから付いて来たフィリーネばあやが、恐ろしい存在を見るように震えながら、幸太郎を指して叫ぶ。
「ああ、異端審問官の皆様、この者でございます! 悪魔と密通し、この屋敷の誇りを穢したのは!!」
「えっ、何?!」
幸太郎はフィリーネばあやに掛けられた言葉に振り返った。彼は自分が置かれた状況にやっと気づいたのだ。フィリーネばあやによって、大勢の異端審問官の前に突き出されようとしている! 幸太郎は動揺した。
また次の瞬間、力の限り締め上げていた悪魔の首の感触が消えた。見れば、悪魔の姿が無くなっている。
異端審問官たちは幸太郎が悪魔に掴み掛かっていたのを認めると、幸太郎に襲いかかった。幸太郎をもみくちゃにしたかと思えば、彼を縛り上げ、追い立てて連行して行く。
「違うんです! 僕はあの悪魔に連れて来られただけの、ただの人間なんです! 離して……!」
幸太郎の叫びがフンボルト邸に虚しく響く。後にはせいせいした様子のフィリーネばあやだけが残されていた。
*
幸太郎が異端審問官に連行されてから数日が経とうとしていた。
正確な日数はとうに数えられなくなっていた。監獄には元より太陽の光は届かず、何時間かおきに獄吏が牢を見にやって来るだけだったからだ。
次に獄吏がやって来た時は、珍しく後ろに異端審問官が付いていた。
異端審問官がやって来たのを見て、幸太郎は背筋を正した。何か重大な話が聞けるのではないかと期待を持ったからだ。異端審問官が厳かに口を開く。
「拷問を用いるに足る十分な理由の存ずることに鑑み、汝コウタロウ・カンジキを拷問に付す」
檻の中にいる幸太郎は審問官を見上げた。彼の瞳には職務遂行に熱心な、冷徹で暗い目をした異端審問官が映っている。幸太郎は冷静に、意気消沈しながら異端審問官に訊ねた。
「拷問を用いるに足る十分な理由とは何ですか?」
審問官も冷静に、理由を指折り数えながら答える。
「ひとつ、汝の捕縛時に悪魔の目撃証言が多数上がっていること。ひとつ、汝が異教徒であること」
「異教徒も異端者扱いなんですね……」
幸太郎は溜息を着いた。
最早何を言っても無駄であろうと諦めてはいたが、まさか異教徒も異端扱いされるとは思わなかったが。
「異教徒は厳密に言えば異端者ではない。しかし異教徒は皆キリスト教に対する呪詛を隠している。日本人とて、その多くはキリストの教えを拒み、その地の教徒のほとんどを殉教させたと聞いている。またブッダのように人間的な欲求を持ったひとりの具体的な人間を神と見做し、魂を無化させるという信仰は、我々には受け入れ難い。それに事実上はともあれ、原理上は神の法は万人に及ぶのだ。異教徒がキリスト教を知らないからと言って、教会が異教徒の処罰を控えねばならない理由は、私には理解出来ない」
異端審問官は淡々と異教徒に対する認識を口にする。幸太郎はこれらの言葉への違和感に、思わず立ち上がり、檻にしがみついて反論した。
「それは……宗教による差別ではないのですか? 僕も他の日本人も、それぞれの主義に従っているだけのこと。それは貴方がたと同じことでしょう?」
「汝の言い分などどうでも良い」
審問官は話の流れを遮って言った。
「大切なのは、汝が悪魔と密接な関係・契約を持ったかということだ」
幸太郎は審問官の後ろを見やった。そこでは獄吏が歪んだ杖の具合を見ているようだ。彼はそれがこれから始まる拷問の準備だと悟った。
審問官は幸太郎に問うた。
「今からでも遅くはない。真実の自白をせよ」
幸太郎は溜息を着いて首を横に振った。
「何度も言っておりますように、僕は悪魔によってこの時代へ連れ去られて来た被害者。契約なんて絶対にしていませんよ」
「そうか。やはり拷問に付す他無いようだ」
異端審問官が手を挙げて合図した。すると後ろに控えていた獄吏がやって来て、幸太郎の牢の鍵を開けた。獄吏が無理矢理幸太郎の腕を掴む。そして幸太郎を立たせると、上半身の着衣を剥がしにかかった。
*
その夜はとても吹雪いた。月も無く、強風が吹き荒れ雷鳴が轟く、暗い夜であった。
そんな中、遅くにシュロス=テーゲルを訪ねる者があった。
鴉のように黒い喪服のような衣装に身を包んだ、濡羽色の髪を三つ編みにした男だ。宮廷人が鬘を被らなくなって久しいが、彼の三つ編みはそれを遥かに超えて長い。それらの格好が、年若い彼の顔を老けさせて見せた。
吹雪と闇とに紛れてやって来た訪問者を、フンボルトは自ら出迎える。
「急にお呼び立てして申し訳無い、鉄鴉屋のリッツ殿」
フンボルトはこの客の顔を見て緊張の解れた様子だった。先程までしこたま吸っていたであろう煙草の臭いが、フンボルトの息から感じられた。対する『リッツ殿』は良い話が舞い込んだ時の商人のように笑って答える。
「いえいえ、この程度平気ですよ。同じくプロイセン王室に仕える仲間のためとあらば、いつでも駆け付けます」
「ああ、大変助かる」
フンボルトは少し気が急いているのか、早口になっていた。続けて言う。
「早速なんだが、今とても困ったことになっていてね……」
「お聴きしましょう」
リッツはフンボルトの慌てた様子にも構わず、落ち着いて話を聞いている。
フンボルトは興奮して話し始めた。
「実は僕の友人が、異端審問官に連行されてしまったのだ」
「ほほう」
リッツはとても興味深そうな反応を示した。
「それはまた何故?」
「その友人というのが、また変わった奴で、自分は悪魔によってこの時代に連れて来られたのだと言うんだ」
フンボルトは困った様子で頭を抱えている。
「実際、その後も悪魔と接触した様子は無かったのだが、家中の者が本当に取り憑かれているものだと勘違いしてね……」
「なるほど……」
一通り話しを聴き終えたリッツが言う。
「悪魔によって連れて来られたことの真偽はともかく、まあ本人がそれを主張しているのであれば、間違い無く拷問にかけられるでしょうね。審問官が納得する答えが得られるまで、数日間に渡って……」
リッツの言葉にフンボルトは震える。フンボルトはリッツの手を握って乞い願うように言った。
「君はこの国の全ての獄吏・処刑人の頭取だ。友人がこれ以上苦しまずに済むよう、根回しして貰えないだろうか? お願いだ……」
フンボルトは頭を下げる。しかし、リッツはフンボルトに握られた手を振り解くと、急に冷たく言い放った。
「それで? 私がそれに協力して何の得があるのです?」
「えっと――」
リッツの豹変に、フンボルトは困惑し、たじろいだ。リッツは重ねて言う。
「知らなかったとは言わせませんよ。〝私のような者〟は漏れなく悪魔のように利己的であることを。ましてや、貴方は私と何の契約関係にも無いのですから、貴方の得になることをタダでなど致しません」
「『契約』……」
フンボルトはリッツの言葉を復唱する。
「この世で君を自由に言うことを聞かせる代わりに、あの世で君の自由に僕を働かせることが出来るという、あの……」
フンボルトは落ち着いて、冷静に、自分に言い聞かせるようにその言葉を呟いた。リッツはそれを見て首肯する。
「そう。もし貴方が私と手を組んで、世間を渡ってみようという気におなりなら、即座に私は甘んじて、貴方の道連れになりますよ。貴方が私と契約を交わしてくれると言うならね」
瞬間、雷鳴が轟いた。雷光がリッツの、悪魔とも道化とも見紛う表情を照らし出す。
フンボルトは震える手を握った。
「どんな証文が欲しいんだ? 青銅か、大理石か、羊皮紙か、紙か……」
リッツは口元を三日月のように歪ませて笑う。
「どんな紙切れでも結構です。ただちょっとこのナイフで掌を切って血を垂らして、それで署名してください」
リッツは懐からペーパーナイフを取り出し、フンボルトの手に握らせた。
「血というものは特別な液ですから」
*
拷問が始まってから三日が過ぎた。杖で何度も何度も打ち付けられた痛みを引きずりながら、幸太郎は再び牢に戻された。
異端審問官が幸太郎の牢に鍵を掛けながら言う。
「拷問はまた明日も継続して行う。次こそ真実の告白をするように」
幸太郎は痛みに疲弊して横になりながらその言葉を聞いていた。もう何を口にしても認めて貰えない諦めから、一言も言葉を発しない。
異端審問官はそれにも構わず、獄吏を引き連れて監獄を去って行った。
人間の足音と気配が遠ざかって行くのを確かめると、幸太郎は横になったまま呟く。
「――おい悪魔。居るなら出て来い」
途端に、山羊の鳴き声が監獄に響き渡った。
驚いて周囲を確認したが、獄吏のひとりもぴくりとも動かない。鳴き声は幸太郎にだけ聞こえたようだ。
山羊の鳴き声に続いて、姿を見せないままの悪魔の言葉が続いた。
「呼ばれるのを今か今かと待っておりました。幸太郎様、ご用件をお伺いしましょう」
幸太郎は横になったまま、囁くように悪魔に話しかける。
「何を言っても信じて貰えない。これでは永遠にここから出して貰えないだろう。僕も命は惜しい。――お前と手を組めば、命と心身の安全を保障してくれるんだったな?」
「はい。他にも外国語の同時変換など、貴方の望むことなら家へ帰す以外は何でもして差し上げますよ。どうです? 私と手を組みますか?」
悪魔の誘惑するような甘ったるい言葉に、幸太郎は腹立たしい気持ちを滲ませながら強く答えた。
「組む。さあ、早くここから出してくれ!」
「かしこまりました、神喰幸太郎様」
悪魔は喜びに溢れている様子で幸太郎の名前を呼んだ。
「私の名前は『炎を嫌う者』と申します、お見知り置きください――」
悪魔の声を聞き届けると、幸太郎は疲労と安心感に任せて眠りに落ちた。
*
人々のざわめく声で幸太郎は目を覚ました。彼が起き上がると、異端審問官が苦虫を噛み潰したような表情で幸太郎を見下ろしている。まるで自分の意にそぐわない状況にでもなったかのようだ。
「――釈放だ」
その審問官の言葉に、幸太郎は驚きで目を丸くした。
まさか、悪魔に頼んだ通りになったとでも言うのか。幸太郎は本当に解放されると思っていなかったので、思わず声を漏らした。
すると、審問官の後ろのほうに居た人物が幸太郎の牢に近寄って来た。フンボルトだ。彼は幸太郎の顔を実際に見て、表情を和らげ、胸を撫で下ろしながら言った。
「やあ、コウタロウ。無事で何よりだ」
フンボルトの言葉が、彼の声そのままに日本語に聞こえることに、幸太郎は気付いた。悪魔は約束を守ったのだ。
「ご主人様……一生会えないかと思いました」
次は、自分が言おうとしていることが、自分の口からドイツ語として発せられていることを発見した。日本語で考えているのにドイツ語で話しているので、考えた文言と口の動きが一致せず、戸惑いもしたが。
フンボルトとの再会の挨拶を済ましたところで、フンボルトの後ろから幸太郎が初めて見る全身黒尽くめの若い男が、獄吏を何やらどやしつけながらやって来た。若い男が幸太郎を指してフンボルトに訊ねる。
「そのひとがご友人のコウタロウ・カンジキですか?」
「そうだ」
今度はフンボルトが、若い男を指して幸太郎に紹介する。
「コウタロウ、このひとはフリードリヒ――」
「フンボルト様!」
名前を呼ばれた途端に、若い男はフンボルトの話しを遮って叫んだ。フンボルトは若い男の意図を汲んで言い直す。
「……リッツだ、コウタロウ。君を助けてくれるよう、便宜を図ってくれたのだ」
幸太郎はリッツのほうを向き、頭を下げた。
「リッツさん、助けて頂き、ありがとうございます」
「このくらい、お安い御用だ」
リッツはまた良い話が舞い込んだ時の商人のように笑って答える。
「さあ、早くこんなところから出よう」
*
一行は馬車で無事にシュロス=テーゲルに辿り着いた。見れば天候も落ち着き、雷鳴も収まっている。
フンボルトは馬車を降りながらリッツに声を掛ける。
「今回は本当に助かった、リッツ」
感謝しつつも、その曇り気味の表情からはこれ以上の関わりを持ちたくない気まずさが伺えた。しかしリッツはまた口元を三日月のように歪ませて笑いながら、
「こちらこそ、良い取り引きをさせていただきました」
と答えた。
「これからも宜しくお願い致しますね」
その言葉に、フンボルトは眉を顰めた。馬車を挟んで向こう側で、幸太郎が降車した音がする。フンボルトは幸太郎に呼びかけ、彼を伴って屋敷の中へ帰ろうとした。
その時、リッツが幸太郎に向かって声を発した。
「コウタロウ! 少し良いか?」
幸太郎はこの若い男と何か話す心当たりが無かったので、首を傾げた。しかし今回教会関連のことで世話になったことから、それについての話しではないかと考えた。
「分かりました!」
幸太郎はリッツに応えると、フンボルトのほうを向いた。
「ご主人様は先に中へ……」
フンボルトは訝ったが、幸太郎の言葉に従った。彼は屋敷の扉を潜る。
幸太郎はフンボルトを見送ると、リッツのほうを向いた。
「リッツさん、何か御用ですか?」
幸太郎がリッツの顔を見ると、彼が豹変していることに気付いた。リッツは口元を歪めてほくそ笑んでいる。
「審問官の拷問には良く耐えましたなあ? 貴方、本当に悪魔が憑いているでしょう?」
リッツの言葉に、幸太郎は思わず口をぽかんと開けた。
何故悪魔が憑いていることが分かったのだろう?
幸太郎は困惑し、声を上擦らせて反論した。
「な、何をおっしゃいますか。僕は嘘なんか吐いていません!」
「では拷問が中断された隙に悪魔と契約したのだ。どっちにしろ、魔法使いから悪魔を隠し通すことは無理だということを分かったほうが良い」
魔法使い! 魔法使いだって!!
魔法使いがこんなに恐ろしいとは思いもしなかった。リッツに威圧され、幸太郎は恐れ慄く。幸太郎は恐る恐る、震えながら悪魔が名乗った名前を呼んだ。
「炎を嫌う者……」
悪魔は幸太郎の影から、ずるずると足を引き摺るようにして現れた。悪魔もまた、不安で怯えている様子だ。
「幸太郎様、私の名前を人前で呼ぶのはお控えください。特に魔法使いの前では……」
「だってえ……」
幸太郎と悪魔が魔法使いに怯える一方で、その魔法使いたるリッツは悪魔を前にして拳を握りしめ、感動に打ち震えていた。
「おお……本物の悪魔だ……!」
リッツは喜びを露わにしたまま、幸太郎に言った。
「コウタロウ、その悪魔を私に売らないか? 言い値で買い取ってやるぞ……!」
「い、いや……」
幸太郎は声を震わせながら答える。
「それは出来ません」
「何故」
リッツの地を這うように低い声に縮み上がりながら、必死に言葉を紡いだ。
「僕はこの悪魔にこの時代に連れて来られたんです。今は帰すことが出来ないとは言われましたが、それでも僕を元の時代に戻すことが出来るのは、この悪魔だけなんです」
「ところで」
と、幸太郎の弁明にも関わらず、リッツは話題を転換しようとする。
「何故私がお前の拷問を止めて解放出来たと思う? 私がプロイセンの魔法使いの頭取であると同じく、私がプロイセンの獄吏・処刑人の頭取でもあるからだ」
リッツは幸太郎にとって驚愕の事実を暴露した。雷鳴のように恐ろしい声色で幸太郎に迫る。
「もし今この取引に応じなければ、お前を国家に仇成す悪魔憑きとして処刑してやっても良いんだぞ……?」
幸太郎にとっては、もう元の時代に帰れる希望を永遠に失うか、再び牢獄に戻って処刑されるかの二択であった。そのどちらもが命がけの極めて厳しい選択だ。
リッツは幸太郎の真っ青になった顔を覗き込む。
「さあ! どうする?!」
その時、闇を切り裂く月光のように公明正大な音声が響き渡った。
「やめろ! フリードリヒ・ブルクハルト・フォン・ローゼンクランツ! 僕の客人にして友人であるコウタロウに危害を加える行為の全てを許さない!!」
フンボルトであった。彼は幸太郎に急いで駆け寄ると、リッツから引き離す。魔法使いは露骨に顔を顰め、舌打ちし、フンボルトから顔を背けた。
フンボルトは幸太郎を自分に振り向かせる。
「コウタロウ、これからは対等な立場で接して欲しい。親しい友人同士、『君』で呼び合おう。『ご主人様』は無しだ」
幸太郎はやっと緊張が解けたようだった。口元を綻ばせて言う。
「ありがとう、ヴィルヘルム」
それを聴いて、フンボルトは幸太郎に微笑んで見せた。
一方のリッツには思い切り睨め付け、フンボルトは幸太郎を伴ってシュロス=テーゲルの中へ戻って行く。
影の中から悪魔が幸太郎に囁いた。
「良いのですか? 幸太郎様。どちらにしろ、うちには帰れませんよ」
幸太郎は自分の影を見下して言う。
「良い気になるなよ、僕は帰ることを諦めたわけじゃないからな」
- この作品は書き下ろしです。
- 2023/09/15:加筆修正しました。